SSブログ

平成の擾乱 [政治]

 二人の男がいた。

 仮にAとBとしておこう。父祖代々、政権与党を支えていく立場の家柄に、二人は生まれ育った。

 二人が生まれる遥か昔、その政権は発足当初こそ高い志を掲げ、中心人物が強力なリーダーシップを発揮していたのだが、リーダーの死後はそれもなくなり、気がつけば最大派閥が要職を独占してこの国を恣(ほしいまま)に動かすようになっていた。

 この二人の家柄は与党の中ではなかなかのものだったが、最大派閥からは常に頭を押さえつけられてきた。その最大派閥の専横は長く続いたが、やがて彼らの従来型の政治が行き詰まりを見せていき、政権の行く末には暗雲が漂うことになった。

 この二人が青年の時、いよいよ政権の末期症状と言うべきか、全く無能な男が最大派閥の代表に就いた。それがすなわち国の事実上の支配者になる、というのがこの国の仕組みだったのだが、酒と踊りに興じてばかりのこの虚(うつ)け者に日本国の支配者は到底務まらず、世の不満はふつふつと高まるばかり。政権の権威はいよいよ落日の如きありさまとなった。

 それは時間の問題であったのだろう。政権末期というのは、些細なことで火の手が上がるものだ。本来ならば与党の一員であるはずの或る男が、ついにキレてしまって北関東から政権に反旗を翻すと、関西で公務についていたAも一転してこれに同調。Bもその補佐役としてAに従う。彼らの決起によって政権打倒ムードは燎原の火の如く燃え広がり、あれよあれよという間に最大派閥は倒れて、政権交代が実現してしまった。

 なぜ政権交代が世の中の幅広い支持を集めたのか。最大派閥の専横が疎まれたことは事実だが、何といっても、前政権がその発足時に目指したような、不在地主などではなく実際に額に汗して働いた人々が報われるような「所得の分配」が行われていない、そこへの大きな不満があった。

 かつて外国との間でこの国始まって以来の大事件が起きた時に、与党の党員たちが自腹を切って国難に立ち向かったのだが、事後になっても最大派閥からはそれに対する正当な評価がなかった、というのである。党員たちの中には、額に汗して働いて手に入れた自分の土地を、困窮のあまり手放してしまった人々も少なくなかったのだ。
mongolian.jpg

 この国の中で、前政権の打倒を誰よりも声高に叫んでいたのは、Gという男だった。反旗を翻したとはいえ元は与党の家柄であったAやBとは、政治的な利害の異なる(というよりも、本来ならば利害の相反する)勢力の代表だったが、この国で最も厳かな権威を持っていた。落ちぶれて経済力もないくせに尊大で独りよがりな男ではあったが、少数派閥が民心を得て最大派閥に立ち向かうためには、前政権の打倒を天下に号令したGに呼応するというスタイルが必要だった。そして、旧政権は倒れた。新しい日本ができるはずだった。

 だが、政権交代直後の蜜月時代もどこへやら、二人の男とGとでは、目指すものがあまりにも違うことが早くも露呈する。何よりも政治的・経済的な利害の相反は決定的であった。Gによる政治の私物化はもはや看過できず、AとBはGと袂を分かつことになる。鳴り物入りで誕生した新政権は、二年余りで崩壊。二人とGとの大喧嘩は日本国を二分する大きな政治的混乱を再び招くことになったが、二人の青年は辛くもそれを乗り切り、翌年には自らを最大派閥とする政権の樹立に漕ぎつける。
godaiago.jpg

 晴れて成立した自らの政権。二人の男は仕事を分けることにした。Aは戦うことが得意だが、性格はいたって大らかだ。物にこだわりがなく、気前よく金品を分け与えてしまうので、周囲の人望が厚い。もう一方のBは対照的にストイックな性格で、戦いは得意としないが、ルールに則り実務をテキパキとこなしていく能力はAよりも遥かに高い。AとBの組み合わせは合理的なものに見えた。

 初期の混乱が一段落すると、平時に活躍するのはBのタイプである。しかも、Bが理想とするのは、かつて前政権を担った最大派閥が一番輝いていた時代に制定された法律に基づき、裁判が公正に行われ、社会の秩序が保たれる、そういう世の中であった。オーソドックスな政治姿勢と言えるが、こういうタイプの人間は自分と同様の真面目さを人にも求めるので、そのうちに煙たい存在になりがちである。

 一方で壊すことが得意なAは、平時には向いていない。また、数々の修羅場をかい潜る中で、自分達とは利害の相反する新旧の勢力とも必要とあらば手を組む柔軟さがあるのだが、そこは生真面目なBにしてみれば神経に障るところだ。加えて、Aの片腕を長年務めてきたKという男がいて、豪腕で仕事がよく出来るのだが、とにかくやること為すことに品がない。そんな男をAが重用しているところが、Bにはまた腹立たしかった。

 程なく、火花は散る。あることをきっかけに、BはKの罷免を公然とAに要求。Aは渋々これを受け入れるが、Kは秘かに策を弄してこれに反撃。逆にBを追い詰め、一度は政治の第一線からの引退に追い込んでしまった。

 だが、身から出た錆というべきか、Aには落とし子が一人いた。実子のいないBに可愛がられて育ったこともあり、心情的にはBを助けたいその男は、Bと連携するように西国で反旗を翻す。その処理に手間取り、自分の長男と共に大ピンチに追い込まれたAは、中央政界に復帰したBと手打ちをせざるを得ず、その過程でAの腹心Kは葬り去られてしまう。
nanbokucho.jpg

 それでも平時は長く続かない。かつて共に戦って政権交代を成し遂げ、政務を二人で分担した仲ではあったが、AとBとの最終的な直接対決は、やはり避けようがなかった。

 衝突が始まると、多数派工作のためにAは禁じ手も使った。実は、それはかつてBも使った手ではあるのだが、最初の政権交代の時に手を組み、喧嘩別れをした後は常に政敵であったGの、その末裔と再び手を結ぶことだった。経済的な後ろ盾にも乏しく、この国の政界から消滅するのは時間の問題だった党派を延命させてまで進めた多数派工作である。世の中は呆気に取られたが、政治に義を求めるのはどだい無理なことなのだ。

 この国のまつりごとは数の力学によってシーソーのように揺れ続けた。そして、二人が最初の対立を始めてから足掛け三年。最後は、戦いの得意でないBがAに追い詰められて万事休した。(Bは翌月に急逝。これはAによる陰謀と見られている。)

 両雄並び立たず。これは14世紀半ばの日本の話であり、二人が対立した後半部分は「観応の擾乱」と呼ばれている。二人の争いのためにここまで日本中を巻き込む必要があったのだろうかと、首をかしげたくもなるが、それが政権の持つ魔力というものなのだろう。

 それから約660年。平成のニッポンは今もなお、政権で両雄が並び立たない国のようだ。そして、その雌雄が決するまでは日本国中が振り回されることも、どうやら変わっていない。

 因みに、AとBはAを兄とする実の兄弟である。

 Gは吉野の山中で寂しく生涯を閉じた。そして、「天下の奸物」の代名詞のようなKは、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の中で吉良上野介を彷彿とさせる登場人物として、後世に名を残している。

takauji.jpg
コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。