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帰り道 (2) 立石寺 [宗教]


 仙台から快速電車に揺られてほぼ一時間。JR仙山線の山寺駅で降りると、吹く風がさらっとしていて心地良い。空の青も山の緑も一段と濃いようだ。ホームの上で思わず深呼吸を一つした。

 駅の前には小さな広場。振り返れば駅舎は和風のレトロな建物だ。その前にあるクラシックな郵便ポストが建物によくマッチしていて、何やら金田一探偵が頭を掻きながら改札口を出て来そうである。
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 再び前を向くと、川の向こうに山の尾根が横たわり、岩の上に小さなお堂が乗っている。宝珠山阿所川院立石寺、通称「山寺」。一言でいえば、山の南斜面全体が一つのお寺なのだ。山の中にある幾つもの建物を結んで、境内には延々と石段が続いている。
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 参拝が出来るエリアで一番上にある大仏殿と奥之院までは、ここから徒歩で往復2時間かかると駅員さんは言う。次に乗る予定の山形行きの電車まで、私には1時間23分しかないが、早足で歩けば何とかなるだろう。こんな時のために、普段から週末の山歩きに出ているのだから。
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 駅前から橋を渡り、道路沿いの商店街を通り抜けて境内へ。天台宗のお寺だからまずあるのは根本中堂だ。そしてその先に日枝神社があるのも、日吉大社が比叡山延暦寺の守護神となっているのと同じである。そして山門からいよいよ山の中へ。あたりには老若男女が大勢・・・と言いたいところだが、「若」は残念ながら少なくて、バス旅行のお年寄りが圧倒的に多数である。

 立石寺を訪れるのは、私にとっては学生時代の夏以来、実に35年ぶりのことだ。あの夏は確か、梅雨明けと共に穂高の山の中で暮らした後、お盆の頃から旧友のT君と飯豊連峰に登った。その帰りに山形市内の彼の下宿に転がり込み、そこで何日かを過ごしている間に、電車に乗って山寺へ来たのである。

 忘れてしまっていることは多いものだ。山の中に続く石段をせっせと登りながら、当時の記憶を私は手繰り寄せようとしている。だが、石段を延々と登ったことや、大きな岩が断崖絶壁を作っていたことは概念として覚えていても、具体的にどんな姿かたちだったかという記憶はちっとも甦ってこない。何せ若い頃のことだ。目に映るものが今とは違っていたのだろう。穂高でも飯豊山でもT君と一緒だったから、立石寺に来ても、この岩壁は登れるだろうかなどと良からぬことを二人で考えていたのかもしれない。
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 立石寺のご由緒は9世紀に遡り、清和天皇の勅願に基づいて慈覚大師円仁(794~864年)が860年に開いたとされる。

 円仁は最澄の愛弟子で、838年から約10年間にわたり唐に留学。帰国後すぐに第三代の天台座主に就任した。日本天台宗はその後二つに分かれて対立し、第五代座主・円珍の系統が比叡山を下りて三井寺を根拠とする「寺門派」を形成するのだが、いずれにしても、この円仁・円珍の存在によって日本天台宗は姿を変え、密教の要素が大きく取り込まれていくことになる。

 「最澄そのものは『法華経』の強い信者であったが、仏教が国家鎮護の役割を引き受けるときに、やはり加持祈祷によって呪力を発揮する真言密教がどうしても必要であった。しかし密教の理解において最澄は空海に劣り、空海に教えを請わねばならなかった。それゆえ最澄の弟子たちは密教を本場の唐で学び、密教においても天台宗を真言宗の上に置こうとする強い願望をもった。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 確かに、日本に伝わった仏教に9世紀になって密教が入って来ると、寺は次第に平地から山の中に入り、伽藍配置も大陸風の左右対称ではなくて、自然の地形を活かした変幻自在なものになっていく。護摩を焚き、加持祈祷によって呪力を発揮したり魔を封じたりするためには日本的な「おどろおどろしさ」が必要で、仏教伝来以前から日本人が神威を感じてきた山や岩、杉の木立といった舞台が必要だったのだろう。

 立石寺の境内(というよりも、山の中)の石段を登っていくと、生い茂る草の中に石仏や墓が点々としていて、一人の日本人として私の心に深く響くものがある。仏さまもご先祖さまの魂も、この鮮やかな草の緑と木洩れ日の中におられるのだという思いは、理屈抜きに私たち日本人のものだろう。そうしたことは、35年前の私には見えていなかったのかもしれない。
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 石段を登り続けていくと、山の中腹に仁王門があり、お年寄りのグループはひとまずそこまでが目標のようだ。その先をなおも登り続けると、やがて山道が左に分かれ、大きな岩の上に建てられた五大堂という眺めのよいお堂にたどり着く。
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(五大堂からの眺め)

 絶壁の上の五大堂。山を上がってきただけのことはあって、吹く風が実に爽やかだ。眼下には谷沿いの家並や仙山線の線路が箱庭のように見えている。行く手には県境の山々が連なり、その向こうは仙台市である。6月に入ったばかりの東北の空と山の緑に、心を奪われる。
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 ここまで来れば、奥之院まではほんの一登りである。足早に歩いてきたのでさすがに汗が出てきた。だが、ここまで上がって来るのは参詣者の全員ではないから、上に行くほど境内は静かである。そして森の緑がひときわ鮮やかになった。松尾芭蕉がこの地を訪れ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という名句を詠んだのは、今の暦では7月13日のことだそうだが、確かにあと一月もすれば、この森は蝉の大合唱になることだろう。

 尾根のスカイラインがだいぶ近づき、最後の階段を登ると、大仏殿と奥之院が並んでいた。一般の人が上がれるのはここまでで、ここから先は修行者しか入れないそうだ。
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(山寺の奥之院)

 慈覚大師円仁が入唐の間に持ち歩いたという釈迦如来像をご本尊とする奥之院。私はその前で両の手を合わせる。35年前にここへ一緒に訪れた旧友T君の父君が、先月の上旬に亡くなられた。何よりもまず、そのご冥福をお祈りしよう。ご不幸があって以来T君とは会っていないが、元気を取り戻してくれているだろうか。併せて、この一年半余りの間、彼が一生懸命に父君の介護に取り組んできたことに、改めて敬意を表したいと思う。

 そして今日は、小田原で私の祖母の四十九日の法要が営まれている。四月の半ば、祖母は104歳の誕生日の当日に、曾孫たちとお祝いのケーキを前に記念写真を撮ったあと、眠るように息を引き取ったという。私は初孫だったから、のんびりとした性格で優しかった祖母との思い出は多い。そのことにも、手を合わせて深く頭を下げたい。

 山を下る。往復2時間と言われたが、境内に入ってここまで30分ほどしかかかっていないから、電車の時間までに降りるのは楽勝だ。その分、山全体が寺というこの場所の雰囲気を楽しみながら、山道をおりることにしよう。

 明治の人は足腰が丈夫で、祖母は80歳を過ぎてから叔父たちに連れられてこの山寺を訪れ、奥之院まで自分の足で登り続けたという。そして歴史が好きで、寺のご由緒や史跡の説明書きなどがあると、立ち止まっていつまでも読んでいたそうだ。そんな祖母のDNAを、私は少しでも受け継いでいるだろうか。

 次の山形行き電車がやって来る20分前に、山寺の駅前に戻った。

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(to be continued)
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