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禅宗の革命 [宗教]


 黒地の画面いっぱいに描かれた、額の長い男の半身像。僧衣の赤色と野太い輪郭の黒が印象的だ。男は異様なほどのギョロ目で、その眼光は鋭い。「直指人心 見性成仏」などという賛が書かれているから、これは禅画なのだが、それにしては男の顔はどこかコミカルだ。
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 江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく、1685~1768年)が描いたこの男は誰あろう、禅宗の開祖、菩提達磨(ホーディダルマ)、つまり達磨さんである。

 現在の静岡県沼津市に生まれた白隠は、15歳で出家。19歳で全国行脚に出て、24歳の時に信州・飯山で正受老人から厳しい指導を受け、ある時に悟りを得る。やがて神経を病むことになったが、それを呼吸法で克服。京都・妙心寺の末寺にあたる地元の寺で僧としてのスタートを切った白隠は、いつしかその妙心寺の第一座となり、後進の指導にあたるようになった。

 悟りを得た後の厳しい修行を重視し、在家信者の指導にも精力的にあたり、一万点を超えるとされる書画を残し、八十余年の生涯を生き切った、「臨済宗の中興の祖」白隠。彼の作品をまとめて紹介する展覧会が、東京・渋谷のBunkamuraで開かれている。優れた企画である。

 個々の作品が寺の中に置かれているのと違って、これだけの数の白隠の作品が並ぶと、それは紛れもなくアートになる。驚くべきことに、白隠は誰かに絵を習ったようなことはなく、全て自己流なのだそうだが、構図といい筆遣いといい、剛毅なようでも実は繊細な気配りが随所に感じられ、見ていて思わず唸ってしまう。
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(これもまた達磨)

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(「一富士二鷹三なすび」 鷹は羽だけというのがご愛敬)

 臨済宗では、お師家(しけ)さんから修行僧に対して与えられる、「公案」という問いかけが重視されるという。いわゆる「禅問答」と呼ばれるもので、論理を超えたその内容は傍目にはチンプンカンプンなのだが、白隠が残した大きな業績の一つが、古代から伝えられてきた多数の公案を整理・体系化して、教育のプログラムを確立したことにあるそうである。

 「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか。」

 これは、白隠オリジナルの「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」という有名な公案である。もちろん私にはその意味するところは解らない。仏教の入門書にはそれ相応の解説が載ってはいるが、それで解ったつもりになってはいけない。要は、こうした公案をきっかけにしながら己(おのれ)を見つめ、しかもそれに没頭する(「なりきる」という言葉がよく使われる)のが禅というものなのだろう。
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 仏教の入門書といえば、以下のようなエピソードが必ず出て来る。

 釈迦はある時、北インドの霊鷲山で説法をすることがあった。ありがたいお話があるというので多くの弟子たちが集まったのだが、釈迦はいつまでたっても口を開こうとしない。そのうちに梵天(ブラフマン、仏教の守護神)がきれいな蓮の花を捧げると、釈迦はそれを手に取って無言のまま人々に示した。誰もその意味がわからない。すると、弟子たちの中で唯一人、高弟の摩訶迦葉(マカカーシャパ)が釈迦の意を悟って微笑む。そして釈迦はやっと口を開いた。

 我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり。
 不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)にして、
 摩訶迦葉に附嘱す。

 私には、正しい仏法の教えの真髄である涅槃妙心(悟りの不思議な心)と実相無相(物事に執着しない自分自身)という微妙な教えがある。
それを今、文字によらず、言葉によらず、心を通して摩訶迦葉に授けた。迦葉よ、頼んだぞ。

 「拈華微笑(ねんげみしょう)」という話で、釈迦の教えは、こうして迦葉へ、そしてその次の弟子へと、「以心伝心」で継承されていったという。そして、釈迦から数えて28代目になる弟子が、白隠が何度も描いた達磨さんである

 達磨は西暦520年に中国に渡り、山奥の少林寺で岩壁に向かって9年間も座禅を続けたとされる。その間、弟子を取らなかったが、自らの左肘を切り落として求道への決意を示した神光慧可(じんこうえか)だけが入門を認められた。そして、達磨が慧可に残した

 「釈迦から伝わった正法を授け、その印として袈裟を与える。私の教えは五つの葉となって栄えるだろう。」

との言葉の通り、達磨の6代目の弟子・大鑑慧能(だいかんえのう)の登場以降、唐王朝の時代に中国の禅宗には五派(臨済、曹洞、潙仰、雲門、法眼)が形成され、そのうちの臨済宗と曹洞宗が長年にわたって法門をつないでいくことになる。
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 唐王朝も末期に近づき、中国の政情が不安定になると、日本は遣唐使を廃止(894年)。このため中国仏教とは疎遠な時期がそれから続き、いわゆる国風文化が発展していくのだが、再び中国仏教との接触が深まっていくのは12世紀の後半ことになる。中国では宋王朝が北方からの異民族の侵入に悩まされ、日本では貴族から武士へと政治の担い手が替わりつつあるという、共に動乱の時代であった。

 この、宋代の末期から元の時代、そして更には明王朝が興った頃にかけて、臨済宗の系譜だけを見ても、日本からは多くの僧が中国に渡り、そして蘭渓道隆や無学祖元のような中国僧が日本に招かれた。その過程で日本の臨済宗には14の宗派が形成されることになる。(これら14派にはそれぞれの本山がある。)
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 ただ、禅宗は日本では新興の仏教であったために、既存の天台宗などとの摩擦を避けることに当初は配慮せざるを得ず、特に臨済宗は同じく新興勢力である鎌倉幕府にアプローチしてその存在を確立していった。それを受けて鎌倉五山が定められ、次いで室町時代には京都五山が定められた。そうしたプロセスを経て、臨済宗はこの国のエスタブリッシュメントになっていく。

 ところが、その臨済宗の中にも野党的な系譜があった。五山には入らない大徳寺や妙心寺の系統だ。南浦紹明(“大応国師”)、宗峰妙超(“大燈国師”、大徳寺の開山)、そして関山慧玄(“無相大師”、妙心寺の開山)の三人から一文字ずつを取って「応・燈・関の一流」と呼ばれる系統で、いずれも権力に媚びず、厳格清貧、純粋な禅を貫いた人々だ。そして、面白いことにこの野党の方がその後の歴史の中でしっかりと法脈をつなぎ、他を圧倒してしまった。それを可能にしたのが白隠の存在だったのである。
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(白隠が描いた大燈国師(部分))

 「臨済宗の寺院は現在七千ほどあるが、その半分の三千五百ほどの寺院は妙心寺派に属する。白隠は妙心寺の末寺の僧であるが、驚くべきことには、この白隠の禅が妙心寺、大徳寺ばかりか、『五山之上』の南禅寺や、天龍寺などの京都五山、及び建長寺や円覚寺などの鎌倉五山をも席巻し、現在の臨済禅の老師はすべて白隠の系統に属する。江戸時代に禅仏教において革命が起こったといわなければならない。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 中国も日本も動乱の時代であった、臨済禅が日本に伝わった頃とは異なり、白隠の生きた江戸時代中期は平和の続いた時期で、徳川幕府が定めた寺請制度によって、仏教寺院というのはある意味でリスクのない存在になった。日本の仏教が葬式仏教化したと言われる所以だが、そんな時代に登場し、制度に安住せずに敢えて禅宗に「革命」を起こした白隠。その存在は、ともかくも戦争のない時代に慣れ切ってしまった現代の私たちに多くの問いを投げかけているように思う。

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