SSブログ

暴れ回る「影」 (2) [経済]

 2009年1月20日(月)。真冬の寒さの中、米ワシントンDCの連邦議会議事堂で現地時間の午前10時から行なわれた、バラク・オバマ氏の大統領就任式の様子を伝えたテレビ(或いはインターネット上の)画像は、まだ私たちの記憶にも新しいところだ。

 米国で4年に一度、しかも政権党の交代となる新大統領就任ともなると、やはり注目度が違う。当日、議事堂前の公園広場に詰めかけた180万人とも200万人とも言われる聴衆の数は、新大統領が掲げたスローガン ”Change we can !”への期待の大きさを表わしていた。

 就任式の冒頭で、音楽隊の演奏のもと、歴代の大統領が紹介されていく。カーター夫妻、”パパ”・ブッシュ夫妻、クリントン夫妻・・・。そこまではいい。だが驚いたのは、その次に前政権のチェイニー副大統領が登場し、続いてブッシュ大統領が姿を現した時、議事堂前は大変なブーイングの嵐になったことだった。いかに政権交代とはいえ、前大統領らがここまで石もて追われるようにして議事堂前を去らねばならないとは。

 無理もない。米国は前年9月のリーマン・ショックに象徴される大きな金融危機の「震源地」で、ローンを返せず家を失った人、職を失った人、住宅市場の低迷や株価暴落で資産価値が大きく目減りした人が増加の一途だった。そうした危機を招くような事態を放置し、更には危機発生後の対応に失敗したとして、共和党のブッシュ前政権は国民から強い批判を浴びていたのだ。
20Jan2009.jpg

 そのブッシュ時代に推し進められた諸々の政策は、「新自由主義」思想に基づくものとされる。それは世間一般には、「市場原理主義に基づき、低福祉、低負担、自己責任を基本とする『小さな政府』を志向し、均衡財政、公営事業の民営化、規制緩和を推進し・・・」というような思想だと受け止められていて、「市場競争を煽って格差を拡大する」などの批判が向けられることが少なくない。日本では、一頃の「小泉・竹中改革路線」を批判する文脈の中で使われることが多いようだ。

 そして、2007年夏のサブプライム・ローンの破綻に始まった一連の金融危機は、「米国系の大手銀行や証券会社がひたすら金儲けを追及した結果、生み出された住宅市場バブルの破綻によって、世界経済が危機に陥った」のであり、「これは金融市場の規制緩和の行きすぎによるもの」であるとして、新自由主義が危機の原因を作り、危機の発生を放置し、対応を誤らせた、という批判もよく耳にするところだ。

 『新自由主義の復権』 (八代尚宏 著、中公新書)は、新自由主義に対する世間一般の誤解を解きほぐしつつ、新自由主義の立場から「サブプライム・ローン問題の本質」の説明をも試みている。「最も嫌われる経済思想の逆襲」などという、いささか挑戦的なサブタイトルが付けられているが、先入観から離れて「新自由主義とは何か」を改めて整理してみるには、いい材料になるだろう。

 新自由主義の「正しい定義」について、その詳細は本書に譲ることにしよう。端的に言えば、「政府による市場への個別介入よりも、一定の枠組みのもとで、個人や企業が利益を追求する仕組みを活用するほうが、社会に望ましい結果をもたらす。」という考え方が根本にあって、

①資源配分面で市場競争を重視し、市場における行動について共通の透明性のあるルールを課す。(→参入障壁を撤廃する一方で、市場競争に反する行為、詐欺行為等については実効性のあるペナルティーを整備する。)
②最小のコストで最大の効果を達成する、効率的な所得再分配政策を目指す。(→所得移転は、それを真に必要としている層に直接届くものに重点を置く。「同一労働・同一賃金」を原則とし、年功賃金や過度の雇用保障はなくす。)
③政府によって運用される社会保険制度は、その負担としての保険料が確実に徴収されるよう、公平な仕組みを構築する。

などが骨子となるものだという。

 「『賢人政治』の思想」(政府による資源配分や所得分配の規模拡大を重視する思想)や、「伝統的な『共同体重視』の思想」(零細農家や中小企業、郵便局などを重視し、市場競争から保護すべきだとする思想)とは対峙する考え方だが、誤解を振り払うために著者が何度も繰り返しているのは、「新自由主義=市場が全て、自由放任主義」ではなく、「市場の失敗」があった場合には政府の出番を認めていることだ。
102123.jpg

 さて、ブッシュ政権が国民の怒りを買った、2007年夏に始まるサブプライム・ローンの破綻とそれに続く金融危機。それは、

● 「米国の住宅価格は今後も持続的に上昇する」という能天気な前提で、信用力の低い個人向けに金融機関が住宅ローンを野放図に提供、
● そうした本来は貸し倒れリスクの高い住宅ローン債権を、投資銀行などが、買い手にはその内容が理解できないほど複雑な証券化商品(CDO)に仕立て上げて大量に販売、

という形で膨れ上がった金融バブルが、米国住宅市場のピークアウトと共に破裂したものだが、いざ破裂してみると、証券化商品やCDS(クレジット・デリバティブ・スワップ)を通じて「負の連鎖」が瞬く間に世界に広がるという、史上例を見ないタイプの金融危機に発展することになった。その昔は「実体経済の影」であったはずなのに、それをかけ離れた巨大な存在になっていた金融が世界中で大暴れをした、典型的な事例といえるだろう。

 欧米では金融市場が機能不全に陥り、政府が国有化や増資の引受によって金融機関や保険会社を救済せざるを得なくなる一方、救済された企業の幹部たちが、そうした事態を招来しながら高額の報酬を受け取っていたことに、世間の強い批判が集まることになった。

 本書の著者はこの危機について、新自由主義の考え方から以下のような指摘をしている。

①サブプライム・ローンの破綻を契機とした金融危機が「市場の失敗」であることは確かだが、今後の対応として金融取引に単なる規制強化をしても、金融市場を縮小させるだけ。市場の参加者に正しいインセンティブを与え、市場の本来の機能を発揮させる「最適な規制」を考えるべき。

②政府に救済された大手金融機関の経営者が法外な額の報酬を受け取ったことへの批判が強いが、経営者への報酬が遥かに少額だった日本などでも、かつてはバブルの発生・崩壊があったのだから、「経営者の道徳」の観点だけから論じるのは誤り。

③リスクの大きな金融取引が世界的に普及したこと自体は金融市場の自由化の結果だが、最後には政府が救済してくれるという暗黙の前提がモラル・ハザードを生み、そうした取引をいっそう促進させた面がある。

④サブプラム・ローン問題の原因は、規制の弱さよりも、売り手と買い手との間で情報の非対称性を悪用したビジネスモデルを格付機関などが十分にチェックできなかったこと。インセンティブ構造の誤りや、監督行政の非効率性を改善し、健全な市場を取り戻すための改革を考えるべき。

⑤金融危機が起きたからといって、新たな金融商品の開発を抑制することは誤り。企業や個人のインセンティブを経済全体の利益に沿う方向に向ける、「効率的な規制」を目指すべき。

 金融市場をサッカーの試合にたとえれば、何はともあれ活発なゲームが行われなければ意味がないのだから、ゲームのルールは選手のモチベーションを下げてしまうようなものであってはならない。一方で、審判は選手の動きとボールの行方をよく見て,、「ルールに違反したことが必ず自らに不利になる」ようにファウルを取り扱っていかねばならない、といったところだろうか。ジャッジはタイムリーに下されねばならないから、審判は足も速くないといけない。
15Sep2008.jpg

 世間一般では「新自由主義によってサブプライム危機が起きた。」と受け止められることが多いが、著者の議論に従えば、「新自由主義が不完全な形だったからサブプライム危機が起きた。」ということになるのだろう。

 それでは、サブプライム・ローンの崩壊が始まるよりも前に、新自由主義の立場から、「今のままでは危ない。市場のルールが不完全だ。証券化商品の監督、格付機関のあり方、企業経営者の報酬体系などを早く見直さないと大変なことになる。」といった警鐘は鳴らされていたのだろうか。2006年以前の米国でどんな議論があったのかなかったのか、私はフォローしていないから解らないが、新自由主義であろうとなかろうと、今になってからの「後講釈」しか出来ないのだったら何の意味もない。

 著者は、「『最後には政府が救済してくれる』というモラル・ハザードがあったから、証券化を通じた金融バブルに歯止めがかからなかった。」と述べているが、金融機関や保険会社は、「こんな稼ぎは長続きしない。サブプライム・ローン証券化のビジネスも早晩行き詰る。でも、どうせ政府が救ってくれるからいいか。」という風に考えて突っ走り続けたのだろうか。私にはいささか疑問のあるところだ。

 「高度な金融工学の技術を駆使して開発された」証券化商品が、実は米国の住宅市場の持続的な右肩上がりを前提にしていたという、案外単純なものであったことには、気がついていた当事者もいたのだろう。だが、物事がいい方向に向かっていてどんどん儲かる時は、人間というのは案外そうしたことを忘れてしまうものなのかもしれない。「どうせ政府が救ってくれるから・・・」というようにバブルの崩壊シナリオまで織り込むほど冷静ではなく、儲かっている間はそんなことを考えもしなかった、というのが実態ではないだろうか。

 モノは作り過ぎればいつかは余るから、市場における需要と供給のバランスに任せておけばいいのかもしれないが、カネはリスクを取って自己ポジションを増やせば際限なく売り買いが可能だし、その結果として儲けが増えていく間は、「もうこれで充分」という理性・節度は働きにくいものだ。

 企業や個人が利益を追求することを市場の原動力として重視する新自由主義。かつてチャーチルが民主主義のことを指して、「それは最悪の政治形態だが、かつて試みられたそれ以外のいかなる政治形態よりもましなものだ。」と述べた、それと同じようなことなのかもしれない。だが、ことカネに関することについては、何かあればモノの世界を遥かに超えたスケールで暴走をしやすく、それは止めにくいものだという前提で考えて行く必要があるのではないだろうか。

 そのあたりは、また機会を見つけて頭の整理を続けてみたい。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

暴れ回る「影」 (1)葡萄畑の中で ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。