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お殿様のコレクション [美術]


 東京メトロ有楽町線の電車を江戸川橋駅で降り、一番北側の出口から外に出ると、目の前は神田川に架かる音羽通りの橋である。頭の上は神田川沿いに走る首都高速道路。音羽通りをずっと真っ直ぐに行けば、正面の突き当りは護国寺だ。

 その橋を渡って左へ、神田川を遡るようにして歩いていくと、川の両岸は桜並木。右側は顕著な高台になっていて、南向きの日当たりの良い斜面が続いている。今は江戸川公園として整備されていて、春ともなればお花見のスポットだ。それは江戸時代からそうだったようで、川の南側は「早稲田」という文字通りの水田地帯だったから、桜の季節にはのどかな景色が広がっていたことだろう。
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(江戸川公園に梅が咲いた)

 神田川を見下ろすこの南斜面は、実は都内でもちょっとした歴史スポットである。

 江戸川公園を過ぎると、その先は土塀が続く。その中は、宴会場やホテルを持つ椿山荘の敷地である。元は江戸時代の上総・久留里藩の下屋敷だった所で、明治になるとその土地は山縣有朋邸に、そして大正時代には藤田財閥の手に渡った。南斜面に造られた日本庭園は一般公開もされていて、あたりは緑が豊かだ。

 延々と続く椿山荘の塀を過ぎると、更にクラシックな木造の門が現れる。「関口芭蕉庵」と呼ばれる史跡の正門である。1677年から1680年までの間、俳人・松尾芭蕉は神田川の改修工事に係わる仕事で収入を得ることがあったそうで、その当時はこの場所に住んでいたという。それは、神田川をこのあたりで分水し、水戸藩邸(現在の小石川後楽園)を経由して、人口が急増した江戸の市街地へと水を供給する神田上水の建設だった。

 その関口芭蕉庵の西隣には水神社という小さな社があって、青空駐車場の奥にコンクリート製の鳥居が一つ。その奥では大銀杏が天を向いている。神田川と神田上水を分ける堰の守り神なのだそうで、江戸時代には神田上水の恩恵を受けた神田・日本橋地区から多くの人々が参詣をしたという。路地から眺めると、まるで大銀杏そのものがご神体であるかのようだ。
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(水神社と大銀杏)

 さて、ここからが本命。関口芭蕉庵と水神社の間に、幅の狭い坂道がある。その名も「胸突坂」という、結構な急傾斜の坂だ。洪積台地の地形があちこちに残る文京区はこうした坂道が多いのだが、その中でもこの胸突坂は有数の急登ではないだろうか。土曜日の今日は、野球少年たちがそこをトレーニングの場所にしていた。
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(胸突坂を上がる)

 胸突坂を登り終えると、左は鬱蒼とした森が続き、コンクリート製の古い門塀に「永青文庫」の名前がある。公益財団法人永青文庫。熊本藩主・細川家に代々伝わる美術品や歴史上の資料、そして第16代当主にして日本を代表するアート・コレクターだった細川護立(1883~1970)が収集した美術品や文献の数々を収蔵し、展示する施設である。

 幕末の安政4年に作成された江戸の古地図を見ると、芭蕉庵も水神社も、この胸突坂に相当する急坂もちゃんと描かれている。そして、この坂道に沿った左側一帯は実に広い範囲にわたって細川越中守の屋敷であったことがわかる。
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(安政4年の胸突坂周辺)
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(現在の胸突坂周辺)

 細川氏は、元をたどれば平安時代末期の源氏に行き当たる。「八幡太郎」義家の孫で足利氏の始祖となった源義国。その義国の次男・義康の庶子、足利義清の血筋であるというから、足利の支流である。義清は木曽義仲に与して平家と戦ったという。

 鎌倉時代に入り、足利の本家が三河国の守護になると、義清の孫・義季は一門に従って三河へと移り住む。その領地が細川郷であったことから、細川を名乗ることになったようだ。この細川家は鎌倉末期から南北朝時代にかけて、義季の4代目になる和氏・頼春兄弟の時に足利尊氏に従ったが、和氏の血を引く細川宗家はその後衰退していった。

 一方の頼春の嫡子・頼之は頭角を現して将軍・足利義満の補佐役を務め、以後、この頼之の嫡流が細川家のメイン・ストリームになっていく。それは京兆家と呼ばれ、斯波・畠山と並ぶ「三管領」の一角として足利幕府の重職を代々務めた守護大名家で、応仁期の細川勝元やその子・政元などはこの血統になる。
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(細川氏の系譜 - 但し、肥後細川家に繋がるもの以外は省略)

 細川家にはその後も支流が幾つも出来ていくのだが、歴史上で重要な役割を果たすことになるのが、頼之の弟・頼有の子孫で和泉国の守護を代々務めた和泉上守護家である。その頼有の10代目・藤孝(幽斎)は、室町幕府最後の将軍・足利義昭を支持したが、信長が将軍を排して政権を握るとそれに従い、その嫡男・忠興は本能寺の変に際して秀吉に従い、更に秀吉亡き後は関ヶ原で東軍に与して功を挙げ、豊前・小倉藩を拝領。そして忠興の子・忠利の時に肥後・熊本藩54万石が領地となった。これが今も続く肥後細川家だ。我々の時代の元首相・細川護熙氏は、幽斎から数えて18代目の子孫にあたる。

 こうして眺めてみると、細川氏は宗家が比較的早く衰退したものの、分家が室町、戦国、桃山、江戸の各時期をうまく渡り、名門として続いてきた極めて珍しい家である。13世紀に三河で初めて細川を名乗った義季の時代から21世紀の現在まで700年以上も続く名家というのは、ヨーロッパでもなかなかないだろう。

 江戸時代以降の肥後細川家では、8代目の「肥後の鳳凰」こと細川重賢(1721~85)が有名だ。宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実行して藩内に産業を興し、藩校・時習館を創設したことで知られ、米沢の上杉鷹山、紀州の徳川治貞と並ぶ江戸中期の三名君の一人とされている。

 時代は下って明治の世になると、肥後細川家は華族になった。そして活躍したのが16代目、「美術の殿様」と呼ばれた細川護立である。学習院で同期生の武者小路実篤や志賀直哉らと交友があった護立は先代の四男だったのだが、大正期に家督を継いで貴族院議員となり、戦後は国宝保存会会長や東洋文庫理事長などを歴任。美術に造詣が深く、数多くの美術品を収集した他、梅原隆三郎や安井曽太郎といった文化人たちの良き理解者であったという。現在の永青文庫を設立したのは昭和25年のことである。
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(永青文庫の本館)

 永青文庫のクラシックな建物。それはしかし、広大な細川家下屋敷の中では事務棟に過ぎなかったというのだから驚く。中に入ると、戦前の世界がそのまま残されたような雰囲気で、二階から上に美術品や歴史資料の数々が展示されている。今は『武蔵と武士のダンディズム』と称した特別展示が行われていて、宮本武蔵が残した書画を見ることができる。武蔵は熊本藩と縁のある人物であったのだ。
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(宮本武蔵の手による作品)

 最上階の展示物の中に、「乾隆帝の玉座」とされる大きな椅子があったのには驚いた。乾隆帝といえば清朝の全盛期の皇帝である。本来ならば北京の紫禁城で保存されるべき玉座が、後世に売りに出されたのだろうか。

 どこの国でもそうだが、歴史上の大きな変革期においては、それまでの権力の象徴であったり、或いは伝統文化の象徴であったりした、美術品として極めて価値の高いものが、いとも簡単に破壊されたり、二束三文で売り飛ばされるというのは、起こりがちなことである。日本で言えば、明治の初年の廃仏毀釈がそうだったし、文明開化の名のもとに洋風文化が一斉に取り入れられた時には、錦絵や陶磁器をはじめとする大量の伝統的な美術品がタダ同然で外国人に売られていった。

 中国では、日中戦争や国共内戦の時期よりも、むしろ1960年代の「文化大革命」によって破壊された文物の方がずっと多かったという。同様にロシアでは、スターリンの時代に数多くのロシア正教の教会が破壊されている。「人民」の名のもとに富の象徴や伝統文化を破壊するというのは、その時にはそれで鬱憤を晴らすことが出来たとしても、そのことによって失ったものも極めて大きいはずだ。破壊することよりも、残すことの方が遥かに難しい。

 細川護立の手によって残された「お殿様のコレクション」を眺めながら、文化の保存には「高い教養をそなえたお金持ち」の存在がやはり必要だったのだと、改めて思った。

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