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欧州の秋 (6) ライプツィヒあれこれ [世界]


2018年9月30日(日)

 ドイツのザクセン州ライプツィヒ。その中央駅から歩いて直ぐのホテルで一夜を過ごした私は、簡単に朝食を済ませて荷造りを開始。何しろ今回の行程では欧州滞在中の7泊はいずれも異なるホテルに泊まる予定なので、毎日が引越である。出張に引っ掛けた一人旅も今日までで、明日からは自分の身一つではない。貴重な自由時間を無駄にせぬよう、今日もせっせと歩き回ろう。

 今日は真昼の列車でベルリンへ移動する予定なので、ライプツィヒ滞在もあと3時間強。街の中を気の向くままに歩いてみようか。幸い空は二日続きの快晴。聖ニコラス教会の前の広場はもう賑わっていて、中央に飾られた秋の実りのディスプレイが素敵だ。
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 街の南の方へ行くために、昨日に続いてマルクト広場を通り抜ける。昨夜は気がつかなかったのだが、マルクト広場の前に建つのはライプツィヒの旧市庁舎。その全容を見るためにGoogle Earthの画像をここに貼り付けるが、解説本によれば1557年の竣工で、「ドイツ・ルネサンス建築で最も美しい建造物」なのだそうである。
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(ライプツィヒのマルクト広場と旧市庁舎)

 しかし、「ドイツ・ルネサンス建築」とは聞き慣れない言葉だ。15世紀にフィレンツェで開花したルネサンス建築がアルプス以北の国々へと展開して行ったのは16世紀になってからだそうだが、その16世紀はドイツにとっては宗教改革の混乱期。ルネサンス建築の伝播は散発的なものに留まったという。だとすれば、当時のドイツには数少ない例として、「時代の最先端」の建築様式による市庁舎がライプツィヒに建てられたということは、この街がそれだけの力を持っていたということだろう。

 ところが私たちは中世から近世にかけての、現在のドイツにあたる地域(神聖ローマ帝国)の歴史を殆ど理解していない。英仏のような絶対王政が登場せず、小さな領邦に分かれたモザイク状態がいつまでも続き、神聖ローマ帝国とは名ばかりで「神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらない」などと言われたぐらいだから、よほど好きでない限りはドイツの地域史を追ったりはしないものだ。だから私も、ライプツィヒを含むザクセン地方の歴史を通史的に眺めるなどということはしたことがない。時間がない今は、もう少し大掴みにおさらいをしてみよう。
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(聖ニコライ教会)

 私の息子が高校生だった頃の世界史の教科書を借りてきて調べてみると、こんな記述がある。

 「大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。また1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカからの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。」

 「西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。」
(『詳説 世界史B』2005/3/5発行 山川出版社)

 なるほど、大航海時代というのはスペインやポルトガルだけが好景気に沸いたのではなくて、ヨーロッパの内陸地方も含めて分業体制が出来て物流が盛んになり、インフレも起きたということか。そしてそれが封建領主の没落と商業都市の繁栄をもたらしたという訳だ。

 実は、学校では教わらないことなのだが、12~14世紀にかけて、ドイツ騎士団等によって行われた所謂「東方植民」によって、スラブ人の居住地であったエルベ川以東への植民が進むと、やがてヨーロッパを南北と東西に結ぶ二つの通商路が形成されていったという。バルト海からベルリン・アウグスブルグを経てアルプスを越えローマに至る南北の道はVia Imperii(帝国の道)、モスクワからフランクフルトやパリを経てポルトガルへと至る東西の道はVia Regia(国王の道)と、それぞれ呼ばれたそうだ。そして両者が交差する場所が、何とこのライプツィヒだったのである。
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 それゆえライプツィヒは早くから商業都市として栄え、先ほどその前を通って来た聖ニコライ教会や、「バッハの教会」聖トーマスの原型が出来上がったのが12~13世紀のことだ。1409年創設のライプツィヒ大学は、神聖ローマ帝国内では二番目に古い大学だそうである。

 やがてこの街はザクセン選帝侯(神聖ローマ帝国の国王を選ぶ権利を持つ7人の内の1人)の領地となり、15世紀末には「賢公」と呼ばれたフリードリヒ3世が登場する。カトリック教会による贖宥状の販売を厳しく批判して1521年にローマ教皇から破門を受けたマルティン・ルターをアイゼナッハのヴァルトブルク城に匿ったのが、この賢公だ。以後、ライプツィヒは強固なルター派プロテスタントの街であり続けた。なるほど、それが後にこの街でのJ.S.バッハの活躍へと繋がっていく訳だ。

 さて、マルクト広場から更に南に進むと、高い塔を持つまるで城郭のような建物が現れた。スマホのGoogle Mapを見ると、「ライプツィヒ新市庁舎」と書いてある。1905年に建てられたもので、元はザクセン侯の城があった場所だという。城にあった高い塔をそのまま活かしたというから、道理でお城のように見えるわけだ。
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 実はマルティン・ルターも1519年にこの城を訪れている。というか、ルターを破門へと導くために仕組まれた、高名な神学者ヨハン・エックとの討論がこの城の中で行われたのだ。その席でルターはとうとう「ローマ教皇権は聖書に基づくものではない」と主張したために、問題はもはや神学論争の域を超えてしまった。それが一連の「宗教改革」運動のターニング・ポイントとなったという点で、このライプツィヒ討論は大きな出来事だったのだ。なるほど、私にとっては今回の旅でまた一つルターとの縁が出来たことになる。
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(ルター(右)とエック(左)の「ライプツィヒ討論」)

 それにしてもこの新市庁舎はやけに威圧的で、ちょっと近寄りがたいなあ。地元の人々はこんな所へ住民票の写しを取りに行くんだろうか?
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 その新市庁舎の前の広い道路を渡り、更に南方向へ進んで行くと、またとんでもない建物が現れた。なにやら国会議事堂のような形をしていて、これもまた何とも近寄りがたい雰囲気だ。再びGoogle Mapを見てみると、これはドイツ連邦行政裁判所だという。
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 更に調べてみてわかったのは、この建物は1871年のドイツ帝国の成立後、1895年にドイツ帝国最高裁判所として、ベルリンの国会議事堂と並行して立てられたのだそうだ。道理で権威主義的な姿をしている訳である。その他にも、公立図書館だとか中央警察署だとか、このあたりにはやたらと人を威圧するような外観の建物が点在していた。
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(公立図書館)

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(中央警察署。東独時代は市民にとっておっかない存在だった?)

 このような建物はデュッセルドルフのようなドイツ西部の都市では見たことがない。同じドイツでも西と東では文化が大きく異なるのだろうか。

 街の南の方をだいぶ歩いたので、荷物を預けているホテルに戻る方向に更に歩いて行くと、アウグストゥス広場に出た。その広場の南側は有名なコンサート会場のゲヴァントハウスだ。

 朝からライプツィヒの街中を歩き、ザクセン選帝侯時代の建物やドイツ帝国成立後の建物を道すがら眺めて来たが、このアウグストゥス広場は第二次大戦後、それも今から30年足らず前の現代史と大きな係わりを持っている。
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(Google Earthで俯瞰したアウグストゥス広場。画面上部がゲヴァントハウス)

 1989年11月10日、いわゆる「ベルリンの壁」の撤去作業が始まり、東西の大勢のベルリン市民が壁の上で熱狂している様子を伝えた映像は、まだ私たちの記憶にも新しい。その前日に東独政府が東独国民に対する旅行の自由化を事実上認める声明を発表したのを受けてのことだが、そこに至るまでのプロセスの発火点となったのは、実はライプツィヒにおける市民の自由化要求運動だったのである。

 ソ連でミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカが始まった1985年以降、東欧諸国でも政治の自由化を求める動きが活発になっていたが、その中で最も動きが遅かったのが、「社会主義の優等生」と呼ばれた東独だった。しかし、既に民主化を始めていたハンガリーが1989年5月に国境の鉄条網を撤去すると、チェコスロヴァキア・ハンガリー経由で西側へ脱出する国民が急増。さすがの東独にも動揺が広がった。

 ハンガリーは更に9月に入ってオーストリアとの国境の開放を正式に発表。これに対して東独政府はチェコスロヴァキアとの国境を閉鎖。これが国民の更なる反発を招き、9月25日(月)にライプツィヒで8,000人のデモ行進が始まる。以前から月曜日ごとに行われて来たこのデモは、その二週間後には7万人を超え、10月に入ると10万人規模に達した。治安当局も軍も、もはや鎮圧に乗り出すことはせず、10月17日に国家評議会議長のエーリッヒ・ホーネッカーが解任。東独の民主化は一気に加速して「ベルリンの壁」崩壊に至った。そのライプツィヒの月曜デモが行われた場所が、このアウグストゥス広場だったのだ。
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(1989年10月、ライプツィヒの「月曜デモ」)

 私は今までそういう理解をしていなかったのだが、中世・近世から現代に至るまで、実は中央ヨーロッパの臍(へそ)であり続けたライプツィヒ。実際に足を運んでみると認識を新たにすることがたくさんあるものだ。やはり、旅はしてみるものなのである。
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(アウグストゥス広場の噴水。右後方はライプツィヒ大学)

 さて、予定している列車の発車時刻がだいぶ近づいてきた。ホテルに預けた荷物をピックアップして、中央駅に向かうことにしよう。
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(ライプツィヒ中央駅)
(To be continued)


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欧州の秋 (5) バッハの教会 [世界]


2018年9月28日(土)

 J.S.バッハ(1685~1750)の生誕の地、テューリンゲン州アイゼナッハを14時に出て、特急列車、近郊型電車、そしてトラムを乗り継ぐこと2時間。ザクセン州ライプツィヒ中央駅の駅前に着いたのはちょうど16時だった。日本時間の前日深夜に羽田から夜行便に乗り、ドイツ時間の今朝5時過ぎにフランクフルトに着いたのだったから、それから既に11時間ほど活動を続けて来たことになる。
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(ライプツィヒ中央駅)

 還暦を過ぎた身ながら、何だか学生時代のような旅を始めてしまったが、このライプツィヒでは今日のうちに訪ねるべき場所がある。当地の日没まであと3時間足らず。ともかくも駅前のホテルに荷物を入れて、旧市街へ歩いて行ってみよう。

 ライプツィヒは人口57万人。旧東独のエリアではベルリンに次いで大きい街なのだそうだ。確かに繁華街に出てみると大都市の賑やかさがここにはある。1990年にドイツが再統一されて以降も旧東独エリアは西側に比べて大きな経済格差があったと聞いていたが、土曜日の夕方近くの街中を眺める限りでは、人々は豊かさをエンジョイしているように見受けられた。
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 数多くの屋台で賑わうマルクト広場を抜けて西へと進んでいくと、だいぶ傾いた陽を背にした三角屋根の教会が現れた。その周りには私のような観光客も多いけれど、バギーに乗せた赤ん坊と共に芝生の広場で寛ぐ地元の人々の姿もあって、何だかほっとする光景だ。

 ライプツィヒの聖トーマス教会。私が敬愛してやまないJ.S.バッハが1723年(彼が38歳の年)にこの教会の音楽監督、いわゆる「トーマスカントル」に就任し、幾多の教会カンタータや受難曲などの宗教音楽を世に送り出したのがこの教会だ。それはバッハの生涯で最も長く続いた職場でもあった。
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(聖トーマス教会)

 教会の左手(南側)に進むと、ステンドグラスの窓を背にしてバッハの銅像が立っている。この教会を訪れることは、私にとって本当に長い間の夢だった。今こうして聖トーマス教会の前でバッハの像と向き合っていることが、いまだに自分でも信じられない。
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 音楽家としての彼の名前が既に知れわたっていたからこそ、トーマスカントルのポストへのオファーが来たのだし、就任早々彼は実に精力的に職務に取り組んだのだが、その一途な性格もあってライプツィヒ市のお偉方とぶつかることも少なくなかった。毀誉褒貶は色々あったようだが、その上で今こうして颯爽とした姿のバッハ像が建てられているのは、やはり後世の評価によるものだろうか。
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 南側の入口から教会の中に入ってみると、白色のドーム型の天井とそれを支える朱色の梁が印象的な、祈りの場としては想像していたよりも明るい雰囲気の空間だ。二階の高い位置に据えられたパイプオルガン。あそこでバッハが実際に演奏し、そして聖歌隊を指揮していたのだろうか。
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 席に座ってステンドグラスをゆっくりと眺めていると、キリストの生涯にまつわるエピソードの数々に混じって、バッハとマルティン・ルターの姿がそこにあった。

 ルターという人は歌が上手く、かつ音楽が好きな人であったそうだ。だから新教の中でも、例えばカルヴァン派のように歌舞音曲の類を排してしまうことはなく、むしろルター自身がドイツ語による讃美歌を幾つも作ったという。そして、そうした伝統を持つルター派の教会に奉職することを、宮廷音楽家として既に各地で名声を上げていたバッハが望み、トーマスカントルとしてこの教会にやって来たのだった。そう思うと、時代は二世紀ほど離れてはいるが、共に中部ドイツで活躍したルターとバッハという二人の組み合わせは、人類の音楽史上において誠に幸いなことであったと、改めてそう思わざるを得ない。
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 私は席に座り続け、教会内の空間に身を浸している。「バッハの教会」として世界中から観光客が訪れるこの教会。私はもっと大きな、例えばウィーンの聖シュテファン教会ぐらいの規模はあるのかなと思っていたのだが、想像していたよりもコンパクトな大きさだ。それだけに、ここでカントルを務めたバッハにとっては、手作り感のある演出が出来たのではないだろうか。この空間の中で教会暦に従ってカンタータが歌われ、春の復活祭の前には『マタイ受難曲』が響いていたのかと思うと、私には大きな感慨があった。

 教会の窓から差し込む一筋の午後の光。バッハが活躍していた頃にも、こんな一時があったことだろう。その時、バッハはどんなことを考えていたのだろうか。
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 縦に長い教会の内部。パイプオルガンとは反対側の端にバッハの墓が位置している。カントルとしてこの教会に奉職して26年、1749年の初夏にバッハは脳卒中に襲われて病床に伏した。以前から白内障が進行していたこともあり、視力を殆ど失ってしまったバッハは、翌年3月に英国人の眼科医によって二度の手術を受けたが、いずれも失敗。その後遺症から体力を失い、7月28日の朝、家族に看取られながら65歳の生涯を閉じた。

 その全てが一人の人間による作曲だったと思うとただただ驚くしかない、バッハによる名曲の数々。しかしその晩年には、旋律の主従が明確な解りやすい音楽が好まれるようになっていた。ヨーロッパの多声音楽の伝統を引き継ぎ、対位法というルールを駆使したバッハの作品は古臭いものとして受け止められ、世間からは急速に忘れられていったという。後にメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」の演奏を復活させ、バッハの作品が世の中で再評価を受けるようになるまでには、80年ほどの年月を要したのだった。

 そのバッハが眠る教会内の墓。常に花が飾られている様子は写真で見たことがあるが、この日はその墓の後方に様々な野菜や果物など秋の実りが見事に盛り付けられていた。私たち日本人にとっての墓前のお供えのような概念がキリスト教にもあるのかどうか、私にはわからないが、こんなところにも現代の人々のバッハへの敬意が感じられて嬉しかった。やはりライプツィヒの聖トーマスは「バッハの教会」なのである。
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(バッハの墓と秋の実り)

 いつまでも教会の中でゆっくりしていたかったが、私は教会を出て南隣のバッハ博物館へと向かう。手前にある売店でチケットを買い、中庭を通って奥の建物に入る仕組み。いかにもヨーロッパの趣がある博物館だ。

 ここでの見ものは、何といってもバッハが残した書簡や自筆の楽譜の数々だ。トーマスカントルとして多忙な日々を過ごしていたバッハが、その労働条件の改善を求めてライプツィヒ市のお偉方に宛てた抗議文なども展示されていて、ドイツ語が読めたらきっと面白いことだろう。
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(バッハ博物館)

 そして部屋の壁に沿ってずらりと並ぶ自筆の楽譜。それを見て驚いたのは、バッハが年齢を重ねるほど、音符の筆致が精密になっていることだ。トーマスカントルに就任して間もない40歳頃にもの凄い勢いで教会カンタータを作曲しまくっていた時期のものは、音符をそれこそ殴り書きにしたような印象があるのだが、遺作となった晩年の「フーガの技法」などは、まるで印刷にかけたように精緻な筆跡の楽譜なのである。私も自分の年齢がバッハの晩年に近づいているのだが、歳をとっても仕事はきっちりとこなすところは見習わねばならない。

 バッハ博物館を出ると、外はさすがに日没が近づいていた。暮れて行く街に灯がともる、その様子を眺めていると、遠い異国へやって来たことを実感する。さて、私も夕食にしよう。
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 旧市街の中のレストランで、なるべく分量の小さいメニューを選んだつもりだったが、それでも私には満腹を通り越してしまいそうな量である。けれども、出されて来たものは一昔前の「ドイツ料理」のイメージとは違ってなかなかの美味であったことは、ライプツィヒの名誉のためにも是非付け加えておこう。ゴーゼというご当地のビールのテイストも含めて。
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(ソーセージの付け合わせはニョッキだった)

 私には十分過ぎる夕食を済ませた後、夜景を眺めるためにもう一度聖トーマス教会の前へ足を運んだ。雲一つない快晴の一日が終わり、今日最後の光が消えかかる西の空を背景に、バッハの教会は凛として立っていた。
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(To be continued)


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欧州の秋 (4) ローカルとグローバル [世界]


2018年9月29日(土)

 J.S.バッハ(1685~1750)が生まれた街、ドイツ・テューリンゲン州のアイゼナッハを朝から訪れていた私は、昼を過ぎてから駅に戻り、ライプツィヒを目指して再び列車の旅に発つ。引続きよく晴れた午後、ハンブルグ行きの特急ICE690は定刻通り14:01にアイゼナッハ駅を出て、平坦な地形の中を東に向かって走り始めた。
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(ICEハンブルグ行。日本ではもう見られない食堂車がドイツのICEにはまだ残っている。)

 今朝ミュンヘン中央駅を発って、アウグスブルグ、シュトゥットガルト、フランクフルトを経由してやって来たこの列車、この後はベルリン経由で終点のハンブルグに向かうのだが、そのベルリンへ行く途上でライプツィヒは通らないから、途中のハレという駅で乗り換えが必要だ。従ってこのICEにはちょうど1時間ほどの乗車になる。

 アイゼナッハの旧市街の中を結構歩き回った後だけに、ともかくもこの1時間は指定席でゆっくり出来るのがありがたい。車窓を眺めているうちにトロッとしてしまったようで、ハレ到着前の車内放送で目が覚めた。
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 15:04 ハレ到着。地下道に降りて二つ南側のホームに上がると、Sバーンと呼ばれる都市近郊型の電車が待っていた。日本の電車に比べると厳(いか)つい面構えだ。元々ハレとライプツィヒでは個々にSバーンの運行が行われていたのだが、今世紀に入ってから両者が中部ドイツSバーン(S-Bahn Mitteldeutschland)として統合されたという。従ってSバーンの路線図も一つのもので、路線番号も両者間で統一されている。
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 ドイツ出張の機会を利用して、本来のビジネスの日程よりも早めにドイツ入りし、敬愛するJ.S.バッハゆかりの街を訪ねることにした一人旅。実は、私が列車を乗り換えたハレ(Halle)という街も、バッハとの縁がない訳ではない。

 バッハと同じ1685年にこのハレで生まれた音楽家がいた。管弦楽組曲「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」で有名なゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(~1759)である。音楽家一族に生まれたバッハとは異なり、ヘンデルの父は宮廷に召し抱えられた医者であり、幼い頃から音楽への才能を見せていたヘンデルがその道に進むことを、父は望んでいなかったという。17歳でハレ大学に進んだが直ぐにハンブルグに移り、4年間のイタリア滞在を経て25歳でロンドンに渡り、そこで作曲したオペラが大成功。2年後の1707年には英国に帰化を申請。以後もロンドンに住み続け、オペラやオラトリオの数々で名声を上げ、没後はウェストミンスター教会に埋葬されるという栄誉を得ている。

 そのヘンデルに一度会ってみようと、バッハが面会を申し入れたことが二度あったそうだ。初回は1719年というから二人が共に34歳の年である。当時バッハはハレから6kmほど北へ行ったケーテン(Köthen)という小さな街で宮廷音楽家を務めていた。彼が室内楽曲や器楽曲の分野で粒ぞろいの名曲の数々を生み出していた頃だが、遠くロンドンで名声を上げたヘンデルがハレに帰郷しているとの話を聞きつけて、実際にハレまで会いに行ったのである。ところがヘンデルはその日には既にハレを離れていて、残念ながら面会は叶わなかった。

 二度目の機会はそれから10年後の1729年。バッハは既にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に就任しており、ハレ滞在中のヘンデルに対して息子のフリーデマン・バッハを通じてライプツィヒへの招待状を届けたのだが、ヘンデル側の都合により断られたという。

 という訳で二人の面会は遂に実現しなかったのだが、それにしても同じ年に中部ドイツで生まれながら、色々な意味で対照的な人生を歩んだ二人であったことは興味深い。

 既に述べたようにヘンデルは個人の才能によって音楽家となり、作品はオペラやオラトリオが中心で、故郷のハレから遠く離れたロンドンで成功を収めて広く世界にその名を知られた、言わばグローバルに活動する音楽家としてその人生を歩んだ。他方、生涯を通じて独身であった。

 これに対して、バッハはアイゼナッハの音楽家一族に生まれ、その後もテューリンゲンやザクセン一帯から外に出ることはなく、ローカルな音楽家に徹する人生であった。しかし、その作品群は宗教曲から世俗曲まで、そしてソロの器楽曲から協奏曲まで幅広く(但しオペラは作曲していない)、死別した先妻と16歳年下の後妻との間に計20人の子をもうけている(但し成人したのは10人だった)。
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 こんな風に対照的な二人だが、後世に至るまでの存在感を比べてしまうと、それはもう圧倒的にバッハの方が大きいと言える。二人の没後から既に250年以上が経過した今もなお、様々な演奏スタイルや編曲によってその音楽が人々に親しまれているのは、やはりバッハの作品なのである。

 「バッハ以前のあらゆる音楽はバッハに集約され、バッハ以後のあらゆる音楽はバッハに遡ることが出来る、西洋の音楽史上において余人を寄せ付けない一つの分水嶺である。」

 だいぶ以前に読んだことのある本の中で、或る学者がこんな風なことを書いていたが、それは決して大袈裟な表現ではないだろう。

 ハレで乗り換えた近郊型電車は平地の中を20分足らず突っ走り、Leipzig Messeという駅に到着。ここで降りてそのまま待っていればライプツィヒ中央駅行の別の電車がやって来ると思っていたのだが、降車した人々は皆がホームの階段を降りて行く。そこには乗って来た近郊型電車のガードと直角に交わる形で路面電車の線路があり、もしかしたら東独時代のものをまだ使っているのかな?と思ってしまうぐらいにレトロなデザインの三両連結のトラムがやって来た。
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(Leipzig Messe駅でトラムに乗り換え)
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 係員が誘導していて、Central station方面行きの電車だと英語でも叫んでいる。私はそれなりに大荷物を持ってはいたのだが、混雑したそのトラムに乗車。約20分でライプツィヒ中央駅前の電停に到着することになった。
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 時刻はちょうど午後4時。日没までにはまだ3時間弱あるのだが、太陽の輝きに少し赤みが増していた。
(To be continued)

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欧州の秋 (3) ルターと新教 [世界]


 ドイツのテューリンゲン州アイゼナッハ。「音楽の父」ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の生地として知られるこの街の旧市街に向かって、鉄道の駅から一本道を歩き、石造りの門を潜ってカールス広場に出ると、その中心に立派な銅像が立っている。

 誰かと思って近づいてみると、それはあの「宗教改革」で有名なマルティン・ルター(1483~1546)の像だ。体の左に抱えている大きな書籍は聖書なのだろうか。肩をいからせ、空の一点を睨む堂々たる姿。ルターといえばこんな風に、いつも何かに怒っているようなイメージがあるのだが、それにしても「バッハの街」アイゼナッハになぜルターの像が?
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 1483年にルターが生まれたのは、アイゼナッハから北東方向に100kmほど離れたザクセン・アンハルト州のアイスレーベンという村だ。農民の出身だったルターの父は、その当時鉱山の仕事に就いていたが、勤勉な男で家庭では厳格な「教育パパ」であったらしい。そんな父の期待を背負ったルターは、法律家への道を進むべくエアフルト大学を目指し、そのための準備として1498年から3年間、アイゼナッハの聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだという。それは、ちょうどその200年後に8歳のヨハン・セバスティアン・バッハが入学したのと同じ学校なのだ。

 そしてその3年間にルターが寄宿したという、聖ゲオルグ教会を間近に望む場所に建つ家が、今はルターハウスという記念館になっている。16世紀当時の姿そのままのような建物で、その右隣に建てられた新館から入場することになる。館内にはルターが学んだ頃の机が残されていた。
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(アイゼナッハのルターハウス。右のガラス張りの建物が新館)

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(ルターが学んだ机)

 ここに学んだ後、1501年にルターは望み通りエアフルト大学に入学。哲学を学び、成績は優秀であったそうだ。そして更に法学の道へと進むのだが、1505年の或る日、大学へ向かう途中、エアフルト近郊の草原で激しい雷雨に遭遇。落雷死寸前の体験をする中で信仰に目覚め、父にも無断で大学を離れてしまい、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入門したという。そして早くも翌年には司祭になっている。
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 修道会で祈りと研究の日々を過ごすルターは、やがて新設のヴィッテンベルク大学で神学の博士号を取り、聖書の注解を受け持つのだが、その過程において、簡単に言えば「人間が罪を許され、神との霊的な交わりに入れるのは、善行によってではなく、ただ神への信仰によるのみである」という理解に達したという。「信仰あるのみ」という言葉はここから来ているようだ。
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(マルティン・ルター関連地図)

 その立場からすると、当時ドイツで盛んに販売されていた贖宥状(昔の言葉でいう「免罪符」)の存在-しかもそれは、或る人物が複数の大司教の地位を得ようとしてローマ教皇庁に多額の献金を行うための手段だった-はルターにとって看過し得ないものとなる。このあたりから、学生時代の世界史の授業に出て来たルターの姿がいよいよ登場する訳だ。

 1517年10月31日、当時33歳のルターは、マインツ大司教アルブレヒトが発布した贖宥状販売の「指導要綱」に疑問を投げかけた書簡、いわゆる「95ヶ条の論題」を送る。ヴィッテンベルクの教会の扉に釘でこの書簡を打ち付けた、という風によく語られるが、実際にはそういう事実は確認されていないそうである。
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 ともあれ、かかる書簡を突き付けられたローマ教会側は、1518年にアウグスブルクでルターに対する審問を行うが、彼が自説を曲げなかったために対立は決定的となり、1521年にローマ教皇レオ10世によってルターは遂に破門を宣告される。更には法律の保護の外に置かれたため、身の危険を感じたルターはザクセン選帝侯フリードリヒを頼り、アイゼナッハのヴァルトブルク城で2年間の隠遁生活を送ることになった。その間にルターはラテン語で書かれていた新約聖書のドイツ語訳を行い、当時既に普及していた活版印刷のおかげもあって、聖職者ではない一般の人々でも直接聖書を読む時代を切り開いていくことになる。
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(アイゼナッハ駅付近から眺めるヴァルトブルク城)

 そんな訳で、聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだことと、ヴァルトブルク城に隠れ住んだことの二つにおいてルターはアイゼナッハとの縁があり、それゆえにルターはJ.S.バッハと並ぶこの街の誇りなのである。

 アイゼナッハのルターハウスを一通り見学してロビーに戻って来ると、反対側の新館では特別展として「異端・分派活動家・宗教指導者 - カトリックから見たルター」という展示が行われていた。覗いてみると、ルターの言動がカトリック側からどのような偏見を持って見られていたかということを説明しているコーナーだ。面白いのは、カトリック側から言い立てられたことを記したものを青メガネをかけてから眺めると、違ったように見えるようになっている。例えばこんな具合だ。
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 ルターは贖宥状を販売する教会に対して論戦を挑み、審問の際にも決して自説を曲げなかった。加えて、従来カトリック教会では聖職者の独身が守られて来たが、ルターは結婚が必ずしも信仰を妨げるものではないとして、修道者に対して結婚を斡旋することも多かったという。そればかりか、彼自身も女性たちが修道院から脱する手助けをして、その中の一人であった15歳年下の元修道女と結婚をして6人の子をもうけている。だから、彼のそうした言動に対してカトリック側から激しい誹謗中傷の数々があったことは想像に難くない。この展示はその中の典型的な中傷に対するルター派の立場からの反論だから、そう思って眺める必要があるのだろうけれど、何だか笑えてしまうものもあって、私には興味深かった。
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(特別展の入口)

 アイゼナッハを実際に訪れる機会がやって来るなどとは想像もしていなかった今年の初め、私は『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』(深井 智朗 著、中公新書)という新刊書を読んでいた。
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★ 1517年に始まったルターの「宗教改革」。それはカトリック教会の権威を大きく揺るがす結果となったけれど、ルター自身はあくまでもカトリックの信者として活動をしただけで、決してキリスト教界に「革命」を起こそうとは思っていなかった。

★ むしろルター以降の人々によって、彼の主張はカトリックと対立する「新教」となり、ルター本人の意志とは異なる方向へと進んでいった。

★ ルター派のプロテスタンティズムは、19世紀のドイツ統一の過程でナショナリズムを鼓舞するものとして利用され、ドイツの政治的・宗教的保守主義の源流であり続けた。

★ 現代の「リベラリズム」に繋がる(とりわけ米国の)プロテスタンティズムは、いわゆる「宗教改革」で主流の座に上ったルター派からは排斥された人々によって始められたものだった・・・。

 受験の世界史でルターやカルヴァンの名前を暗記し、大学時代にマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ、そのあたりでいわゆる「宗教改革」についての私たちの理解は止まっている。そういう点では、従来私たちが抱えて来た「新教」のイメージとは異なるプロテスタンティズムの実像を、幅広い観点から描き出したこの新書本はなかなかの好著だと、今改めて思う。
(To be continued)

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欧州の秋 (2) バッハが生まれた街 [世界]


2018年9月29日(土)

 ドイツ時間の午前7:16にフランクフルト中央駅を発ったドレスデン行き特急ICE1555は、鉄路を北東方向に進み、朝霧の濃い森の中を走り続けている。工業国のイメージが強いドイツだが、こうして列車に乗って窓から景色を眺めていると、森と畑、そして牧草地が織りなす平坦な地形が延々と続くことが多い。

 フランクフルトから2時間足らず、午前9:10に列車はアイゼナッハ(Eisenach)駅に到着。テューリンゲン州の西端に近い人口4万人の小さな街だ。ドイツを旅したことは以前にもあったが、旧東独領だった地域を訪れるのは、私にとっては初めてのことである。
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 列車を降りると南側のホームに、オモチャのような単行運転用の鉄道車両(おそらくディーゼルカー)が停まっていた。
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 ホームから階段を降りて地下通路を進むと、ドーム型の天井にステンドグラスというクラシックな雰囲気の駅舎があり、更に外に出てみると、その駅舎はまるで産業革命の時代そのままのような姿をしていた。何とも愛すべき駅である。
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(アイゼナッハ駅の内装)

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(アイゼナッハ駅の外観)

 私がこの駅で列車を降りた理由は、ホームの駅名表示を見れば明らかだ。”Geburtsstadt Johann Sebastian Bachs” すなわち私が敬愛してやまない「音楽の父」J.S. バッハが1685年に生まれたのが、この街なのである。だから駅前から旧市街に向かって歩き出すと直ぐに、 “Bachhaus”(バッハの家)の方向を示す道路標識が立っている。
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(「バッハが生まれた街」アイゼナッハ)

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 アイゼナッハの旧市街は本当に小さなエリアだ。駅から歩いて10分足らず。ニコライ教会の石造りの門を潜ると広場に出て、その周囲をクラシックな建物が取り囲んでいる。更に5分も歩けば旧市庁舎前のマルクト広場で、もうそこが街の中心のようなものである。
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(聖ニコライ教会とカールス広場)

 まずはこの旧市街の中で最も高い建物(と思われる)聖ゲオルグ教会へ。1685年の3月21日、8人兄弟の末子としてこの街で生まれたヨハン・セバスティアン・バッハ(~1750年7月28日)が、生後直ぐに洗礼を受けたルター派の教会だ。それだけでなく、幼少期のバッハはここで聖歌隊の一員として歌っていたし、彼の叔父を含めてバッハ一族は1世紀以上にわたり、この教会のオルガニストを務めていたという。
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 「『音楽家バッハ一族』の祖先は、テューリンゲン出身で一時ボヘミアに移住したが、16世紀にまたテューリンゲンに戻ってきたファイト・バッハ(?~1577以前)。ヴェヒマルに移住先を決めたファイトは、パン屋を営むかたわらツィターを爪弾くアマチュア音楽家だった。『バッハ一族』が『音楽家一族』として知られるようになるのは、彼の孫にあたるヨハン・バッハ(1604~73)の頃からである。以後ヨハン・セバスティアン・バッハを経て19世紀の初めに至る間に、『バッハ一族』からは実に60人を超える音楽家が生まれたのだった。」
(『バッハへの旅』加藤浩子・文、若月伸一・写真、東京書籍)

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(有名なバッハ一族の樹系図。黄枠内がJ.S.バッハ、白枠内が父ヨハン・アンブロージウス)

 こういう家系だから、バッハの父ヨハン・アンブロージウス・バッハ(1645~95)も当然にして音楽を生業としていた。街の音楽師にしてザクセン・アイゼナッハ公の宮廷トランペット奏者。丘の上からこの街を見下ろすヴァルトブルク城でラッパを吹く日々であったという。(今や世界遺産のヴァルトブルク城にも是非行ってみたかったのだが、今回は時間がない。)
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(アイゼナッハ駅前から眺めるヴァルトブルク城とヨハン・アンブロージウス・バッハ)

 事情があってこの日は聖ゲオルグ教会の中には入れなかったのだが、この教会の前のマルクト広場で一息入れた後、午前10:00の開館に間に合うよう、私はいよいよバッハハウスへと向かった。

 マルクト広場からルター通りと名付けられた石畳の細い道を歩いて行くと、正面に広場が見え、右側の緑の中にヨハン・セバスティアン・バッハの銅像が立っていた。その奥がバッハハウス。このあたりがバッハの生家だということで、1907年に記念館としてオープンしたという。ところがその後の研究で、どうやら本当の生家は先ほど歩いて来たルター通り沿いにあったことが判明したそうだが、だからといってこのバッハハウスの価値が下がる訳では決してない。私のように海外からここを訪れるバッハ好きは多いのである。
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(バッハハウス)

 入館すると、決まった時刻に(ドイツ語ではあるが)解説付きのグループ・ツアーがあり、実際に古楽器を演奏して見せてくれるとのこと。私はドイツ人の年配のグループにくっついて楽器の展示室へと向かった。窓寄りのスペースや周囲の壁一杯にバッハの時代の古楽器の数々が展示された部屋。そこで小型のオルガンやチェンバロでバッハの小品が奏でられる。バッハの生まれた街でそれを聴くことの幸せ。私にとって長い間の夢だったことが、今自分の目の前で遂に実現しているのだ。感無量とはこういうことを言うのだろう。
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 私が初めてバッハを聴いたのは、小学校の高学年の頃だったかな。 曲目は管弦楽組曲第3番の、「G線上のアリア」として有名な第2曲? それともバッハの教会カンタータの中で最も有名な第147番の「主よ、人の望みの喜びよ」? バッハと聞けば誰でもその名を挙げる「トッカータとフーガ ニ短調」は、ウォルト・ディズニーの映画『ファンタジア』の冒頭に置かれた、レオポルド・ストコフスキーの編曲によるオーケストラ演奏を聴いた(観た)のが、おそらく最初だったと思う。

 その後、物心ついてからも折に触れてバッハを聴くことが多かった。気分の良い時、逆に落ち込んだ時、混沌としてしまった頭の中を整理したくなった時、そして理性と勇気を取り戻したいなど、シチュエーションは様々だが、朝の早い時も夜遅くにも、厳しさと優しさ、そして数学的ともいえる論理性を併せ持ったバッハの音楽は、常に私の隣に寄り添って来てくれたように思う。だからこそバッハが生まれたアイゼナッハには、生きている間に一度来てみたかったのである。

 楽器展示室での演奏を楽しませてもらった後、バッハハウスの二階に上がると、バッハの時代の民家の様子が再現されている。彼はこんな風に揺り籠に揺られ、大人になってからはこのような机で作曲をしていたんだな。
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 バッハハウスには小さな中庭があって、植栽も良く手入れが行き届いている。家の壁を伝う葡萄の木。その葉の柔らかな緑が、窓から見ていて心地よい。
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 バッハハウスの中はそのまま新館に繋がっていて、そこでは様々な最新設備を使ってバッハの音楽を楽しむことが出来る。中でも、天井から吊るされたカプセルの中に座り、ヘッドフォンでバッハを聴く設備が面白い。私は窓に一番近いカプセルを選び、ゆったりと座る。窓の外の街並みを眺めながら、ヘッドフォンから流れて来る「ゴルトベルク変奏曲」を夢見心地で聴いていた。
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(バッハを聴くカプセル)

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(バッハハウスの窓から眺めるアイゼナッハの街並み)

 音楽家の家系に生まれたヨハン・セバスティアン・バッハ。おそらくは幼い頃から楽器の演奏の手ほどきを受け、父の手伝いで楽器を担ぎ、数々の演奏の場に立ち会ったことだろう。8歳で聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に入り、キリスト教と讃美歌を学んだという。

 「そんな多忙な子供時代は、10歳になる直前、1695年の2月に突然中断される。前の年に亡くなっていた母エリーザベトに続き、再婚したばかりの父アンブロージウスが、世を去ってしまったのだ。孤児となったバッハは、音楽家として独立できるようになるまで、しばらく他の町で修行時代を送ることになる。 
 幼くして荒波へと放り出されてしまった少年を見守りながら、冬の寒空に瞬く星は銀色の涙を流しただろうか。」
(引用書前掲)

 こうして10歳の少年バッハは長兄ヨハン・クリストフに手を引かれ、アイゼナッハから南東へ30kmほど離れたオールドルフへと移り住むことになった。その時、彼ははどのような気持ちでこの街を離れたのだろうか。

 バッハハウスの外に立つバッハ像をもう一度見上げながら、私は17世紀末のアイゼナッハの様子に思いを馳せていた。
(To be continued)


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欧州の秋 (1) 再びドイツへ [世界]


2018年9月28日(金)

 "NH203 00:10 Frankfurt Now Boarding”

 モニターに表示された案内を見てラウンジの席を立ったのは、あと15分ほどで日付が土曜日に変わる頃だった。

 深夜の羽田空港。24時間対応のこの空港では、この時間帯になっても国際線のフライトが幾つも出ている。あちこちのゲートに搭乗客の列が出来ている様子はいつもの通りで、今が真夜中であることを一瞬忘れてしまいそうだ。

 乗客の搭乗がスムーズに終わり、ドア・クローズの指示が出ると、トリプルセブンは定刻にゲートを離れ、滑走路へと歩みを進めていく。無数の誘導灯が宝石を散りばめたように闇の中に輝く、そんな光景の中で、長かった私の一日が終わろうとしている。
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 考えてみれば、朝一度会社に来てメールやら書類やらを捌いた後、10時前からはずっと外に出たままだった。私の会社が属している業界団体の用事があって、昼からは茅ヶ崎の郊外にある同業他社の工場を見学。それを受けて現地で会議を重ね、夕方からは海老名駅前のホテルに場所を移して懇親会に出席。場がお開きになるや否や相鉄線に飛び乗り、横浜で京急に乗り換えたのだった。そのエアポート急行が羽田空港国際線ターミナル駅に着き、22時過ぎにANAのチェックイン・カウンターに向かうと、そこで家内が待っていてくれた。

 先月に引続き、私には翌週の10月1日(月)から再びドイツ出張の予定があった。本来ならばその日程通りに発てばいいのだが、この機会を利用して早めに現地に入り、土日を私的に過ごしてから月曜日に他の出張者たちと現地で合流することを、私は思いついた。ちょうど都合の良いことに、羽田からはフランクフルト行の深夜便が毎日出ている。金曜日の夜に海老名で仕事が終わるのであれば、そこから直接羽田に向かえばいい。

「すまないね。ちょっと我儘を言わせてもらって今夜からドイツへ行って来るけど、道中は気をつけるから心配しないで。」
「ううん。折角の機会なんだから、週末は楽しんで来てくださいな。」

 空港まで持って来てくれた私服に着替えた私は、家内のいつもの笑顔に見送られて出国審査の入口へと進んだ。

 深夜便の搭乗客を乗せたANAのトリプルセブンは、既に高度を十分に上げ、巡航速度で北上を続けている。時刻は既に土曜日の午前3時近く。予定通り11時間半のフライトであれば、現地時間で同じ土曜日の午前5:20にフランクフルトに到着し、それから私にとって再び長い一日が始まることになる。ならば機内で少しでも寝ていこう。グラス2杯の白ワインでリラックスした私は、持ってきた本を開くまでもなく眠りに落ちていった。

9月29日(土) ここからはドイツ時間

 羽田発の深夜便。今が夜中であることを自分の体も認識しているためか、機内では比較的よく眠れたように思う。既にシートベルト着用のサインが点灯し、高度を下げるにつれて窓の外に広がるドイツの夜景は刻々と鮮明になっていく。

 05:05 フランクフルト国際空港に着陸、05:25 入国審査、05:45 バッゲージ・クレーム、という具合にスムーズに事が運び、到着ターミナルに出た私は案内表示に従って進み、エスカレーターを降りて遠距離列車が発着するFrankfurt am Main Flughaven Fernbahnhofへ。
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 この駅は空港の地下にあるのだが、その入り口フロアは非常に立派な施設で、朝の6時からスーパー・マーケットや幾つもの店がオープンしている。予定していた列車までまだ時間があるので、私はピザ・トーストとコーヒーを買って簡単に朝食を済ませた。
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(遠距離列車用空港駅の入口。立派な施設だ)

 ホームに降りて構内の様子を眺めているうちに、06:48発のフランクフルト中央駅行き急行列車が到着。列車番号IC2021、昨夜の22:30にハンブルグを出て、ブレーメン、ドルトムント、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、マインツ等を経由して来た列車だ。こういう夜行の優等列車は日本では殆ど姿を消してしまったが、ドイツにはまだ需要があるのだろうか。
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(IC2021 フランクフルト中央駅行の夜行列車)

 列車は定刻に発車し、フランクフルト中央駅まで14分ほどの道のりを走る。この日、フランクフルトの日の出は7:22。窓の外には朝焼けが広がり、空港を離陸した航空機が作った幾つもの飛行機雲が放射状に空に広がっている。朝から願ってもない快晴だ。
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 そして定刻の07:02に列車は中央駅に到着。ドーム屋根に覆われた行き止まり式のホームが、夜汽車の終着駅に相応しい。この駅に降り立つのは10年ぶりぐらいになるが、ドーム屋根の鉄道駅はやはり絵になる。
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(フランクフルト中央駅にて乗り換え)

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(やはり絵になるドーム屋根の中央駅)

 さて、14分の接続で私は次の列車に乗り換えだ。出発案内に従って9番ホームに向かうと、7:16発のドレスデン行き特急 ICE1555が待っている。
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 出張に引っ掛けて計画したドイツでの小さな一人旅。私はもう還暦をとっくに過ぎているから、沢木耕太郎の『深夜特急』のようには行かないが、さて、どんな旅が待っているだろうか。
(To be continued)

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備忘録 (3) [自分史]


7月14日(土) 暑い夏

 関東甲信地方についていうと、今年(2018)年は「6月6日頃に梅雨入りした」との気象庁発表から4週間足らずで、「6月29日(金)頃に梅雨が明けた」との宣言がなされた。要するに7月を待たずに梅雨が明けた訳で、その早さは史上1位タイの記録だそうである。

 とにかく暑い夏になった。当時の気象データ(毎日の平均気温)を改めて眺めてみると、東京都心では6月半ばの10日間ほどを除いて、6月・7月は略一貫して平均気温が平年より高かったのだ。毎日の平均気温の5日移動平均を平年値と比べてみると、6月の平均は+0.5℃だが7月は+3.3℃にもなっている。
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 そして東京都心の最高気温がこの夏初めて35℃を超えた7月14日(土)、この日の最高気温が「観測史上1位」または「7月として1位」を記録した観測地点が日本各地で続出。気温を表す気象庁の地図グラフは真っ赤になった。
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7月21日(土) 江戸の夏色

 「朝顔市・ほおずき市」と言えば夏の代名詞。東京・文京区の伝通院では、その広々とした境内で朝顔市が、そして坂道を降りた源覚寺(通称・こんにゃくえんま)では、猫の額のような敷地の中でほおずき市が行われる。例年なら梅雨明け前後のタイミングになるのだが、今年は7月を待たずに梅雨が明けてから既に三ヶ月が経過。35℃近くになる日が何日も続いて、もうとっくに8月を迎えたような気分。それでも朝顔の涼しげな藍とほおずきの鮮やかな朱は、いずれも江戸の夏の色。これを眺めてちょっと気分を換えるのはいいものだ。
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8月14日(火)~17日(金) 田んぼと里山

 暑い夏だが、今年は仕事の関係で会社のお盆休みの間も工場へ出張。外国人技師を交え、設備メンテナンスの作業をサポートすることに。

 工場から車で10分も走れば、周囲は自然色豊かな田園風景。東北地方も暑い夏の日が続いたようだが、青々とした水田とその向こうに見え隠れする里山の眺めは、なぜかとても懐かしい。「日本むかし話」にでも出て来そうな、こんな風景に囲まれて数日を過ごしただけで里心がついて、東京に帰るのが何だか勿体ない気になってしまうのだから、人間とは不思議なものである。
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8月24日(金) SL大樹

 ちょっとした出張で朝から栃木県の日光市へ。午後に本社で会議があったので、文字通りトンボ帰りの出張だったのだが、現地での用事を済ませて東武日光線の下今市駅に戻った時、前年から運行が始まった「SL大樹」がちょうど到着したところだった。
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 これは全くの偶然で、こんな列車があることも認識していなかったのだが、何という幸運か、山陰本線の長門市駅から運んできたという転車台に乗って向きを変える蒸気機関車C11をじっくりと眺めることが出来た。
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 以前の会社の上司だった「鉄ちゃん」にメールをしたら、「下今市へ出張だなんて、出来過ぎだろ!」と言われた。
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8月25日(土) ダイヤモンド雲取山

 土曜の午後の散歩の仕上げに文京シビックセンター25階の展望台へ。西の空が晴れていて、シルエットになった山並みの向こうに日が沈む様子を眺めていた。

 日没の方角から考えて、何となくそうではないかなと思っていたのだが、帰宅してからPCソフト「カシミール3D」で調べてみたらドンピシャリ、その日はシビックセンターから見て奥多摩の雲取山(2017m)の山頂に日が沈む、言わば「ダイヤモンド雲取山」の日だったのである。
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 以前にも西新宿の東京都庁からダイヤモンド富士を眺めた時に、太陽が山頂にさしかかった次の瞬間にその光が上下二筋に分かれることを知ったのだが、それと同じことが雲取山の場合にも見られた。
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 太陽と山が織りなす束の間のドラマ。ちょっといいものを見させてもらった。
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9月3日(月)~8日(日) ドイツ出張

 現地の設備メーカーとの打ち合わせのため、工場の若手3人を連れてドイツへ出張。空路でデュッセルドルフに入った後、イーサーローンという小さな街で3日を過ごす。日本では台風21号が西日本を縦断し、また北海道で大きな地震が起きた、ちょうどその頃だった。
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(デュッセルドルフの繁華街。ヨーロッパはどこかのんびりしている)
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(ホテルの屋上から眺めるイーザーローンの街)
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(イーザーローンは人口6万人の小さな街)

 今回連れて行った3人の若手(よく考えてみたら、彼らと私は30年近く年が離れている!)の内の2人は、そもそも海外へ行くこと自体が初めて。地方に生まれ育ち、地元の学校を出て直ぐにモノ作りの現場に入り、ずっとそこでやって来た人達だから、自分に海外出張の役目が回って来ることなど想像もしていなかったことだろう。けれども彼らは私が思っていた以上に外国という環境にもスムーズに順応し、何よりも現地での仕事には終始目を輝かせながら一生懸命取り組んでくれた。そのことが私には一番嬉しかった。
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(私たちが訪れた現地の設備メーカー)
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(訪問先の社食)

 滞在中に現地の設備メーカー2社を訪れ、一緒に作業をした、その経験は彼らにとってきっと大きな糧になることだろう。日本のモノ作りの将来を担う若い世代。これからも世界を自分の目で見る経験を出来る限り積ませて上げたいと、心からそう思っている。
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 最後の仕事が終わった金曜日の夕方は、ケルンの大聖堂を見学し、土曜日は夜のフライトまでの間、デュッセルドルフの旧市街をゆっくりと見て歩いた。若手3人の爽やかな笑顔が私にとっての励みになった、心に残る出張であった。
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9月19日(水) 安全祈願祭

 二週間前にドイツへ出張して、現地の設備メーカーと具体的な打ち合わせを重ねた、そのことと関連するのだが、発注して来年やって来る設備を据え付ける、その事前準備のための色々な工事がこれから始まる。それに先立ち、地域の八幡神社から神主さんに来てもらい、工場内の一角で安全祈願祭を執り行った。
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 神主さんが祝詞を上げ、私も「玉串奉奠」を行う。神棚の向こうにおわすのは何という名の神なのか、その名前も存じ上げないけれど、その神に頭を下げ、柏手を打って工事の安全を祈願。でも日本の神さまは一神教のように全知全能の神ではないし、教義もなければ修行もない。我々からすれば救済を求める相手では決してないのだが、その代わりに、私たちが誓いを立てたことをきちんと実行しているか、日頃からお天道様に恥じない生き方をしているか、目には見えないけれどそうしたことをいつも見守ってくれる神さまなのだ。
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 だとすれば、今日の安全祈願祭とは工事を安全に進めることを我々が神さまに誓う場であり、そうであればこそ、それらの工事の安全を実現してく主体は外ならぬ私たち自身なのである。

 「ご低頭ください」という声に従って神さまに頭を下げ、祝詞を聞く私たちの胸の中はこれからの抱負に満ちている。この国に生まれ育ってよかったと、心の底からそう思った。

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備忘録 (2) [自分史]


 諸般の事情で今年(2018年)の4月15日以降6ヶ月にわたって中断していたこのブログ。前回記事にて予告した通り、その間の出来事をごく簡単なダイジェストの形にして、備忘録の代わりとしたい。

4月22日(日) 奥多摩・浅間嶺

 中学・高校時代の同級生たちをはじめとする総勢6名で奥多摩の浅間嶺(せんげんれい、903m)へ。この山には何度も登ったが、新緑の季節は特に素晴らしい。
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 それぞれのメンバーにとっても久しぶりの山歩きだったので、武蔵五日市駅からタクシーで峠の茶屋まで上がり、浅間嶺のピークから浅間尾根を経て数馬の湯までののんびりハイキング。穏やかに晴れ渡った春の一日、奥多摩の山の良さを改めて満喫。還暦から2年を過ぎた私たちには、だんだんとこうした山が身の丈に合って行くのだろう。
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5月2日(水) 変わり続ける渋谷

 連休の間の工事で東京メトロ銀座線・渋谷駅手前のガードで線路の付け替えが行われるというので、風景が変わってしまう前に現地を撮影。
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(工事の後は、左に用意された線路を走るんだろう。) 

 渋谷駅前というと、長い工事が昔からつきものだったが、今もまた大規模な工事が続いている。私が子供の頃、1964(昭和39)年のオリンピックで渋谷の街はその様相が大きく変わったが、2020年の次回オリンピックを前に、またその姿を変えようとしている。まあ、この独特のカオスが渋谷の魅力の一つでもあるのだけれど。
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5月5日(土) 都留市・高川山

 四連休後半の土曜日。あまりに天気がいいので、富士山の眺めを目当てに山梨県都留市の高川山(976m)へ単独行で出かけることにした。
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 昨年の4月25日に膵臓がんの手術を受けてから1年。高尾山へのリハビリ登山も含めて、日帰りの山歩きはこれで5回目だが、ソロで行くのは初回。そのことには家内も相応に心配していたのだが、今までに何度も歩いたことのある山で、転がり落ちるような箇所もなく、登山者も相応にいる山だからと説明。私自身もここで事故を起こして人様に迷惑をかける訳にはいかないので、低山といえども慎重に歩いた。
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 楽しみにしていた富士の眺めは申し分なく、緑のシャワーを浴びているかのような爽やかな登山道が、強く印象に残った。
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5月20日(日) 初夏の都心

 実家の母親が5月の初めに骨盤を骨折。連休が明けてからようやく入院する病院が決まり、暫くは母の見舞いが続く。風薫る5月。病院は麻布十番からほど近く、週末の見舞いの帰りに家内とグラス一杯のスパークリング・ワインを楽しむ機会も出来た。
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 母もこの秋には87歳。実家での一人暮らしはさすがにもう無理だ。妹の一家とも話し合いながら、その後の週末は老人ホームを見て回ることが続いた。春先から気温が高めの今年。街中では例年より早くツツジが咲き終わり、いつの間にか紫陽花の季節になっていた。
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6月2日(土) 戦艦三笠

 海軍記念日から一週間遅れで横須賀の戦艦三笠を見学。朝から天気晴朗にして波穏やかな、見事な五月晴れで、三笠の威容と海軍旗の鮮やかな紅白が青空によく映えていた。
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 日清戦争の後、来るべきロシアとの対決を念頭に艦隊の近代化を図るべく、1898(明治32)年9月に英国ヴィッカース社に発注された三笠。それは建造に2年半を要し、1902(明治35)年3月に英サウザンプトン港で日本海軍に引き渡された。アマゾンで物を買うのとは訳が違い、完成した戦艦を日本に送り届けてくれたりはしない。海軍は自分で取りに行く必要があったのだ。

 だから、将官から水兵に至るまでが英国へ行き、自分で操舵して、スエズ運河経由2ヶ月の期間をかけて日本に帰還した。あの時期、水兵に至るまでが自分の目で外国を見て来たというのは、実に貴重な体験であったことだろう。
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 三笠はその翌年に連合艦隊の旗艦となり、更にその翌年の1904(明治27)年2月には、遂に口火を切った日露戦争において旅順口攻撃に出動している。バルチック艦隊を撃破したあの日本海海戦がその翌年の5月27日であったことは言うまでもない。つまり、戦艦三笠は日本に運ばれてからこんなスピード感を持って実戦で活躍するまでになったのである。
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 三笠の艦内を見て歩き、艦橋に立ってみると、「坂の上の雲」ではないけれど、明治維新からまだ40年も経っていない小さな日本がこのような戦艦を駆使してロシアと対決したことに、改めて大きな感慨を持たざるを得ない。明治の人は、やはり偉かった。
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 それに引き換え、戦艦三笠を見学した今年の6月2日というと、国内では例の「モリカケ問題」の追求に野党もマスコミも血眼になっていた。海の向こうでは米朝開戦も止む無しかと言われるほど北朝鮮問題がエスカレートする中、シンガポールでの米朝首脳会談がセットされ始めた、ちょうどそんな頃だったというのに。

 世界の情勢がこんな時に、国会で延々と時間を使うべきことは「モリカケ」なんかじゃないだろう。戦艦三笠の艦橋の上で、私は心の底からそう思ったけれど、少し冷静になって考えてみると、日露戦争の「成功体験」が全てではないし、むしろそれに対する過度な礼賛がその後の日本の進路を誤らせたことも事実。現代の我々はその歴史を踏まえ、なおかつ現代の視点もしっかりと持って、この国の将来のことをもっと真面目に考えよう!
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7月7日(土) 三線軌条

 品川から金沢八景を経由して新逗子まで京急を利用する機会があり、京急逗子線の「三線軌条」を初めて見学。要するに標準軌(1435mm)と狭軌(1067mm)の各電車を相乗りさせるために、片方のレールを共用にして計3本のレールが敷かれた区間のことだ。
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(神武寺駅の品川方。分岐器から向こうが三線軌条)

 昭和23年、戦時統制下の産物だった「大東急」から小田急・京王・京急が分離するのと前後して、横浜市金沢区の旧海軍工廠の跡地に東急が車両工場(現・総合車両製作所)を建設。東急は狭軌だが工場の目の前の京急は標準軌であるために、そこから京急新逗子線を経由し、神武寺駅の手前で分かれてJR横須賀線(狭軌)の逗子駅に至る専用線を敷設するという事情があった。その専用線と京急新逗子線が重なる区間が三線軌条なのである。
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 金沢八景駅のホームから眺めてみると、新逗子線から京急本線へと至る標準軌の線路と、三線軌条のまま車両工場へと至る線路とを切り分ける分岐器が複雑な構造をしていることがわかる。
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 更には、途中の六浦駅で標準軌の京急の車輛が停車した時にホームとの間隔が空き過ぎないよう、それまでは一番ホーム寄りのレールを狭軌と標準軌の共用レールにしていたのを、六浦駅の前後だけはホームから一番遠い線路が共用レールになるように狭軌の電車を誘導する装置が設置されている。
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(六浦駅の品川方。狭軌の電車を線路の左寄りから右寄りに誘導する装置)

 こんな風に工夫が必要な三線軌条。それは首都圏では京急逗子線だけでしか見られない。何につけても実物を見るというのは興味深いものである。
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備忘録 (1) [自分史]


 今年4月15日付で記事をアップして以降、新たな記事を掲載することなく既に半年が経過してしまった。

 その間、どうしても書けない事情があった訳ではないし、書くことがなかった訳でも全くない。

 確かに会社の仕事は前年度よりも忙しさを増していた。素材メーカーである私の会社が、将来に向けて或る大きな決断を下し、中小企業としての会社の身の丈との比較では随分と大きな設備投資を行うことになった。今年の春先はその意思決定の最中にあり、契約を締結して夏前からはそのプロジェクトが実際に動き始めたため、立場上かなりの時間を取られたのは事実である。

 もう一つには、年老いた母をこれ以上都内の実家に一人にさせている訳にいかなくなり、いわゆる老人ホームに入居してもらうためのプロセスに、真夏頃まで殆どの週末の時間を充当せざるを得ないという事情があった。これも致し方ないことだ。私と同じ年恰好なら、多くの方々にも同様の経験があることだろう。

 他方、自分の健康状態はというと、昨年の4月25日に受けた膵臓がんの手術から、早いもので一年が経過していた。昨年末に抗がん剤の服用(いわゆる化学療法)が終了してから半年が経った今年6月21日に、主治医による初回の経過観察を受診。幸いなことに「がんの転移は無し」、「特段心配な点も見られない」との所見をいただき、もちろん手術以前よりも生活態度を改めてはいるが、日常生活には特段の制約もなく、普通の生活を送っていた。手術を受けたばかりの昨年の同時期には、その「普通の生活」に戻ること自体が想像も出来なかったのだから、何と幸いなことだろう。
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 とはいうものの、病気をする以前のように物事に全力疾走をすることには、自分の中にまだためらいがあった。手術を受けた後の初回の診察の中で主治医から言われた、
「これからは十分な睡眠を取ることと、ストレスを溜めないことを約束してください。」
という言葉が、ずっと頭の中を離れずにいたのだ。虚心坦懐に振り返ってみれば、昨年の初めまでの私は、会社の仕事、我ながら目一杯取り組んでしまった自宅マンションの管理組合の仕事、そして実家対応などに追われ、無意識の内に自分の中にストレスを溜めこんでいたかもしれない。

 もちろん管理組合の理事からは昨年の手術の前に退任させてもらったが、会社の仕事が以前よりもずっと忙しくなった今、自分の生活に少しブレーキをかけるとしたら、それはブログを書くのをしばらく止めることだった。

 更にもう一つ言えば、ちょっとした事情があって友人から求められ、今年の年初からfacebookを始めたことだ。最初は勝手がよくわからなかったが、「習うより慣れろ」で始めてみると、友人たちとの間で素早く情報を共有するにはかなり手っ取り早いツールであることがわかった。もちろん写真なども掲載できるので、色々な反応が結構ビビッドに返って来る。それが結構面白くもあり、自分の身の回りのことを書き留める手段として、いつの間にかfacebookが主役に踊り出ていた。
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 そうなのだが、私は次第にfacebookの限界を感じるようにもなっていった。コミュニケーション・ツールとしては確かに手っ取り早いけれど、そこで交わされる内容はいささか底の浅いものであることが多い。「今どこで何を食べてる」的な話は私の好むところでもないし、かといってあまり長文のやり取りには馴染まないツールだ。例えば或る本を読んだり、或る絵画に出会ったりした時に、自分にはどんなことが印象に残り、どんなことを感じて、更に何をどう考えたのか、そうしたことをある程度以上のボリュームの文章にまとめるには、facebookはあまり適していないと言わざるを得ない。

 普段の生活の中には、刹那的な思いや出来事がたくさんあることは事実で、それを他人とやり取りすることは結構なのだが、還暦を過ぎた私にとっては、色々な物事に出会った時に自分が何をどう考えたのか、その記録を残しておきたいという思いの方が遥かに強い。そうしておかないと記憶はどんどん薄れてしまうからだ。

 そんなことから、自分としてはやはりfacebookとブログを使い分け、自分史的に書き留めておきたいことを取捨選択して、やはりブログと向き合って行かねばならないと思うようになった。

 まずはこの6ヶ月のブランクを埋めることから始めねばならない。それこそfacebook的に、貼り付けた写真にちょっとしたコメントを加えるだけになってしまうだろうが、次回の記事でその6ヶ月の埋め合わせをすることにしたい。
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花看半開 [季節]


 人間とは、幾つになっても肚が坐らないものだと、つくづく思うことがある。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。」
(『仏音』、高瀬 広居 著、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 今から8年前、つまり2010年のちょうど今頃、桜の開花の時期に、かつて読んだことのある本のこんな一節を、このブログに引用したことがある。その引用部分は、仏教の入門書には必ず出て来る拈華微笑(ねんげみしょう)というエピソードについての一つの解釈の仕方なのだと個人的には理解しているのだが、そこで臨済僧が語っていることは決して難解なことではないと、その時の私は、少なくとも頭の中ではそう思っていた。五欲から解き放たれれば、人間はどんな時でも花をみて笑える。それはきっとそうなのだろうと。

 ところが、それから7年。つまり去年のちょうど今頃、私は「花をみて笑える心」どころか、花を眺める余裕すら失っていた。今から思い返しても、ああ花が綺麗だといって外を歩いた記憶が全くと言っていいほど無いのである。それどころではなかった。自分の生死にかかわることが自分の体の中で起きていた、そのことを知らされたのだった。

 「精密検査の結果、膵臓がんの疑いあり。一刻も早く手術を受けるべし。」

 高校時代の級友で内科医を務めているS君から、そんな所見があったのが昨年の4月12日。そしてその二週間後の4月25日には都内の専門病院で開腹手術を受けるという段取りが、あれよあれよという間に決まっていった。

 そこまで迅速な手配をしていただけたのは本当に得難いことで、S君をはじめとして手を尽くしていただいた皆さんには心から感謝を申し上げねばならない事柄なのだが、深刻な事態を迎えていることへの実感が、当の私には今一つ湧かず、「いつも全面的に信頼して来たS君の言うことだから、ともかくも彼が薦める通りにしていこう」ということしか考えていなかったように思う。

 「頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった」とか、「ショックで食べ物が喉を通らなくなった」とか、そういう事態に陥ることはなかったと、自分では思っている。

 膵臓がんは一般に発見が遅く、手遅れのケースが非常に多いので、発見から5年後の生存率ががんの中でも一番低い、要するに助からない病気である。その病に直面したことは確かにショックであり悲しくもなったが、だからといってジタバタしても仕方がない。最後はなるようにしかならないのだから、ともかくも主治医の指示に従い、自分の身を全て預けることにしよう。

 そこまでは気持ちの整理がついていたのだが、例年よりだいぶ早く桜の季節が終わった後、それに続く一年中で一番素晴らしい花の季節に、花を愛でることを全く忘れていた。結局のところ、私は肚が坐っていなかったのである。
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 S君の所見を受けてからの二週間はあっという間に過ぎ去り、4月25日が到来。開腹手術は(ほぼ予定通りだそうだが)5時間にわたり、その日の夜は病院の集中治療室で過ごし、体にまだ管が付いたままの状態で翌日の昼に病室に戻された。こんな体験をしたのは私の人生では初めてのことだ。それでも術後の経過は比較的順調な方で、5月の連休を迎えた頃には、二時間程度ではあるが点滴を外して病院の周辺へ外出することが許された。

 5月5日の祝日、窓の外は好天だ。見舞いに来てくれた家族と共に、入院後初めて病院の外に出て、隣接する緑地をゆっくり歩くことにした。風薫る5月。病院の急患入口の自動ドアが開いて外の空気を吸い込んだ時の心地よさ、そして次の瞬間に目の中に飛び込んで来た緑の眩しさは、今でもはっきりと思い出すことが出来る。

 窓ガラス越しに眺めるのとは全く違う、それは命の躍動とでも言うべきものだろうか。木の幹に体を預け、フレッシュで柔らかな緑の葉に手を触れてみると、命のいとおしさが脈々と伝わって来る。「生きている」とはこういうことなのだ。61歳を迎えたばかりの私は木々の緑にそう教えられていた。
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 その後も経過は比較的順調な部類のまま推移し、手術の日から16日目の5月10日に退院。その日を含めて5日ほど自宅で静養し、5月15日から会社への出勤を再開。それから二週間が過ぎたところで一度体調が悪くなり、再び10日ほど入院することになった。そして、血液検査の数値やCTの画像にも異常は見られなくなったので、6月8日に漸く退院。今から思えば、最初に退院した後にわりと直ぐ会社に復帰したのは、ちょっと頑張り過ぎていたのかもしれない。

 その後も日常生活において辛さのある日々が続いた。何といっても開腹手術というのは想像以上に体へのダメージが大きいものであるようだ。そして、ロクに物が食べられない状態が続き、いつまでたっても下痢が治らない。それに加えて、がん治療とはそういうものであるようだが、術後の体調回復が十分でないうちに抗がん剤の服用が始まり、これがまた色々な副作用を伴うことになる。

 夏が過ぎる頃までは、平日の帰宅後や週末には横になっていることが多く、さすがに気分が滅入った。体重が大きく減って筋肉も落ちてしまった今、もう昔のように元気に体を動かすことは出来ないのだろうか。真夏に咲く花が少ないこともあるのだが、そんな状態だった私は依然として花を愛でる心を失ったままだった。

 その後、初秋の頃から少しずつながら体力が戻り始め、食事の量もそれに合わせて増えていった。抗がん剤の副作用にもある程度体が慣れてきたのだろう。無理のない範囲で出張にも出るようになり、短いコースながら週末の山歩きも再開出来た。そして、抗がん剤の服用は予定通り年末で終了。以後は普通に生活していて、今年6月の経過観察を待つ身となっている。

 昨年の春以降をそんな風に過ごしてしまったからだろう。今年はまだ真冬の間から、例年にも増して花の季節が待ち遠しくなり、春の兆候を探しにカメラを持って外に出ることが多くなった。放っておけばそのまま死に至る病を得た私は、手術とその後の治療によって、ともかくも今こうして生きているということを有難くも実感させていただいている。そんな我が身にとっては、新たな命が輝き始める早春は何とも眩しいばかりだ。
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(1月28日 新宿御苑の寒桜と蝋梅)

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(2月4日 小石川植物園の梅園)

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(3月3日 浜離宮恩賜公園の菜の花畑)

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(3月24日 小石川植物園)

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(3月25日 皇居・千鳥ヶ淵)

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(3月27日 小石川・伝通院)

 花看半開 酒飲微醺 (花は半開を看(み)、酒は微醺(びくん)を飲む)

 『菜根譚』の中の有名な一節で、「満開の花より半開こそ見ごろであり、酒もほろ酔い加減がいい」と述べている。私も昨年の体験で、花や緑を眺めることによって湧き起る「命の愛おしさ」に少し敏感になっているからだろうか、『菜根譚』のこの一節が今更ながら心に響くように思う。物事は何でもmaximumがいいのではない。絶頂期よりも、そこに向かって物事が加速を続けている、言わば微分係数が最大になる頃が一番の見ごろだという訳で、命が最もその躍動感を見せるのが花で言えば五分咲きの頃であり、酒で言えばその旨さが一番わかる程度のほろ酔い加減がベストということだ。

 もっとも、桜に限っては五分咲きの頃だけではなく、散った花も、花と入れ替わるようにして甦る若葉も素晴らしい。
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(3月31日 練馬区・石神井公園)

 そして、桜よりも長く花を楽しめる桃。一つの木から多様な色彩の花が咲き、桜のような忙しなさがない。そのどこかのんびりとした穏やかさが、私は好きだ。
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(4月1日 新宿区・早大通りのシダレモモ)

 桜が終わると、それを待っていたかのように緑が甦る。新緑は何といっても5月が素敵だが、4月中頃の、本当に生まれたばかりのような若葉の輝きもまた格別である。
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(4月7日 小石川植物園)

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(4月8日 新宿区・戸山公園)

 そして、3月に平年より暖かい日が続いた今年は総じて草木の開花が早く、東京都心ではツツジが既に見ごろになっている。
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(以上、4月15日 文京区・根津神社)

 ひとまずは経過観察の身になったとはいえ、私が抱えた病気について今後のことはまだ何とも言えない。基本的に自覚症状の出にくい病気だから、体の中で進行していても自分ではわからないのだ。だから本当にまだ何とも言えない。だが、昨年の轍は踏まず、これからどんなことがあっても、「花をみて笑える心」を忘れないようにしたいものである。

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