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暴れ回る「影」 (1) [経済]

 ギリシャに始まってイタリアへと、欧州発の信用危機に揺れる世界。地中海沿岸の国々で政府の累積債務が膨らんでいることへの懸念から、国際金融市場が落ち着かない。今週はドイツ以外の欧州各国の国債が軒並み売られやすい展開になり、フランスの格下げまでが織り込まれ始めた。

 リーマン・ショックをピークとする3年前の金融危機の際、パニックの連鎖を防ぐために各国政府が金融機関の国有化や増資に対応せざるを得ず、景気対策と合わせて巨額の財政資金が投じられた、そのことの後遺症がいよいよ深刻になってきた訳だが、市場の標的になった当事者はたまったものではないだろう。
 
 今からちょうど30年前に私が大学を卒業して社会に出た頃、金融とはもっと素朴な姿をしていたものだった。

 「金融とは実体経済に対してゼニ・カネの側面から光を当てた時に現われる影のようなものだ。」

 当時、そんな解説を何かの本で読んだ記憶がある。そして、それは影なのだから、実体経済をさしおいて前面に出てはいけない、資本主義経済の主役はあくまでも実業界であり、金融業は黒衣(くろご)なのだと。外国為替を例にとれば、為替予約の取引に「実需原則」という規制があった時代は、実需(モノの貿易)と為替が1対1の関係にあった訳だから、「金融は実需に寄り添う影なのだ」というのは至極もっともな説明だったのだろう。

 それから30年、影が影としておとなしくしていた時代は、とっくに終わっている。或る試算によれば、全世界で通貨を売り買いする毎日の出来高が、2007年時点で一日当たりの世界の貿易高の100倍以上であったという。株の世界では、ヘッジ・ファンドがコンピュータによる株式の超高速売買を行なうために、証券取引所のシステムもそれに対応することが今や不可欠だ。カネの世界はなぜこのように、モノの世界からかけ離れた巨大な存在になったのだろう。

 近刊『金融が乗っ取る世界経済』 (中公文庫)の中で、著者のロナルド・ドーアは過去30年の歴史を振り返り、「無名の当事者が取引し合う市場に統合されたシステム」と、「自己利益の追求を、人間にとって当然の基本的な動機付けとして、他人の利益追求を妨害しない程度に規制はしても自由に行なわせるべきであるという思想」をベースにしたアングロサクソン型の資本主義が、それとは対極的な性格を持つ日本やドイツの資本主義に勝利し、「経済の金融化」がグローバルに進展した時代だったと総括している。

 1925年生まれの著者は、大変な知日派の社会学者として知られる。自らが生まれ育った英国と比較して日本の社会構造、常識、通念を解明することに取り組み、「モノ作り文化」と「カネ作り文化」の違いに大きな関心を持ってきた学者である。
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 「経済の金融化」とは聞き慣れない言葉だが、アングロサクソン型の資本主義モデルが勝利し、’90年代以降に欧州各国や日本も、止むを得ずある程度それに追随したことによって、「先進工業国・脱工業国の総所得において、金融業に携わっている人たちの取り分が大きくなる傾向」にあり、金融業者が圧倒的な経済力と政治力を持つようになった、そのことを指している。

 それを可能にしたのは以下の三点だという。(米国の今の姿をイメージすればわかりやすい。)

①株式の取得を通じて、経営者資本主義から投資家(=株主)資本主義へと移行し、企業がますます「投資家」の所有物となっていったこと。
(→ これにより「株主価値」の極大化が優先された結果、会社経営ではROE(株主資本利益率)やPER(株価収益率)が重視され、買収ファンドなどが企業に対して発言権を持つようになり、そしてストック・オプションを持つことが経営者のインセンティブになった。)

②金融市場を活性化させることで国際競争力を強化するために、各国で「貯蓄から投資へ」などのスローガンの下、国民に対して「証券文化」が奨励されたこと。
(→これにより個人金融資産の中で株や債券のシェアが増加し、企業年金も確定給付型から確定拠出型に移行した。)

③「直接金融」と称して、金融業者が金融工学を駆使し、貯蓄者・投資家と、ファイナンスを必要とする実体経済の立役者との間に「投機的な市場」を作り出したこと。
(→これによって登場したのが、デリバティブ(金融派生商品)の数々だ。信用力の低い個人向けの住宅ローン(いわゆるサブプライム・ローン)を多数束ねて「証券化」したCDO(債務担保証券)、社債のデフォルト・リスクを回避するために開発された保険のような商品、CDS(クレジット・デリバティブ・スワップ)などが代表例で、米国の不動産バブル期にそれらは大変な勢いで増殖していった。)

 そして、これらを通じて金融業界は大儲けを続け、そこに従事する人々の取り分がどんどんと増えていった。ウォール街の経営者やスター・プレイヤーたちが手にした報酬の巨額さは言うまでもないだろう。実体経済の「影」であったはずの金融は、それを遥かに飛び越えて、米国や英国では今や稼ぎ頭の産業になった。

 その結果、世の中はどうなったのか。(これまた米国の現状を見ればわかりやすい。)

①国民の間で所得や資産の格差が著しく拡大した。(米国では一番裕福な1%の人々が個人資産全体の38%を持つと言われる。) 
②個人の金融資産も年金も株式市場の動向に左右されるようになり、安定的な生活設計が難しい世の中になった。
③各世代の最も優秀な人材が金融業に吸収されてしまい、他産業へ行かなくなった。
④金融が市場を通して行なわれることで取引の相手が見えにくくなり、金融の本来の姿であった「人と人が面と向かって築く信用関係」が侵食されていった。(→違法でない限り、「『情報の非対称性』を利用して、債務者の無知をいいことに搾取することが当たり前」といった風潮になった。)

 超巨大な存在にまで増殖していった金融は、こういう世の中を作り、バブルを膨らませていったが、2006年の終わり頃から、それが次々に弾けて大きな金融危機に発展した。
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 ロナルド・ドーアのこうした説明は確かに解りやすいのだが、私にはどこか「喰い足りなさ」が残る。

 なぜアングロサクソン型資本主義が’90年代に勝利したのか。それは、アングロサクソンの文化が「自己利益の追求」を原動力とすることを是とし、物事の価値をカネという抽象的な概念に置き換える思考に最も長けており、この時期に飛躍的に進歩したIT技術を最もうまく活用できたからだと私は思うのだが、それではなぜ、アングロサクソンがそういう文化を作り上げてきたのか、言い換えれば、数ある民族の中でなぜアングロサクソンが、カネで物を考えることが一番得意で、そのカネを際限なく増やしていくことに夢中になるのか、本書はそこには踏み込んでいない。

 こうしたアングロサクソン型資本主義とは対極的なものとして、著者は日本やドイツの資本主義を、

(無機質な市場ではなく)「知り合う、取引し合う当事者のネットワークに統合されたシステム」と、「もちろんお金はありがたいものだが、人間がなぜ一生懸命、かつ良心的に、創造性と起業家精神を発揮して働くのかと問われれば、お金はその理由のごく一部にすぎない。仕事自体の充実感や、職場の結束、取引関係やその他の社会関係から生まれる義理や人情、さらに働く環境や報酬の配分が公正であるかどうかといった『公平感』などを重視する態度」をベースに、より「社会に埋め込まれた」資本主義

であると理解しており、むしろそちらの方に共感を持っている風にも読めるだけに、その両者の違いの源泉はどこにあるのか、そこに踏み込んで欲しかったという思いが残る。(それは経済学や社会学の範疇を越えてしまうのだろうけれど。)

 ともかくも、アングロサクソン型資本主義にリードされて拡大を続けてきた金融の世界。過去の教訓を踏まえて、私たちは今後、それを適切にコントロールすることが出来るのだろうか。

 もう少し頭の整理を続けてみたい。

(to be continued)

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