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ワンサイド・ゲーム (2) [政治]


 私が成人して初めて国政選挙の投票をしたのはいつだったのか。当時の記憶は全く残っていないが、調べてみるとおそらくそれは、1976(昭和51)年12月の第34回衆議院議員選挙だったはずである。それは、三木内閣の下で行われた総選挙だった。

 田中角栄首相の華やかな登場と、金脈問題による退陣、そしてロッキード事件の発覚は私の高校・浪人時代の同時代史だ。三木内閣は、その田中退陣を受けた後継者の指名争いで自民党が分裂の危機に直面する中、いわゆる「椎名裁定」によって生まれた政権だった。
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 クリーンなイメージを打ち出していた三木首相は、政治資金規正法の改正を進めた他に、ロッキード事件の徹底究明を約束。田中逮捕にあたっては「伝家の宝刀」たる指揮権発動を行わなかったので、自民党内の強い反発を買い、いわゆる「三木おろし」が始まる。閣僚の署名反対によって首相の解散権は事実上封じられ、衆議院は任期満了まで待っての選挙となった。冒頭で触れたように、それが恐らく私にとって始めての選挙権の行使であったはずだ。

 そして、その選挙で自民党は前回から22議席を減らして単独過半数を割り込む249議席(511議席中)となり、既に自民党を離党していた河野洋平らによる新自由クラブが17議席を獲得。政権交代には至らなかったものの、投票率は73.45%だったというから注目を集めた選挙ではあったのだろう。選挙結果を受けて三木内閣は総辞職に追い込まれ、政権は福田赳夫に回って来ることになった。
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 1955(昭和30)年の保守合同以来、細川護熙の短命政権と先般の民主党による3年4ヶ月の政権を除き、自民党はずっと政権与党であり続けた。官僚組織と一心同体のようにしてこの国を取り仕切ってきたその姿は、明治期に吏党(政府を支持する政党)としてスタートしたエスタブリッシュメント、立憲政友会の戦後版と言うべきだろうか。

 もっとも、戦前の日本では吏党の政友会に対抗して、民党の系譜である憲政会・立憲民政党の存在があり、大正時代以降しばらくの間は二大政党制が実現し、交互に政権を担当する時代があった。それに対して戦後の自民党には、立憲民政党に匹敵するような対抗馬がいない。

 戦後の高度経済成長時代を経て二度の石油危機を乗り越え、世界に冠たる工業力を備えていくまでの日本といえば、自民党政治によって所得の地方分配が図られ、国民全体のパイが増えつつ格差も比較的少ない社会が形成されていった時期である。もちろん、高度経済成長による歪みが公害問題などに現われ、そのことへの批判が社会党や共産党への支持に結びついた時期もあるにはあったが、それが政権交代にまで至ることは全くなかった。

 「派閥の集合体で何かと利権が絡み、選挙のたびに党内で札束が飛び交うのは感心しないが、国民全体が総じて平等に豊かになっていく時代が続く限りは、どこかイデオロギーの匂いがする『革新』よりも『保守』(というより、今まで通りの「お任せ」)の方が安心」ということだったのだろう。事実、この時期に自民党を飛び出して、資本主義の枠組みの中で自民党に対するアンチ・テーゼを打ち出そうとした試みは前述の新自由クラブのみであり、それも10年ほどで潰えてしまった。政権とは、自民党内の「派閥の力学」で決まるのが常識だった。

 「このころ(1989年7月)、私は安倍派の事務総長をしていた。私に竹下派の小沢一郎さんから『若い連中で後継総裁の相談をしよう』と誘いがあった。
 小沢さんを中心に、私、宮沢派の加藤紘一さん、渡辺派の山崎拓さんら各派事務総長クラスが連日、ホテルの一室に集まって協議を続けた。その結果、海部俊樹さんを擁立することで意見が一致した。」
(2012年12月19日 日本経済新聞 『私の履歴書』より)

 今月の日経新聞に連載されている森喜朗元首相の回顧録を読むと、こんな時代もあったなあと、ある種の感慨にとらわれてしまう。

 その「保守」の世界が割れ始めたのは、バブルの崩壊を経ていよいよ低成長時代の到来が避けられなくなり、国家財政が悪化の一途を辿り始めた’90年代の中頃からである。「瓢箪から駒」で1993(平成5)年7月に細川政権が誕生することになったのも、自民党を離党して新生党や新党さきがけを立ち上げる勢力が登場して議席を獲得し、細川率いる日本新党がキャスティング・ボートを握る形になったからだった。
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 ミクロ的には、離党の動きは自民党の中での派閥の対立、そして派閥の中での人脈の対立が原因であったのだろう。既得権益の奪い合いもあったことだろう。だが、より巨視的に見れば、これは従来の自民党型の政治システムが「金属疲労」を起こし、新たな時代に対応出来なくなり始めたことの表れであったに違いない。

 それからの日本は、橋本龍太郎内閣(1996年1月~1998年7月)の時代に深刻な金融危機を経験し、続く小渕恵三内閣(1998年8月~2000年4月)の下で財政赤字が急速に拡大。そして『私の履歴書』を連載中の森喜朗の時代には、自民党の権威もすっかり地に落ちた観があった。

 それに続く自民党内でのガチンコ対決に勝利した小泉純一郎の時代には、「自民党をブッ壊す」という改革路線が一時的に国民の期待を集めたが、党としてその路線は継承されず、ポスト小泉は短命政権が三つも続いたために、2009年8月の総選挙では、さすがの国民も自民党に大きなお灸を据え、民主党がワンサイド・ゲームで政権を取った。そして、今回は再び逆方向へのワンサイド・ゲーム。それも二大政党制の下での再度の政権交代と呼ぶには余りに貧弱な試合内容だった。投票率の低さはそこに大きな原因があるのだろう。

 二大政党の一角を自任しながら、理念先行、経験不足、そして寄せ集めの体質で政策を「決められない」民主党は、自民党型政治へのアンチ・テーゼを殆ど実行に移せないまま自壊し、選挙にも大敗した。そして、民主党から飛び出して行った勢力も含め、非自民の勢力は更に諸党に分裂し、私たちにはその名前すら覚えられないほどだ。行き過ぎたグローバリズムに対する揺れ戻しからか、米国ではオバマ再選、フランスでは社会党のロランドがサルコジを退けるなど、世界の風向きはリベラル派がやや優位という風にも見えるのだが、格差の拡大にもかかわらず、日本の民主党はリベラル派を纏める力もなさそうである。
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 それに対して、捲土重来を果たした自民党は、大敗を喫した三年前からどう変わったのだろう。野党転落前夜の自民党は、諸大臣が不用意な発言をしては更迭を繰り返すなど、全くの人材不足を露呈していたが、それはどう強化されたのだろう。そして、今回の選挙公約を読む限りでは、原発政策もTPPも消費税増税も、自民党の中から早晩「総論賛成、各論反対」が起きそうである。

 自民党自身が変われていない。そして非自民の勢力も有効なアンチ・テーゼを打ち出せずにスケールの小さい合従連衡を繰り返している。これで二大政党時代などというのは噴飯物だろう。

 『政友会と民政党』 (井上寿一 著、中公新書)の結びにおいて、戦前の歴史を踏まえた教訓として著者は三つのポイントを挙げている。

(1) 二大政党制よりも連立政権
 二大政党が政権を奪い合うことが自己目的化するのは無意味である。より重要なことは、複雑な民意を政策に反映させる最適解を求めるための、政党間の協力だ。大きな政党に全てを任せることが政治ではない。

(2) 国民と痛みを分かち合う政治指導者の存在
 選挙を意識した甘言を国民の前で弄するのではなく、公のためには辛いけれどもやらなければならないことを掲げ、それを実行する政治家が必要ということだ。戦前には、金解禁と緊縮財政を掲げ、ロンドン海軍軍縮条約の締結を進めた民政党を、たとえそれが苦い薬であっても国民は支持したのだ。現在の日本でも、増加の一途の社会福祉費を賄うための消費税増税に理解を示す国民は多い。

(3) 政治参加に対する国民の政治感覚の回復
 政権がどんな体たらくに陥ったとしても、それを選んだのは他ならぬ有権者である。国民は三年前に自民党にお灸を据え、今回は民主党に特大のお灸を据えた。だが、そうなる前に我々は政党の政権担当能力をよく見極めねばならない。そして、選挙を通じた政治選択にきちんと参加して行かねばならない。

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 投票所で選挙のポスターを見てから考えるのではなく、歴史の教訓も踏まえて、私たちは常日頃から政党をモニターしていくことが、面倒でも必要なのだ。もっとも、そう言う私自身、36年前に始めて衆議院選挙で投票して以来、有権者としてどれほど賢くなったのかと問われれば、それは甚だ心もとない限りではあるのだが。


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