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政党政治の黄昏 [政治]

 政治の迷走がひどい。

 マニフェストを掲げた民主党が選挙に大勝した、あの「政権交代」から1年2ヶ月。ある程度予想されたこととはいえ、内政・外交共に新政権の素人ぶりがあちこちで露呈し、人心は既に新政権から大きく離れてしまったと言っていいだろう。
 野党時代には溌剌としていた現首相は、今や目も虚ろ。トップがそんな風だから、日本の国自体が諸外国から軽く見られてしまっていて、何とも情けない。自民党時代からの「負の遺産」を引き継いでの船出であったことを割り引いても、大騒ぎしたあの政権交代とは一体何だったのかと、多くの国民が苦い思いで振り返っているのではないだろうか。

 思い起こせば、自民党時代の末期は三人の首相が一年おきに替わったが、閣僚もコロコロと替わった。その発言の端々に揚げ足を取り、「年金未納」だの何だのと粗探しをしてはバッシングを与えたマスコミのあり方に最大の罪があったことは言うまでもないが、そもそも国務大臣の器とは思えない人物が起用されては辞任を繰り返したのは、人材不足という自民党の末期症状に他ならなかった。しかし、現閣僚のお粗末な立ち振る舞いの数々を見ていると、(所詮は寄せ集め集団に過ぎない)民主党とてそれは同じことだったのだ。

 「二大政党の時代」などと言っても、日本の政党政治の現実は所詮こんなものなのだろうか。いつまでも政治が三流であるがために、一流と言われてきたはずの経済もこのまま落ちぶれていくのだろうか。
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 かつて、二大政党の間で政権交代が実現したことが、この日本にもあった。それは1929(昭和4)年7月の、立憲民政党による政権・浜口雄幸内閣の成立である。

 ライバル政党である政友会の田中義一が率いた前政権は、前年6月に関東軍が起こした満州軍閥・張作霖の爆殺事件(いわゆる「満州某重大事件」)について、関係者の処分をうやむやにしようとして昭和天皇の強い怒りを買い、この年の7月2日に総辞職に追い込まれていた。

 「もちろん、憲政の常道からすれば、たとえ数に於て劣勢とはいえ、野党第一党の民政党へ政権が移るべきであった。
 後継首班奏請の任にあたる元老西園寺公望は、あわただしい動きや、さまざまにとび交う思惑には目もくれず、この常道を踏んで、民政党総裁浜口雄幸を次期総理に推すことにした。浜口は、その容貌からして『ライオン』というあだ名のある土佐出身の剛直な男である。」
 (『男子の本懐』 城山三郎 著、新潮文庫)

 1900(明治33)年に伊藤博文を総裁として発足した政友会は、地方の地主らを支持基盤とする保守政党で、大正デモクラシーの波に乗って党勢を拡大し、原敬の時代に政党内閣を実現させたものの、田中義一内閣の頃にはいささか親軍的になっていた。これに対して民政党は「自由・平等」、「格差の解消」といったリベラル色が強く、国際協調路線を掲げ(従って軍部とは距離があり)、都市部の中間層の支持を集める政党だったと言われる。

 「ライオン宰相」浜口は蔵相に日銀出身の井上準之助を起用して、金本位制への復帰、緊縮財政を断行し、海軍の強い抵抗を受けながらもロンドン海軍軍縮条約を締結。しかし、1930(昭和5)年11月、東京駅のホームで右翼の青年による銃撃を受け、翌年8月に死去。民政党政権は4月から若槻禮次郎によって引き継がれる。しかし、この若槻内閣に早々に降りかかった災難は、9月18日(浜口の死去の三週間後)に発生して満州事変の発端となった、満鉄の線路が爆破された柳条湖事件だった。

 「これまで戦前の政党政治について、その内実は脆弱なものであり、1930年代初頭に種々の困難に直面し簡単に自壊したとされてきた。したがってその後、軍部が明確な国家構想をもたないまま、テロと恫喝によって権力を掌握することとなり、その結果、無謀な戦争に突入していくことになったとの見方が、一般には有力であった。
 しかし近年の研究で、じつは政党政治の体制はかなり強固なもので、内外関係をふくめ相当の安定性をもっていたことが、明らかにされてきている。」

 『満州事変と政党政治 -軍部と政党の激闘』 (川田 稔 著、講談社選書メチエ)によれば、戦前の日本における政治構想は、前述のライオン宰相・浜口雄幸と、陸軍軍人・永田鉄山の二人によって代表されるという。そして、両者の政治構想の出発点は共に第一次世界大戦であったという。
 戦死者900万人、負傷者2,100万人、そして一般市民の犠牲者が1,000万人という未曾有の規模の犠牲と破壊をもたらし、国家の人的物的資源を総動員して戦争を遂行する、史上初めての国家総力戦となった第一次世界大戦。その惨状を目の当たりにしたことを出発点としながら、この二人が正反対の結論を導き出しているのが興味深いところである。
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 浜口に代表される政党側の思想は、次にこのような世界大戦が勃発すれば、財政・経済共に脆弱で資源を海外に依存する日本は極めて困難な状況に追い込まれるため、戦争の防止を主目的として設立された国際連盟の存在と役割を重視するものだった。日本にとって国際社会、とりわけ東アジアの安定と平和維持は切実な問題であり、だからこそ国際協調路線を取り、ワシントン会議(1921~22年)の場で締結された四ヵ国条約、九ヵ国条約、海軍軍縮条約、1928年の不戦条約という流れを受けて、戦争抑止の枠組み作りに関与し、軍縮を進めることが重要であり、それが国民負担の軽減にもつながるとしたのである。だから、1930年のロンドン海軍軍縮条約も、日本がその締結に向けて努力すべきとの立場であった。
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(浜口雄幸 1870~1931)

 従って、「国民革命が進行している中国にたいして、その『正当なる国民的宿望』にたいしては、できるかぎりその実現に協力するとの立場であり、ことに、中国の『和平統一』のためには十分な時間を与えるべきだとの姿勢」であり、「国民政府による満蒙をふくめた中国統一を容認すべきだ」とのスタンスであった。(このあたり、「満蒙においては国民政府を許容せず、日本の影響下にあった軍閥張作霖の勢力を温存し、それによって満蒙での日本の権益を維持しようと考えていた」政友会とは異なる路線である。)

 これに対して、昭和陸軍の代表で一夕会のリーダーであった永田鉄山は、国際連盟によっては戦争を防止することはできず、新たなる国家総力戦の勃発は不可避と見ていた。従って、平時においても国家総動員のための準備と計画が必要であると。だから軍縮についても、「国際紛争の原因が除去され、国際関係が正義によって厳格に律せられる世界が現出しないかぎり、『平和目的のために軍縮を策する』ことは『順序の転倒』である」とし、国防軍備と資源確保を軽視してはならないとした。
 だから永田にとって中国は国家総力戦に備えた資源確保の場であり、とりわけ満蒙は「現実に日本の特殊権益が集積し、多くの重要資源の供給地であり、華北・華中への橋頭堡として枢要な位置を占めるもの」であった。
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(永田鉄山 1884~1935)

 1931(昭和6)年9月18日に起きた柳条湖事件。政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は鉄道付属地外にも出兵し、錦州を爆撃し、満蒙新政権の樹立に関わろうとする。当初押されっぱなしだった若槻内閣は11月には反撃に出て、以後の北満・錦州への侵攻を阻止する。内閣総辞職を示唆しながら陸軍大臣に脅しをかけ、宇垣一成朝鮮総督ら陸軍中央首脳部を動かして関東軍を停めた。永田をはじめとする一夕会系の中堅幕僚層に比べて、この時点での軍首脳部は北満チチハル占領や錦州侵攻、満蒙独立国家の建設に関与することには否定的であった。国際社会から一気に孤立してしまうことは避けるべきだという、外交への配慮があったという。10月24日の国際連盟理事会で、期限付撤兵決議案に日本を除く全理事国が賛成したことも圧力になっていた。
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 だが、間もなく若槻内閣は揺れる。10月に陸軍桜会を中心としたクーデター未遂事件(「十月事件」)が起きたことを受け、「陸軍の根本組織から変えていかなければならないが、そうなると政友会一手ではできない。どうしても連立して行かなければ駄目だと思う。」という犬養毅政友会総裁の意向から「協力内閣運動」が始まると、その是非を巡って閣内不一致となり、若槻内閣は12月11日に総辞職。再び政権交代によって犬飼内閣が発足するも、年が明けると第一次上海事変が発生し、2月には民政党の井上準之助が射殺され(血盟団事件)、3月1日に「満州国建国宣言」。そして5月15日には犬飼が首相官邸で襲われ、政党政治は終焉を迎えた。一方の永田鉄山はその3年後、皇道派将校によって白昼に斬殺された。

 『満州事変と政党政治』の著者川田稔は、浜口雄幸に代表される戦前の政党政治に一定の評価を与えている。だが、若槻内閣総辞職の原因となった「協力内閣運動」は、実際には政友会からの揺さぶりだろう。そうやって政権を取り戻した犬養毅は、東京駅で狙撃され療養中の浜口雄幸に国会答弁を強要し、浜口の命を縮めた男である。更に言えば、ロンドン海軍軍縮条約を締結した浜口内閣を、「統帥権干犯問題」を初めて持ち出して攻撃したのは、政友会の鳩山一郎である。やはり政党政治は自分で自分の墓穴を掘ったと言われても仕方がないであろう。

 柳条湖事件の発生から、そして若槻内閣の総辞職から、来年でちょうど80年である。政党が軍隊によって脅かされた時代はとうの昔に終わったというのに、今の国会を見ていて感じる虚しさは何だろう。政治家は本当にこの国のことを考えて行動しているのだろうか。
 もっとも、その政治家を選んだのは有権者なのである。だから、政治家は「選良」というよりは有権者の質を映し出す鏡というべきなのかもしれない。
 満州事変の直後、「『非道きわまる排日侮日』のなか、『暴戻なる遼寧軍閥(張学良)の挑発』にたいし、余儀なく『破邪顕正の利刃』をふるった」というような言葉に熱狂し、万歳を繰り返したのは、やはり国民だったのである。

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