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隅田川の東 [歴史]

 私はこれまでの57年の人生の内、何度か出入りがあるものの累計では42年を東京で過ごしている。それも、ずっと山の手側での暮らしであったから、たまに隅田川の東側へ足を運ぶことがあると、同じ東京でもいささか趣の異なる所へやって来たという印象を受けることが多い。

 坂道がなくて、同じ高さの土地がずっと続いているから? 大きな川を何度か渡るから? それとも、どこへ行っても東西南北を向いた碁盤の目のような街路だから? どこに違いを感じているのかは自分でもよくわからない。それでもバスなどに乗って地上の景色を追っていけばまだいいのだが、地下鉄に乗って下町側で突然ポンと地上に出ると、何やら遠くまでやって来たような気分になるものだ。

 今週は仕事上の用向きで、東京・江東区の木場へ行くことがあった。東京メトロの東西線に乗れば大手町から4駅だから、むしろ都心にはかなり近い地域なのだが、木場の駅から地上に出てみると、やはりどこかが違う。それからの仕事そのものは思っていたより早く終わったので、私は帰りの電車に乗る前に、少しだけ周囲を歩いてみることにした。

 メトロの出口がある木場五丁目の大きな交差点から三ツ目通りを北に向かうと、程なく右手に広い緑地が現れる。木場公園と名付けられたそれは、葛西橋通りを越えて更に北側へと続くかなり広大なものなのだが、木場の名前の由来である江戸時代の貯木場は、このあたりに数多くあったそうである。
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(仙台堀川と木場公園)

 徳川将軍も第4代の家綱の時代、1657(明暦3)年1月に江戸の市街地の大半を焼いた大火災が起きた。明暦の大火、或いは振袖火事と呼ばれるもので、死者は諸説あって3万人から10万人とも言われる大変な大火事だった。事後、隅田川の東側である本所地区への移住が奨励され、1659年には両国橋が架けられる(1661年説も)。そして、人々の移住が始まれば家屋も建つから木材の需要が増える。そのために材木の集積地になったのが、本所の南に隣接する深川地区だった。それが木場である。
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(歌川広重 『深川木場』)

 天保年間に作られた絵地図を眺めてみると、確かに木場周辺は貯木場ばかりだ。その当時、現在の永代通りの南側はもう海岸線だったから、木場は隅田川や荒川から、そして海からも材木を運びやすかったのだろう。元禄時代の伝説の豪商・紀伊国屋文左衛門も、この木場で材木商として巨利を得た人物の一人とされる。
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(☆印が「木置場」と書かれた場所)

 緑豊かな木場公園から南西方向へ歩いていくと、小さな水路を幾つも渡る。その中には、親水公園としてきれいに整備され、かつての木場の様子を再現している場所もあって、ちょっとした江戸情緒を楽しむことが出来る。仕事で来ているのでなかったら、もう少しゆっくりして行きたいところだ。
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(木場親水公園)

 更に西へと歩いていくと、立ち並ぶビルの間に緑の濃い一角が見えてくる。富岡八幡宮、またの名を深川八幡。明治の初年に准勅祭社と定められた東京十社のうちの一つである。

 1624(寛永4)年、永代島と呼ばれていたこの地にご神託によって八幡神を祀るようになったのが、富岡八幡宮のご由緒だ。振袖火事が起きたのはその33年後。そして人々が本所に移住を始めたのがその後だから、深川の八幡さまが出来た頃は、あたりはまだ寂しい地域であったのだろう。その後、八幡さまの周囲には門前町が形成されるようになり、それが今に名を残す門前仲町だ。1698(元禄11)年には、その当時の隅田川の最河口に永代橋が架けられて、八幡さまへの参詣は益々盛んになっていったようだ。(橋の位置は現在の永代橋よりも100mほど上流にあったそうである。)
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(富岡八幡宮)

 永代橋といえば、深川詣でに係わる悲惨なエピソードが残っている。

 時代は下って1807(文化4)年8月19日(新暦では9月20日)、富岡八幡宮で11年ぶりの祭礼が行われた際、それが雨で4日も順延となったために、やっと訪れた開催日には江戸中から参詣客が殺到。その結果、老朽化の進んでいた永代橋は人々の重さに耐えきれずに崩落してしまい、大量の死者・行方不明者が出たという。(一説には1,500人に及んだとか。) その供養塔が今も現場の近くに残されているそうで、行ってみたかったのだが、今回はさすがに時間がなかった。
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(歌川広重 『永代橋 深川新地』

 一方、明治以降の近代化の時代を迎えると、木場一帯も次第にその姿を変え、隅田川の河口付近は干拓や埋め立てが進んで、海岸線が南へと降りていった。大正年間の国土地理院地図を見ると、現在の永代通りが出来ていて、その上に都心から市電が伸びてきたことがわかる。そして木場の貯木場は永代通りの南側に移り、すぐ隣には洲崎という遊郭街の名前が見える。(明治時代に現在の東京大学が本郷の地に設置された時、隣接する根津の遊郭街が、教育上宜しくなかろうということで移転を余儀なくされ、その代替地としてあてがわれたのが洲崎だった。) 石川島の造船所や越中島の商船学校などもこの地図には載っていて、隅田川の河口も着々と近代の景観を備えつつあったことがわかる。
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(大正時代の地図)

 私が小学生だった昭和40年代の初め、東京では営団地下鉄東西線の建設が進められていた。文字通り東京の街中を東西に走るルートで、都営地下鉄浅草線の浅草橋・押上間を除けば、隅田川よりも東の地域を本格的に走る最初の地下鉄だった。高田馬場・九段下間で営業運転が始まり、それが少しずつ東西に延びて、大手町・東陽町間が開業したのが1967(昭和42)年の秋。この時に出来た木場駅は東西線で最も深い位置にあり、しかもホームの部分がシールド工法で建設された最初の駅になった。

 そんな最新型の駅が出来た木場だったが、東西線が西船橋まで全通した1969(昭和44)年に、皮肉なことに貯木場の街としての役目を終え、その機能は新木場に移る。それは木場から更にずっと東京湾に入り込んだ場所で、改めて地図を眺めてみると、木場の時代から東京湾の埋め立てもよくぞここまで進んだものだと思う。
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 仕事にかこつけて木場の周辺を歩いた30分。一駅隣の門前仲町から再びメトロに乗って、都心に向かう。次の駅の茅場町までの駅間距離は案外長いのだが、今頃は永代橋の真下で隅田川をくぐっているのだろうか。

 徳川の世が永く続くように、との思いから名付けられたという永代橋。その崩落事故が起きた1807年といえば、日本列島の周辺に異国船の姿がもう既に現れ始めた頃だ。事故の後、狂歌師の太田南畝はこんな意味深な歌を詠んだそうである。

 永代と架けたる橋は落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

 江戸の街の歴史には、なかなか深いものがある。

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