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聖なる金曜日 [宗教]

 4月5日、木曜日。仕事を終えて帰りの電車に乗ると、夜空に月が上がっているのが、窓からよく見えた。 満月まであと二日ほどの明るい月である。一昨日に日本列島を春の嵐が駆け抜けて空気がきれいになったのか、或いは新たに入り込んだ寒気のせいか、春先によくある朧月夜ではなくて、今夜の月は実に冴え冴えとしている。

 仕事がいつもより少し遅くなったのは、夕方からドイツの相手とやり取りをしていたためだった。現地では明日の金曜日から翌週の月曜日までが祝日になるから、必要なことは相手との間で今日中に済ませておかねばならない。そんな事情もあって今日は少し忙しくなったのだが、目標としていたことは何とかクリアーすることが出来た。

 仕事を終え、ちょっとした安堵感と共に眺める夜空の月。そこでふと我に帰った。明日から始まるヨーロッパの祝日。よく考えてみれば、今夜の月が大きいのは当たり前のことなのだ。

 「春分の次の満月に続く日曜日」

 これが、キリスト教における「復活祭(イースター)」の定義だそうである。今年は4月7日(土)が春分の後の最初の満月だから、その翌日の8日(日)がそれにあたる。
Good Friday 01.JPG
(イスタンブール、カーリエ博物館に残るフレスコ画の「主の復活」)

 神の子イエスは、エルサレムに向かう道すがら、弟子たちに不吉な予告をした。私は都で十字架にかけられ、三日目によみがえるだろうと。

 エルサレムではちょうど、モーセの時代の「出エジプト」を祝う「過越しの祭」のためにユダヤ人たちが続々と集まっていた。イエスが12人の弟子たちと共に行った「最後の晩餐」も、この過越しの祝いの食事なのだが、食事の半ばに「あなたがたの一人が私を売り渡すだろう。」とイエスが発言したこの晩餐が、エルサレム入城から四日後の木曜日のことだったとされる。

 そして晩餐の後、イエスはゲッセマネのオリーブ山の上で最後の祈りを捧げ、その後に追手によって捕らえられる。夜間のことだ。そして尋問を受け、笞打たれ、茨の冠・十字架と共に市中を引き回された上、ゴルゴタの丘で磔刑に処されたのが金曜日の夕方だった。キリスト受難の日である。(この日は、欧州各国の言語では「聖なる金曜日」という意味の言葉で呼ばれるのだが、英語だけは”Good Friday”という。ちょっと不思議な感覚である。)

 処刑が金曜日の夕方というのは、実はユダヤ人にとっては大きなことであるそうだ。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日なのだ。それは神様が決めたものだから従わねばならず、人々は一日中外出することなく、神様を想って静かにしていなければならない。だから、弟子たちは処刑後のキリストを直ちに埋葬せねばならず、遺体の引取りを申し出たヨセフによって速やかに墓に入れられたという。

 そのキリストが「復活」したのは、彼の予告通り、十字架にかけられた日から三日目の日曜日のことだったとされる。遺体を弟子たちが盗みに来るのを恐れた総督ピラトが墓に番兵を立たせたが、その番兵たちが眠りこけている間にキリストが復活したと伝えられるものの、聖書にはそうした記載がないという。

 イエスの亡骸に香油を塗りに墓を訪れたマグダラのマリアは、石棚の上に埋葬布がまだ置かれていたものの、遺体がなくなっていることを知り、その場にうずくまって泣き始める。

 「女よ」
 だれかが彼女に呼びかけていた。
 「女よ」 朝のなかをつきぬけて耳にひびく、すきとおった声だった。
 「女よ、なぜ泣いているのか」
 泣きじゃくって息を荒げたマリアは目をあげ、園丁が来たのだと想った。
 「主がはこび去られてしまったからです」 彼女はすすり泣いた。「そしてどこに置かれているのかもわかりません」
 男は言った。「だれをさがしているのか」
 「ああ、あなたが彼をはこんでいったなら、どこだか教えてください。そうしたらわたしが彼を引き取りますから」
 マリアは立ち上がりながら言った。
 男は彼女の正面で立ち止まった──長く黒い髪が、涙をとおしてみえた。白い上着。ひげはきれいに剃られていた。
 しずかでなじみのある声で男は言った、「ああ、マリアよ」
 彼女は息をのんだ。
 目をこらすと、美しいひたい、愛する主イエスのカラスのように黒い髪と、ゆるぎない金色のまなざしがみえた。
 「ラボニ」 彼女はさけんだ。
 「しずかに、しずかに、子よ──しずかに」 イエスは唇に指をあてた。「今はわたしによりそうことはできない、まだ父のもとへのぼっていないから。しかしわたしの友人たちのところへ行って、わたしの父、あなたがたの父、わたしの神、あなたがたの神のもとへ、わたしがのぼってゆくことをつげなさい」
 (「小説『聖書』 新約篇」 ウォルター・ワンゲリン 著、仲村明子 訳、 徳間書店)

 キリスト教の祝祭は、大きく四種類に分けられるという。降誕祭に関するもの、復活祭に関するもの、聖母マリアに関するもの、そして天使・使徒・聖人に関するものの四種類である。この中で復活祭は極めて重要かつ大きな祝祭であり、キリストの復活から昇天までの40日間にわたるものだ。だが、クリスマスなどに比べると、日本では全くと言っていいほど話題にならず、「復活祭」の文字を目にすることもない。

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
 (『コリントの信徒への手紙』)

 パウロがこう述べているように、キリスト教の信仰においては、ゴルゴタの丘で処刑されたイエスがその三日目に復活した、ここからがまさに肝なのだろう。だが、日本人がキリスト教に今ひとつ馴染めないのは、キリスト受難のむごたらしい話に人気がないことに加え、イエスは人類の原罪を一人背負って死んだので、そこで人類は救済されたという考え方、神聖なるものとは「父と子と聖霊」であるという考え方などが難解極まりないことだろう。(もっと言えば、その「父と子と聖霊」が三位一体であるかどうかについて延々と論争を続け、異端を迫害してきたことなども、違和感を覚えやすいところだ。)

 「春分の次の満月に続く日曜日」という定義からすると、復活祭は早くて三月下旬、多くの場合は四月の前半だ。緯度が高いヨーロッパでは、日の出・日の入りの時刻の一日当たりの変化が日本よりも速いから、暗く長い冬が過ぎて春が来ると光がどんどん明るくなり、花や緑が一斉にやって来るような印象を受ける。だから、キリスト教の信仰に加えて、イースターは人々にとって待ちに待った春を象徴するものなのかもしれない。モーセの出エジプトを祝う過越しの祭りやキリストの復活。人類はやはり、春になると活動的になるものなのだろうか。

 今年の復活祭、東京の桜はまさに満開の時期を迎えようとしている。今年も巡ってきた花の季節。私たちも時間を無駄にせず、活動的になりたいものだ。
Good Friday 02.JPG
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