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起点と終点 [散歩]


 11月23日、火曜日。会社は休みである。週中にポツンと祝日があるよりも、どうせなら週末につなげた方がいいのにと若い頃は思ったものだが、相応に年を取ってみると、こういう休みもそれはそれでありがたいと思うようになるから不思議なものだ。昨夜からの雨がまだ残っていたので、朝はのんびりと過ごした。

 読みかけの本を手に取り、横になって続きを読む。途中でついウトウトしてしまったが、気がつくと窓の外は薄日が差していた。正午を少し過ぎたところだ。天気予報の通り、午後はそれなりに良い天気になりそうである。同じようにして過ごしていた家内も、そんな外の光に誘われるようにしてベランダに出る。
 「せっかくだから、少しお散歩しようか。」
 どちらから言い出すともなく、いつものようなパターンになった。我家にしてはスロー・スタートだが、たまにはそれもいい。

 休日で乗客も少ないメトロに乗って15分。三田駅で外に出ると、空の半分ぐらいはもう青色を取り戻していた。日比谷通りを南に行くとすぐに幅の広い第一京浜にぶつかり、JRの田町駅がある。目の前を走る山手線や東海道線の線路は、元々は東京湾の波打ち際だったところだ。

 このあたり、江戸時代の古地図と重ね合わせてみるとなかなか興味深い所で、田町駅前(三田口)のあたりは薩摩藩の蔵屋敷だった。貨幣の代わりだった米やその他の物産を貯蔵しておく倉庫が置かれ、だからこそ海岸に面していたのだろう。幕末維新のハイライト、江戸総攻撃の是非を巡る西郷と勝の談判が行われた場所を示す「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」という碑が自動車会社のビルの隅に建てられている。
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 そんな重要な会談をなぜ蔵屋敷なんかで?と思ってしまうが、すぐ近くにあった薩摩の上屋敷は、両者の会談の3ヶ月ほど前、1967(慶応3)年の12月25日に焼き討ちに遭っていたのだ。江戸の街中で騒乱を起こすという薩摩の挑発に幕府方(庄内藩など)が乗ってしまった「江戸薩摩藩邸の焼討事件」で、戊辰戦争のきっかけとなったものである。今は電器メーカーの背の高い本社ビルが建つ、その敷地内に薩摩屋敷跡の碑があるそうだ。

 田町駅の正面へと歩いていくと、大勢の若い人たちが吸い込まれるように「慶応通り商店街」へと向かっている。今は学園祭の季節。「三田祭」を見に行く人々の列だ。
 「三田キャンパスの中は今イチョウがとっても綺麗よ。」
 そう言って我家の娘は今朝も早くから大学へ出かけていった。学園祭のイベントで裏方をしている娘の様子をわざわざ見に行くつもりもないが、散歩のついでにキャンパスの様子を見てみるのも悪くない。家内と二人でメトロに乗って三田まで来たのは、そんなことがきっかけだった。

 東門から入ると、キャンパスの中は大変な人出である。そして、学生さんたちはみな楽しそうだ。食べ物を売る屋台がひしめき、奥の野外ステージのあたりはポップな歌声に盛り上がっている。いかにもお祭りという感じである。自分もいつの間にか大学生の子を持つ親になってしまったが、自分の子供達と同じ年格好の若者が大勢集まる場の中にいると、それだけで何となく元気をもらったような気分にもなるものだ。そして、「若い」って羨ましいなぁとも、改めて思う。
 「今、キャンパスに来てみたよ。忙しそうだから、このまま帰るね。頑張ってね。」
 娘には家内がメールを送っていた。

 よく考えてみれば、慶大のキャンパスに足を運ぶのは、私自身初めてのことだ。学生時代もついぞ縁がないままだった。当時私が通っていた大学の、立て看板にゲバルト文字という何とも無粋な文化祭に比べると、二十一世紀の三田祭は何ともスマートである。
 人々の流れに従いながら敷地の中を簡単に一周して、再び東門へと戻る。振り返ると、クラシックな図書館の外壁がイチョウの黄葉によく映えていた。
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 慶大の東門を出ると、桜田通りの先には東京タワーが近い。1871(明治4)年に、島原藩中屋敷の跡地を借り受ける形で慶応義塾がこの地へ移って来た時、周囲はまだ大名屋敷の名残りをとどめ、東京タワーの建つ小高い丘は芝の増上寺の塔頭が多数残っていたに違いない。そんな昔を想像しながら赤羽橋の交差点を渡り、東京タワーの足元へと向かう。芝公園の紅葉もだいぶ終わりかけている。
 東京に住んでいると、東京タワーの中に入ることはまずないが、散歩がてら訪れて足元から見上げてみると、それはそれで面白いものだ。
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 アジア人の観光客が多い東京タワーの直下を過ぎ、飯倉の交差点に向かって歩いていくと、右手に寺が一つ。「勝林山 金地院」の名前に、思わず私は足を止めた。金地院(こんちいん)といえば、徳川家康のブレーンだった臨済僧・金地院崇伝(以心崇伝)の名を思い出す。
 「コンチインスウデンって、誰のこと?」
 家内はキョトンとした顔をしているが、戦国の世が終わって江戸時代に入ると日本史は人気がなくなるから、知られてなくても仕方のないことだ。

 崇伝は足利将軍家の家臣である一色家に生まれたが、その足利幕府が滅亡したため僧籍に入り、後に京都・南禅寺の住持に就任。やがて家康に招かれて政治顧問となり、キリスト教の禁教令や武家諸法度、禁中並公家諸法度の起草に係わったとされる。豊臣家を滅亡に追い込む「大阪夏の陣」のきっかけとなった、方広寺の鐘銘への言いがかりにも係わるなど、家康の側近として権勢をふるって「黒衣の宰相」と呼ばれた、豪腕で腹黒いイメージのある男である。
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(以心崇伝 1569~1633)

 「崇伝は、室町時代から外交文書を司っていた鹿苑僧録の職にあり、秀吉、家康にも仕えた西笑承兌(せいしょうじょうたい)と親しかった関係で家康と知り合い、承兌死後、鹿苑僧録を継ぎ、外交文書を作成するようになるが、やがて家康の外交顧問、政治顧問の如き役割をするようになる。」
 (『梅原 猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)

 金地院とは南禅寺の塔頭の一つで、小堀遠州の作った庭で有名な寺だが、その名前がなぜここに? 私は不勉強だったので帰宅後に調べてみると、家康に取り立てられてからの崇伝は京都と江戸を往復する生活で、その江戸執務のための居寺として1619(元和5)年に田安門内に金地院が創建され、それが寛永期(崇伝の死後)に現在の場所に移転したのだそうだ。だから崇伝は江戸の金地院の開山であり、現在この寺は南禅寺の東京出張所でもあるという。
 それにしても、戦乱期にようやく終止符を打った元和堰武の時代に、臨済宗の禅僧がなぜ家康から重用されたのか。

 「彼(崇伝)の書いた『異国日記』を読むと、彼は得られるかぎりの外交情報を集め、東アジアの政治情勢を的確に把握し、家康によき助言を与えていたことが分かる。」
 「徳川氏が天下を取ったものの、武士たちのなかで外交や法律の知識のある者は皆無で、そこで代々相国寺の僧が務めた鹿苑僧録を引き継いだ崇伝が、このような外交や法律の文書の作成をほとんど一人で成し遂げた。」
 (いずれも、前掲書)

 戦乱の火種であった豊臣家を滅ぼし、以後は恒久平和の世を実現するという大きなビジョンの下、自分達に欠けているものを補うために、これぞという人材を外から見つけてきて登用する、このあたりは家康という政治家のスケールの大きさを改めて感じさせる話である。
 「政治主導」の名の下に何でも自分でやろうとした結果、外交も国防も、そして肝心の財政再建についてさえ素人ぶりを露呈して国を混乱させている今の政権党の人々は、こういう歴史に学んでいるのだろうか?
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 江戸無血開城を決めた薩摩の蔵屋敷と、徳川幕府による統治体制の基礎を作った崇伝ゆかりの寺。今日は偶然ながら江戸時代の終点から起点へとさかのぼる散歩になった。そう思うと、東京の街中にも歴史のヒントが色々とあるものだ。

 金地院を過ぎて道をまっすぐ進むと飯倉の交差点。そこを右に曲がって桜田通りを歩き、神谷町の四つ角のカフェで一休みしてから、家内と私はホテルオークラを超えて溜池山王の駅まで歩いた。
 陽が差して暖かくなった雨上がりの午後には、夕闇が迫り始めていた。

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