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マッカーサーの執務室 [歴史]

 東京・日比谷のお堀端に建つ第一生命の本社ビル(第一生命館)。桜田橋の方角から眺めると、手前に8本の高い柱が特徴的な本館があり、その奥に高層ビルの「DNタワー21」が聳えている。

 元々は6階建てだったこの本館は、昭和20年9月から同27年7月までの6年10ヶ月にわたり、連合国軍総司令部(GHQ)が置かれていたことで知られるが、その間、最高司令官の執務室として使われていた部屋が「マッカーサー記念室」として、当時のたたずまいを残したまま保存されている。セキュリティーの関係から今は一般には非公開なのだが、今週は社員の方に同行する形で見学をする機会を得た。私のオフィスからは歩いて数分の距離である。

 エレベーターで6階に上がり、長い廊下を歩くと、その先にあったマッカーサーの執務室は、壁面が落ち着いた色の木材で覆われた、何ともクラシックな部屋であった。入口でいただいた小冊子によれば、執務室の広さは約54㎡(16坪)で、使用されている木材は全て米国産のクルミの木、床は寄木細工でできているそうだ。元々第一生命の社長室だった部屋である。

 机や椅子は、当時の石坂泰三社長が使用していたものをマッカーサーがそのまま使ったという。この建物がGHQ本部として接収されたのは昭和20年9月17日であるが、接収命令から5日間で全館を明け渡したというから、調度品をいちいち取り替えている暇はなかったのかもしれない。元々は深緑色だったであろう椅子は、皮がすっかり擦り切れて白くなっている。そして、机には引き出しがない。壁にはヨットの絵が2枚。ただそれだけである。マッカーサーというと、この部屋から毎日皇居を見下ろしていたというようなイメージがあるが、実際にはこの部屋には南向きの窓しかなく、皇居側の展望はない。
マッカーサーの執務室.jpg
 マッカーサーという人は、周囲から見た自分のイメージを演出することに長けていたようだ。昭和20年8月30日の午後、マニラから輸送機「バターン号」で厚木基地に到着したマッカーサーが、サングラスをかけて飛行機の外に姿を現し、護衛もつけず丸腰のまま、一人コーンパイプをくゆらしながら悠然とタラップを降りてくる映像はあまりにも有名だが、あたりを睥睨しながら征服者然としたその姿は、当時の日本人に強烈な第一印象を与えたことだろう。

 「マッカーサーは、日本国民というかアジアの人間をたいへんよく知っていたんです。彼は父親がマニラの総督だったためフィリピンの生活が長く、かつて東郷平八郎元帥にも会い、日本の軍人の立派さに感服したなどという過去や、日本国内を旅した経験もある人で、アジアの民族の特徴――怒らせると怖いが、普段は羊のように従順である、これをうまく扱うには、できるだけ自分が表に出るのではなく陰の場所にいて、厳かに君臨したほうがよい、云々――をよく心得ていました。」
(半藤一利 著 『昭和史 戦後編』 平凡社)
 
 そして、9月27日に行われた昭和天皇との初の会見。モーニング姿に直立不動の昭和天皇に対し、開襟シャツで腰に手を当てた、いかにも普段着のようなマッカーサーが並んで立つ写真も、どちらが占領者であるかを強烈に示したもので、よく計算された演出なのだろう。だが、さすがにこの会見をマッカーサーの執務室で行うと、国家元首を呼びつけた形になってしまう。だから、会見の場所は米国大使館になった。それも計算の一つである。因みに、この写真を掲載した新聞各紙に対して、山崎巌内務大臣(当時)は不敬罪による発禁処分を発動したが、これに怒ったGHQは、言論統制に関する戦前の諸法令を即座に全廃させたうえで、山崎内相の罷免を要求。これが結果的に東久邇内閣の総辞職につながっている。

 一方で、マッカーサーは非常にストイックに仕事をした人でもある。執務室の机に引出しがないのは、戦場にいる時と同じように何事も即断即決したために書類がたまることがなく、必要としなかったからだという。皮の擦り切れた椅子も含めて調度品を取り替えることを部下が何度進言しても、替えさせなかった。自宅のある米国大使館とGHQ本部を決まった時刻に往復する毎日。昼食・夕食は自宅でとり、会食にも殆ど出ず、ゴルフも観光もせず、華美を廃し、何よりも軍規の乱れを嫌ったという。
マッカーサーの胸像.jpg
 マッカーサーが厚木に降り立った時、彼は既に65歳であった。日本の占領統治という重大な使命を背負い、共産主義の脅威と戦わねばならない中で、それからの日々をこのようにストイックに生きていくのは並大抵のことではない。普通の軍人ならとっくの昔に退役になっている歳なのである。だがそれは、人間、年老いてもなお強靱な精神力を持って生きていくことはできる、そのことを教えてくれているようにも思う。

 今週、私は会社から人事異動の辞令を受け、4月からセカンド・キャリアに就くことになった。製造業という未経験の分野に、不安がないはずはない。だが、マッカーサーが5年7ヶ月の間座り続けた、皮が擦り切れたままの椅子を見つめているうちに、これから新たなことにチャレンジしていく勇気をもらったような気分になった。
マッカーサーの椅子.jpg
 
 「日本政府を代表してGHQとの交渉窓口を任されていたときのこと、昭和天皇からのクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に持参したことがあった。すでに机の上には贈り物が堆(うずたか)く積まれている。そこでマッカーサーは、
 『そのあたりにでも置いておいてくれ』
 と絨毯の上を指差した。
 そのとたん白洲は血相を変え、
 『いやしくもかつての日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!』
と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすがのマッカーサーもあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという。
 ──戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない。
 それが彼の口癖だった。」
(北康利 著 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社)

 白洲次郎の有名なエピソードも、この部屋での出来事だったのだろうか。白洲次郎もまた、幾つになっても新たなチャレンジをした人である。

 短い時間ではあったが、マッカーサーの時代へのタイムスリップを楽しむことができた。再びエレベーターに乗り、第一生命館の外に出てみると、昼過ぎの空がまぶしい。今度の週末は、もう春のお彼岸である。

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