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ボストンが保存したオールド・ジャパン [美術]


 2月最後の日曜日。昨日からの穏やかな好天がまだ続き、日中は更に暖かくなるという。家内と「日曜朝市」で週に一度の買出しを済ませた後、いつもより薄着をして、昼前から二人で街に出た。

 メトロを乗り継いで恵比寿駅で下車。地下から表に出ると、太陽がまぶしい。私はカジュアル・シャツにジャケット一枚の格好だが、そのジャケットもいらないぐらいの暖かさだ。花粉症持ちの家内は、大気中に漂うものを感じたようで、早くも鼻をグスグスいわせている。そんな時に外に連れ出すのは申し訳ないのだが、今日は二人で決めていたことがあった。

 やや上り坂の駒沢通りを都心方向に歩くこと約10分。山種美術館に入る。昨日から始まったばかりの『ボストン美術館浮世絵名品展』が今日のお目当てである。

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 19世紀の後半、南北戦争(1861~65年)に北軍が勝利して以降、急速な工業化・資本主義化が始まって空前の好景気に沸いていた米国。その頃、東部のニューイングランドでは、遥か東洋から船で運び込まれた日本の古美術品や伝統工芸品、錦絵などの数々に知識階級の多くの人々が魅せられていたという。

 1870年に設立されたボストン美術館は、「日本国外では質量ともに世界屈指のコレクション」と呼ばれる日本美術の所蔵品を有していることで知られるが、それは上記のような人々がその時期の日本に渡り、膨大な数の文物を買い集めた、そのコレクションがベースになっているという。今回はその中から、天明期(1781~89年)から寛政期(1789~1801)にかけて、つまり田沼意次や老中・松平定信の時代に活躍した、絵師の鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽らの作品を中心に取り上げた美術展である。ボストンにある浮世絵をこれだけまとまった形で鑑賞できるのも、めったにないことだ。
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(鳥居清長 『風俗東之錦 萩見』)

 私たちが一般に「浮世絵」と呼ぶものは、鈴木春信(1725~70)が大ヒットさせた多色刷りの美人画に始まる、いわゆる「錦絵」である。春信の存在があまりにも大きかったために、一頃はそのパターンを踏襲する絵師ばかりだったようだが、その死後10年を経て時代が天明期に入ると、戯作と錦絵を組み合わせたり、ブロマイド風の「大首絵」をヒットさせたりした名プロデューサー、蔦屋重三郎の活躍もあって、個性的な画風の絵師たちが登場することになる。それが清長であり、歌麿、写楽であった。錦絵の黄金時代である。
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-12-05

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(喜多川歌麿 『青楼遊君合鏡 丁字屋 雛鶴 雛松』)

 それにしても、会場には画面が大きくて立派な作品が揃っている。当時買い付けられた錦絵の中でも相当な選りすぐりだったのだろう。そして、個々の作品の説明書きに目を通すと、所蔵者として ”William Sturgis Bigelow Collection” と記されたものが実に多い。ウィリアム・スタージス・ビゲロウ(1850~1926)。私もその名を知ったのはつい数年前のことだが、もっともっと日本の中で知られるべき人物である。

 ビゲロウはボストンの裕福な貿易商の家に生まれ、父親の強い勧めで医師の道を目指したが、地元である講演を聴いたことが彼の人生をまるっきり変えてしまった。それは、同じボストン出身で日本の「お雇い外人」になったエドワード・シルヴェスター・モース(1838~1925)。大森貝塚の発見で名高い、あのモース博士が帰国した時の講演である。

 モースは初回の日本滞在中に、伝統的な陶磁器が持つ「自然の気まぐれが作った天然の美」にすっかり魅了されてしまい、以後数度にわたる訪日で5千点以上のものを買い集めたという。(もちろん、そのモースのコレクションもボストン美術館の所蔵品となっている。)
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(ウィリアム・スタージス・ビゲロウ 1850~1926)

 1881(明治14)年のモースの講演に大いに触発されたビゲロウは、翌年にはもう日本に渡る。それも、仏教に帰依し、四六時中を修行僧の格好で暮らし、日本の奥深くを歩き回り、フェノロサや岡倉天心らと行動を共にして、由緒ある寺院や古美術品の修復のための寄付を集め、日本の新進気鋭の芸術家たちを支援するという、実にエネルギッシュな日々を送るうちに、結局7年も滞在することになった。その間に収集したものは錦絵に留まらず、刀剣類や漆器、染織物、彫刻なども含めて、実に4万点にも及んだそうである。
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(東洲斎写楽 『市川男女蔵の奴一平』)

 そして、帰国後は米国有数の親日派として行動し、後に大統領となるセオドア・ルーズヴェルトに新渡戸稲造の『武士道』を進講し、日露開戦にあたっては、その後の講和を取り持つよう、ルーズヴェルトに強く進言したという。誰もが日本の敗戦は必至と予想していただけに、ビゲロウは愛する日本の将来が心配でたまらなかったのである。(因みに、ビゲロウの墓は大津市の三井寺の一画にあるそうだ。)

 ビゲロウが日本に滞在した明治14年から22年といえば、自由民権運動から内閣制度の発足、憲法制定に至る時期である。鹿鳴館が建てられ、欧化政策が急ピッチで進められた頃だ。だから、国民は日本の伝統的な文物には価値を見出さず、それらはただ同然で外国人に売り払われてしまった。加えて、明治の初年に出された「神仏分離令」のために、誠に不可解なことながら、それまで崇められていた仏教寺院や仏像などが猛烈な勢いで破壊された。いわゆる「廃仏毀釈」である。

 ボストンから日本に渡り、日本の伝統文化や美術工芸品に魅了されたモースやビゲロウ、フェノロサらは、そうした有様に大いに心を痛め、それならばと自分たちで買い付けに走る。「日本人が売るから買うのだが、実にもったいないことだ」との思いを抱えながら。

 「もし日本人が“オールド・ジャパン”を保存するつもりがないのなら、誰か他の者がそれをしなくてはならない。ボストンとその周辺地域の各博物館、中でもボストン美術館とセイラムのピーボディ・アカデミーで引き受ければいいではないか。」
(『グレイト・ウェイヴ-日本とアメリカの求めたもの-』 クリストファー・ベンフィー著、大橋悦子訳、小学館)

 錦絵についても、このようにして大量の作品が日本から流出し、目ぼしい物は明治期の間に日本から姿を消してしまった。そして、誠に皮肉なことながら、その大量流出によって日本の美術品が多数の欧米人の目に触れたことが、海外で「ジャポニズム」が流行する下地を作ったのだという。しかしながら幸いなことに、当時の日本人に代わって“オールド・ジャパン”の保存に努めたボストンの知識階級の人々がいてくれた。そのおかげで、現代の私たちは日本に残されていない清長や歌麿、写楽をゆっくりと鑑賞することができる。

 だから当時の日本人はダメだった、などと単純なことを言うつもりはない。革命などが起きた時、熱にうなされるようにして過去の文化を全否定することは、色々な国で起きてきたことだ。要は、こうした事実・経緯があったことを民族としてきちんと認識し、同じ過ちを繰り返さないことである。

 会場は盛況ながらも、私たちは好きなだけの時間を使って全作品を鑑賞することができた。江戸中期の文化水準の高さを改めて認識させられる、素晴らしい作品ばかりで、家内も「本当に見応えがあった」と大いに満足していた。それらは普段ボストンにあって、訪れた人々を魅了し続けてきたことだろう。やはり、文化とはいいものだ。

 なお、前掲書『グレイト・ウェイヴ』は、19世紀後半の空前の好景気によって『成金の時代』を迎えた米国で、その薄っぺらな時代の風潮に嫌気がさし、ボストン港で陸揚げされた日本の古美術に魅せられて日本を目指したニューイングランドのエリートたちを描いた、非常に興味深い書籍である。もちろんモースもビゲロウもフェノロサも、あまた登場する人物の中の一人だ。
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 この本の翻訳者が私の友人で、ご親切にも訳者贈呈で一冊を分けていただき、じっくりと読ませてもらったのが数年前のことだ。日米の架け橋になるような素晴らしい作品を世に送り出してくれた友の偉業に、改めて敬意を表したいと思う。

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