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足利庄の休日 [ワイン]

 快晴の日曜日の朝、北千住駅を7時51分に出発した特急「りょうもう3号」はほぼ満席に近かった。日光・鬼怒川温泉方面へ向かう東武日光線の特急とは違って、りょうもう号は伊勢崎線の赤城行きである。沿線には特に大きな観光地もないのにほぼ満席とは、多くの乗客の目的地は私たちと同じなのだろうか。

 東武鉄道は、この伊勢崎線の北千住・久喜間の開業が発祥である。1899(明治32)年のことだ。今では立派な通勤路線だが、久喜から先はダイヤが一時間に3本しかない「関東のローカル私鉄」へと一変する。利根川の長い鉄橋を渡ると程なく館林に着くが、その館林から先が終点の伊勢崎までずっと単線なのである。夏の猛暑ですっかり有名になった館林を過ぎると、右の車窓に小高い山々のうねりが見え始める。車内放送があって、あと10分ほどで足利市駅だ。北千住からちょうど1時間である。

 やはりそうだった。足利市駅で私たちと共にこの駅で大半の乗客が降りた。目的地はこの町の北麓にある、ココファームというワイナリーだ。毎年11月の第三土日に「収穫祭」というイベントが行われ、葡萄畑の中に入らせてもらえるのである。そして、この期間は駅からの送迎バスを用意してくれる。

 家内と二人でこのイベントに出かけるのも、今年で3回目になった。だから要領がだいぶわかってきて、今回はいつもより1時間早く足利市駅に着く電車を選び、早めに入場することにしたのだが、それでも私たちがワイナリーに到着した時には、葡萄畑も既にかなりの人出で埋まっていた。ココファームの収穫祭も年々有名になっているようだ。今は朝の6時台からも人が詰めかけるという。
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 2,000円の入場券を買うと、ワイングラスとコークスクリューを渡され、そしてワインのフルボトルを1本選ぶ。家内と私は今年も赤を選び、山の急斜面を切り拓いて造られた葡萄畑へと向かう。幸い、中腹あたりでシート一枚を広げられる場所を確保することができた。3回目なので既に見慣れた景色ではあるが、やはり自然の中は気分がいい。空は晴れわたり、この季節にしてはずいぶんと暖かく、風もない。今日は葡萄畑へのピクニックには最高の日和となった。

 まだ朝の10時を少し回ったところだが、さっそく家内と新酒で乾杯をする。この新酒はまだ発酵の過程にあるもので、グラスに注ぐと中から微かにガスが上がってくる微発泡の飲み物だ。アルコール度数は低く、ワインというよりは葡萄ジュースに近いが、収穫祭には欠かせないお祝い物である。これを山の緑に囲まれた屋外で飲むのが、実にいいのだ。ドイツでは同様の物がフェーダーヴァイサーと呼ばれ、10月になると街中に出回り始めて、やはり晩秋の風物詩になっているようだ。
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 「こころみ学園」の園長、川田 昇氏がこの山を買い取り、園生たちと共に山の斜面の開墾を始めたのは、今から52年前のことだ。この学園は知的障害を持つ若者を、就労を通じて育てることを目的にしており、このワイナリーにおける畑仕事やワイン作りの工程は園生たちが担っている。
 足利は関東平野の奥深くにあるために、夏は暑さが厳しく、冬は「赤城下ろし」が吹き付ける土地である。園生たちの畑仕事は重労働であるに違いない。1958年に畑の開墾が始まったこの農園で、数々の苦労を乗り越えてワインの醸造が軌道に乗ったのは、90年代になってからだそうである。そして米カリフォルニアから醸造の専門家を招き入れ、本格的なワインを作れるようになったという。

 ココファームの名前を一躍有名にしたのは、2000年の九州・沖縄サミットの晩餐会である。ソムリエの田崎真也氏が、日本でのおもてなしには日本の酒を是非出したいとして、沖縄の泡盛の古酒と共に、ココファームで作られたスパークリングワインを席上で披露したのである。もちろん、こころみ学園の園生たちの手作りによるものであることが一つのメッセージであったのだろうが、それ以上に各国首脳の前に堂々と供されるだけの品質をそなえていたからでもあったはずだ。

 10時半になると、普段はレストランとして使われるテラスがステージになって、各種の音楽演奏のプログラムが始まる。出演者たちによる元気のいい乾杯の音頭取りもあったりして、場内は文字通りお祭り気分が盛り上がっている。私たちは丘の中腹に敷いたシートに座ってそれを楽しみ、新酒を愛でる。ワインというのは不思議なもので、屋外の土や草の香りの中で味わうと、それがまた格別なのである。場内には売店もたくさん出ているが、そこで買い求めてきた炭火焼のチキンが美味しい。
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 葡萄畑のある山の急斜面を一番上まで登ると、南に足利の市街地を眺め下ろすことができる。このあたりは関東平野の北端の一部で、日光の山々の続きが次第に高度を下げながら南下して平野に出たところである。平地の背後に里山の南斜面が続くこうした地形は、古くから人々にとって住みやすい土地であったに違いない。栃木、佐野、足利、桐生といった関東でも歴史のある町はみなそうである。

 足利庄(あしかがのしょう)と呼ばれたこの地を平安時代の末期に開墾したのは、源氏の棟梁・八幡太郎義家だそうである。義家の三男・義国が故あってこの地に下向し、その次男・義康が足利姓を名乗った。以来足利家は、鎌倉時代を通じて源氏の一門たる有力御家人の地位にあり続けたが、義康から数えて八代目の尊氏が、北条の世に弓を引いた。

 京都に政権をうち立てた尊氏は、その将軍職を嫡男の義詮(よしあきら)に継がせる一方、遠く離れた関東を支配するために鎌倉府を置き、次男・基氏(もとうじ)をその長官にあてた。鎌倉公方と呼ばれたこのポストは基氏の子孫が世襲していくが、京都の将軍が任命する補佐役が常に置かれた。これが関東管領であり、初期の頃を除いてこの地位は上杉家が独占したが、関東公方から見れば煙たい存在であり、基氏の子孫の頃には関東公方が関東管領への対立色を深めていた。

 その典型が第四代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)だ。四代将軍・義持が嫡子に先立たれ、世継を定めずに自分も病死すると、この男は庶子の血筋ながら自分に将軍職の継承権があるものと勝手に思い込み、次期将軍に決まった義教(よしのり)に公然と反抗。関東管領・上杉憲実とも対立して戦となったが、憲実を支持した京都将軍の軍勢に攻められて自刃(永享の乱、1437年)。鎌倉公方は一旦空位となる。

 その10年後、持氏の遺児・成氏(しげうじ)が、周囲の取り成しにより鎌倉公方のポストに就く。ところが、持氏の遺伝子を継ぐ成氏は再び京都に反抗し、関東管領・上杉憲忠を謀殺して将軍家との戦を始めた(享徳の乱、1455年)。当初は優勢であったが、やがて鎌倉を落とされて成氏は下総国の古河(こが)に拠り、以後は古河公方と呼ばれた。再び公方不在となった鎌倉には将軍・義政の実弟・政知(まさとも)が派遣されたが、上杉家の内紛もあって鎌倉には入れず、弱々しいことに伊豆の韮山に居住して伊豆一国のみを支配する盲腸のような地方政権になり、人はこれを堀越(ほりごえ)公方と呼んだ。
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(足利成氏 1434~97)

 一方、関東管領職を独占してきた上杉家は、最盛期には一門で武蔵・相模・上野・越後の守護を兼ねるほどの権勢を極めたが、やがて分家同士で争うようになり、中でも山内(やまのうち)上杉家と扇谷(おうぎがやつ)上杉家が、関東の覇権を巡って激しく対立していく。
 足利家における将軍と公方の対立、公方と関東管領の敵対、古河公方と堀越公方、更には上杉家同士の争い。室町の世の関東は、何ともややこしい構図の中にあったものである。

 成氏が起こした享徳の乱により、関東は二つに割れた。利根川・渡良瀬川の大河を境に、関東平野の西半分は幕府と関東管領の勢力下、そして東半分は古河公方とそれを担いだ土着勢力の支配地域となった。あまり認識されないことだが、足利成氏という男に振り回されることによって、関東は応仁・文明の乱(1467~77年)より10年余りも早く、乱世に突入していたのである。

 ココファームの葡萄畑の一番上から足利市街を眺め、そうした室町時代の関東に思いを馳せているうちに、気がつけば時計は1時半を指していた。食べ物も飲み物も、もう充分である。シートを片付け、畑の下へ降りてから最後にグラスワインを一杯ずつ楽しみ、私たちは帰りのバスへと向かう。昨年は駅までの道も大渋滞だったのが、今年は幸いにしてスムーズである。おかげで予定より一本早い上りの特急に乗ることができた。
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 ココファームの収穫祭は今年で27回目だそうである。これだけ有名になると、イベントの運営も年々大変になっているのだろう。それでも今日は、去年と同じように、こころみ学園の園生たちが様々な姿に仮装し、一生懸命に我々を迎えてくれた。学園とワイナリーが、これからも着実に発展を続けていくことをお祈りしたいと思う。

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