雨のち晴れ [経済]
雨の日曜日である。それも、昨夜半から本降りの雨だ。気温も昨日よりぐっと下がった。東京マラソンを走る人々には気の毒な天気である。例によって朝早く目がさめてしまったが、この雨では散歩と言う訳にもいかないので、ゆっくりと新聞に目を通すことにする。
今朝の日本経済新聞の読書欄には、『経済論壇から』という月に一回のコラムが載っている。今の執筆者は東大教授の松井彰彦氏で、直近一ヶ月の主要紙・月刊誌に掲載された経済関係の文献の中から注目すべき論点を要約したものである。
『閉塞感の中の日本経済』というタイトルが付けられた今回は、既に20年も低成長を続けている日本経済が今後も「緩やかな坂を下っていくという見方が多い」ことを受けて、「この閉塞感を反転させるために、私たちは何をなすべきなのか」にフォーカスを当てている。
財政赤字は極めて深刻だが、最も重要なのは経済成長を実現することだ。企業の過少な雇用や賃上げ抑制は将来に対する過度の悲観論に基づいている。労働市場の自由化・流動化に対応したセーフティーネットを作れば、将来への不安の増大とそれに伴う消費低迷は回避できる。成長が無理だとする考え方こそが「日本病」であり、アジアをはじめとする外需をもっと取り込むことで更なる成長は可能だ・・・。各論者の主張を手短に紹介した上で、松井氏は、
「私たちにとって今大事なのは、日本の底流に流れる日本人の国民性、すなわち自国に全く自信の持てなくなっている私たち日本人の心性と正面から向き合い、自信を取り戻すことであるのは疑いがない。」
と述べてまとめに入る。そして、結びの部分で引用されていたのが、昭和30年代に「国民所得倍増計画」を掲げた池田勇人首相の経済ブレーンだった下村治氏の有名な言葉である。
「ありとあらゆる弱点を言いつのり、いまにも破局が訪れるような予言をする人々を見ていると、アンデルセンの醜いアヒルの子を思い出す。その人々は日本経済をアヒルかアヒルの子と思っているのではないか。実際の日本経済は美しい白鳥となる特徴をいくつも備えているにもかかわらず。」
これは、実際に日本が高度経済成長期を迎えるずっと以前の、都留重人との論争における下村氏の発言だそうだ。勿論こんなことを言う人は殆どいなかった頃のことだ。
下村氏は不思議な人で、誰よりも早く戦後日本の高度成長を予言し、1973年に最初の石油危機が到来すると、今度は誰よりも早く「ゼロ成長論」を展開した(私の記憶に残っているのは、いつも渋い顔をしてゼロ成長を唱えていた頃の下村さんである)。そして、米国でレーガン政権が誕生し、減税による消費の拡大が対日貿易赤字を急増させたことから、米国が「ジャパン・バッシング」を展開し、日本に「市場開放」と「内需拡大」という圧力をかけた時に、それに敢然と異を唱える論陣を張った。それが、1987年4月に刊行された『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という本である。
昨年の初めに文春文庫から復刊されたのだが、一昨年のリーマン・ショックに象徴される米国の不動産・金融バブルの崩壊を20年前に見通していたかのようなその内容が改めて大きな反響を呼んでいた。
消費狂いになってしまったアメリカ人/ アメリカ経済の異常さを誰も指摘しない不思議さ/ 自由貿易が絶対的に善というアメリカの考え方はおかしい/ 自分だけ正しい、という思想がアメリカを大きな間違いに導いている/ アメリカは本気で財政収支均衡法をヤル気がない/ 今のやり方ではいずれ深刻な反動が生まれる・・・
各章にこういうサブタイトルが並んでいるのを見るだけでも、ブッシュ政権下でネオコン全盛期の米国を批判しているのかのようで、とても20年前の話とは思えない内容だ。
「これは、日本人の性格の弱さだが、日本人には迎合主義的なところがある。たとえば、占領軍(GHQ)がまだ日本にいたころは、日本人はそれに唯々諾々として、何事も占領軍の言うとおりにすればよい、言うとおりにやらなければならないという具合に、徹底的に突っ走った。占領軍は、当時は日本の弱体化に手をつけていたのだが、日本人はその弱体化政策に沿って、自分自身を武装解除していったのだ。その後遺症がまだ残っている。」
(『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』 第三章 「日本は事態を正しく認識していない」より)
下村氏が喝破しているのは、冒頭に引用した松井彰彦氏のいう「自国に全く自信の持てなくなっている私たち日本人の心性」にも通じるものがあるのだろう。下村氏は『葉隠』を生んだ佐賀藩士の末裔である。武士が最も忌み嫌うのは、卑屈になることだ。
これで思い出すのは、吉田茂首相の「側近」だった白洲次郎に関する一つのエピソードである。1951(昭和26)年9月4日に始まったサンフランシスコ講和会議。日本の独立回復と国際社会への復帰を約するこの会議で、各国の調印後に吉田首相が講和条約の受諾演説を行う予定になっていた。当日の二日前、演説の原稿に目を通すよう吉田から頼まれた白洲は、外務省の役人が用意した草稿を一目見て顔色を変える。それは英文で書かれており、占領に対する感謝の言葉が並んでいたのである。
「何だこれは! 書き直しだ」
「大幅にですか?」
「当たり前だ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 事前にGHQ外交部のシーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったものですから、勝手な書き直しなんかできませんよ」
「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ!」
(『白洲次郎 占領を背負った男』 北康利 著、講談社)
白洲は急ぎチャイナタウンで和紙を買い求め、数人が分担して毛筆書きの日本語で原稿作成に取りかかる。それが出来上がったのは吉田の演説の直前で、長さ30メートル、巻くと直径10センチになり、外国のマスコミはそれを「吉田のトイレットペーパー」と報じたという。当の吉田はそれを堂々と、20分をかけて読み上げた。吉田にとっても白洲にとっても、独立国としての矜持を失う訳にはいかなかったのである。
戦後の占領時代ならともかく、今の日本は(中国に抜かれつつあるとはいえ)世界第二の経済規模を誇り、枢要な立場にある国なのだ。卑屈になる必要は何もない。次の時代に向けて打つ手を自分で考え、果敢に実行し、その上で堂々と成熟していけばいいのではないだろうか。
日本がこのような位置に置かれている中、昨年秋に起きた我国の政権交代も、国民が「上手くやってくれる人達にお任せ」で経済成長の果実の分配にあずかることだけを考えてきた時代から決別することを国民自らが選択したと考えるべきなのだろう。そうであれば尚のこと、我々には自信を失ったり卑屈になったりしている暇はないのである。
昼前にはみぞれになっていた雨がいつしか上がり、午後になって晴れ間が急速に広がった。そうとなれば少し散歩に出てみよう。雨が大気中の塵を落としてくれたのか、空の青が鮮やかである。自宅の近くにある公園の片隅では、このところ続いていた寒さにもかかわらず、花開いたばかりの沈丁花が午後の陽を浴びて仄かに香っていた。
明日からは三月だ。春は確実に近づいている。
今朝の日本経済新聞の読書欄には、『経済論壇から』という月に一回のコラムが載っている。今の執筆者は東大教授の松井彰彦氏で、直近一ヶ月の主要紙・月刊誌に掲載された経済関係の文献の中から注目すべき論点を要約したものである。
『閉塞感の中の日本経済』というタイトルが付けられた今回は、既に20年も低成長を続けている日本経済が今後も「緩やかな坂を下っていくという見方が多い」ことを受けて、「この閉塞感を反転させるために、私たちは何をなすべきなのか」にフォーカスを当てている。
財政赤字は極めて深刻だが、最も重要なのは経済成長を実現することだ。企業の過少な雇用や賃上げ抑制は将来に対する過度の悲観論に基づいている。労働市場の自由化・流動化に対応したセーフティーネットを作れば、将来への不安の増大とそれに伴う消費低迷は回避できる。成長が無理だとする考え方こそが「日本病」であり、アジアをはじめとする外需をもっと取り込むことで更なる成長は可能だ・・・。各論者の主張を手短に紹介した上で、松井氏は、
「私たちにとって今大事なのは、日本の底流に流れる日本人の国民性、すなわち自国に全く自信の持てなくなっている私たち日本人の心性と正面から向き合い、自信を取り戻すことであるのは疑いがない。」
と述べてまとめに入る。そして、結びの部分で引用されていたのが、昭和30年代に「国民所得倍増計画」を掲げた池田勇人首相の経済ブレーンだった下村治氏の有名な言葉である。
「ありとあらゆる弱点を言いつのり、いまにも破局が訪れるような予言をする人々を見ていると、アンデルセンの醜いアヒルの子を思い出す。その人々は日本経済をアヒルかアヒルの子と思っているのではないか。実際の日本経済は美しい白鳥となる特徴をいくつも備えているにもかかわらず。」
これは、実際に日本が高度経済成長期を迎えるずっと以前の、都留重人との論争における下村氏の発言だそうだ。勿論こんなことを言う人は殆どいなかった頃のことだ。
下村氏は不思議な人で、誰よりも早く戦後日本の高度成長を予言し、1973年に最初の石油危機が到来すると、今度は誰よりも早く「ゼロ成長論」を展開した(私の記憶に残っているのは、いつも渋い顔をしてゼロ成長を唱えていた頃の下村さんである)。そして、米国でレーガン政権が誕生し、減税による消費の拡大が対日貿易赤字を急増させたことから、米国が「ジャパン・バッシング」を展開し、日本に「市場開放」と「内需拡大」という圧力をかけた時に、それに敢然と異を唱える論陣を張った。それが、1987年4月に刊行された『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という本である。
昨年の初めに文春文庫から復刊されたのだが、一昨年のリーマン・ショックに象徴される米国の不動産・金融バブルの崩壊を20年前に見通していたかのようなその内容が改めて大きな反響を呼んでいた。
消費狂いになってしまったアメリカ人/ アメリカ経済の異常さを誰も指摘しない不思議さ/ 自由貿易が絶対的に善というアメリカの考え方はおかしい/ 自分だけ正しい、という思想がアメリカを大きな間違いに導いている/ アメリカは本気で財政収支均衡法をヤル気がない/ 今のやり方ではいずれ深刻な反動が生まれる・・・
各章にこういうサブタイトルが並んでいるのを見るだけでも、ブッシュ政権下でネオコン全盛期の米国を批判しているのかのようで、とても20年前の話とは思えない内容だ。
「これは、日本人の性格の弱さだが、日本人には迎合主義的なところがある。たとえば、占領軍(GHQ)がまだ日本にいたころは、日本人はそれに唯々諾々として、何事も占領軍の言うとおりにすればよい、言うとおりにやらなければならないという具合に、徹底的に突っ走った。占領軍は、当時は日本の弱体化に手をつけていたのだが、日本人はその弱体化政策に沿って、自分自身を武装解除していったのだ。その後遺症がまだ残っている。」
(『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』 第三章 「日本は事態を正しく認識していない」より)
下村氏が喝破しているのは、冒頭に引用した松井彰彦氏のいう「自国に全く自信の持てなくなっている私たち日本人の心性」にも通じるものがあるのだろう。下村氏は『葉隠』を生んだ佐賀藩士の末裔である。武士が最も忌み嫌うのは、卑屈になることだ。
これで思い出すのは、吉田茂首相の「側近」だった白洲次郎に関する一つのエピソードである。1951(昭和26)年9月4日に始まったサンフランシスコ講和会議。日本の独立回復と国際社会への復帰を約するこの会議で、各国の調印後に吉田首相が講和条約の受諾演説を行う予定になっていた。当日の二日前、演説の原稿に目を通すよう吉田から頼まれた白洲は、外務省の役人が用意した草稿を一目見て顔色を変える。それは英文で書かれており、占領に対する感謝の言葉が並んでいたのである。
「何だこれは! 書き直しだ」
「大幅にですか?」
「当たり前だ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 事前にGHQ外交部のシーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったものですから、勝手な書き直しなんかできませんよ」
「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ!」
(『白洲次郎 占領を背負った男』 北康利 著、講談社)
白洲は急ぎチャイナタウンで和紙を買い求め、数人が分担して毛筆書きの日本語で原稿作成に取りかかる。それが出来上がったのは吉田の演説の直前で、長さ30メートル、巻くと直径10センチになり、外国のマスコミはそれを「吉田のトイレットペーパー」と報じたという。当の吉田はそれを堂々と、20分をかけて読み上げた。吉田にとっても白洲にとっても、独立国としての矜持を失う訳にはいかなかったのである。
戦後の占領時代ならともかく、今の日本は(中国に抜かれつつあるとはいえ)世界第二の経済規模を誇り、枢要な立場にある国なのだ。卑屈になる必要は何もない。次の時代に向けて打つ手を自分で考え、果敢に実行し、その上で堂々と成熟していけばいいのではないだろうか。
日本がこのような位置に置かれている中、昨年秋に起きた我国の政権交代も、国民が「上手くやってくれる人達にお任せ」で経済成長の果実の分配にあずかることだけを考えてきた時代から決別することを国民自らが選択したと考えるべきなのだろう。そうであれば尚のこと、我々には自信を失ったり卑屈になったりしている暇はないのである。
昼前にはみぞれになっていた雨がいつしか上がり、午後になって晴れ間が急速に広がった。そうとなれば少し散歩に出てみよう。雨が大気中の塵を落としてくれたのか、空の青が鮮やかである。自宅の近くにある公園の片隅では、このところ続いていた寒さにもかかわらず、花開いたばかりの沈丁花が午後の陽を浴びて仄かに香っていた。
明日からは三月だ。春は確実に近づいている。
2010-02-28 23:22
コメント(1)
トラックバック(0)
東京マラソンでは、落伍者が「想定外」の多さで、救護バスが数時間こなくて「死ぬかと思いました」というコメントがニュースで流れていました
山屋から言わせてもらうと「死ぬかと思いました」という時点で、遭難してますね!
東京都内でも遭難する人がいるのかと思った日曜日でした!
僕は、山で非常食を食べたときとパーティ以外の人に助けを借りようと思った(借りなくても)時が「遭難」と思っています
遭難は都会でも山でもしてはいけません
by T君 (2010-03-03 01:05)