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あの時の空の青 [美術]


 今月の中旬から、日経新聞朝刊の文化面に、「空の青 十選」と題する連続コラムが載っていた。

 「梅雨どきはなかなかお目にかかれない青空。せめて紙面で青空を味わっていただきたく。」

という意図で始まったこのコラム。19世紀イタリアのジョヴァンニ・セガンティーニ(1858~99)が描いた夏のアルプスに始まって、ギュスタヴ・クールベ(1819~77)による海の絵、初期ルネサンスの北イタリアで活躍したアンドレア・マンティーニャ(1431~1506)の天井画。そして我が日本からは北斎(1760~1849)の錦絵や岸田劉生(1891~1929)の油彩なども取り上げられて、古今東西人々の心にとまった夏の青空を、追体験のように眺めてみることができる。新しいところでは、ルネ・マグリッド(1898~1967)の、灯りがともった夜の家を描いているのに、森の背後は明るい青空という実に不思議な絵が面白かった

 編者は俳人だから、毎回のコラムの中に必ず一つ、何らかの俳句が引用されていて、その17音に凝縮された感性が、絵画を眺める時に湧き上がる自由な発想をアシストしてくれる。なるほど、文化とは頭を柔らかくして接するものだと、あらためて思う。

 今回の十選には入っていなかったが、「空の青」と聞くと、そのものズバリの題名を持つ一枚の絵画を私は思い出す。ロシア出身で、ドイツやフランスで活躍したワシリー・カンディンスキー(1866~1944)の作品で、抽象絵画の創始者とされる彼の代表作の一つである。
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(ワシリー・カンディンスキー作 「空の青」 1940年)

 この縦長の絵。澄んだ青空に浮かぶ不思議な造形の数々は、いったい何を意味しているのだろう。水の中の微生物のようでもあり、鳥のようでもあるのだが、その一つ一つの形が何ともユーモラスで、しかも細かく塗り分けられた色がどれもみな優しいパステルカラーだ。眺めているだけで色々なことが頭の中に浮かんでくる、とても楽しい絵である。どこからか音楽も聞こえて来そうだ。

 私と家内がこの絵に親しみを持つきっかけになったのは、1987年の初夏に東京・竹橋の国立近代美術館で開かれた、カンディンスキーの作品を多数集めた大きな展覧会に出かけた時のことである。我が家ではその年の11月に子供が生まれる予定になっていたので、家内のお腹はもうだいぶ大きくなっていた。そんな時に広い展覧会場をくまなく歩き回るのは大変だから、ポイントを選びながら休み休み歩いたのだが、その時に二人で飽きることなく眺めたのが、この「空の青」だった。

 何という自由な発想。何という色合いの優しさ。そして何と綺麗な青空・・・。生まれて来る子供がこんな感性を持って生きて行ってくれたらいいなあと思い、私たちは展覧会場のショップで、この絵のポスターを買い求めた。そしてその日から我が家の中で、既に用意されていたベビーベッドを見下ろす壁に、白い額縁に入れたこの絵が飾られることになった。

 今でも十分に「新しさ」を感じさせるこの作品からはちょっと想像がつかないが、カンディンスキーがモスクワで生まれたのは、幕末の日本で王政復古が起きた、その前年のことだ。裕福な家庭に育った彼は、やがて大学で法学や経済学を学び、そのままであれば大学に残っていたのかもしれない。残された彼の写真を見ると、その生涯を通じて、画家というよりは大学の先生か行政官のような風貌をしている。
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(1918年 革命後のモスクワにて 当時52歳のカンディンスキー)

 その彼が30歳の時に、モスクワで開かれた美術展でモネの「ジヴェルニーの積み藁」の絵を見て強い衝撃を受け、画家になることを決意したのだというから、人生とはわからないものである。

 ミュンヘンに移住して絵塾に入ったカンディンスキーは、風景画に腕を磨くことになる。だが、彼の眼は描こうとする対象そのものを次第に離れ、それが放つ色彩を直接カンバスに描こうとする抽象絵画の技法に入り込んでいった。その彼が中心となって1911年(当時45歳)に始めた「青騎士」という新しい芸術運動は、3年間ほどの短命に終わったものの、現代芸術の草分けとしてつとに有名である。
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(「ムルナウ 市場と山々」 1908年)

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(「即興VI」 1909年) 

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(「即興XXVIII (第二版)」 1912年) この間の作風の変遷に驚かされる

 やがて、母国ロシアが革命の前夜を迎えると、カンディンスキーはモスクワに戻り、革命後の新政権に参画。だがスターリンの時代には前衛芸術が疎んじられたために、再びドイツに戻る。1922年(当時56歳)にはヴァイマールの美術・建築の総合学校・バウハウスで教員として芸術活動に従事することになった。この時期から、彼の作品には直線や円、幾何学模様が登場し始めるのである。
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(「白の上に II」 1923年)

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(「コンポジションVIII」 1923年)

 だが、今度はヒトラーのナチス政権によってカンディンスキーらの活動は退廃芸術の烙印を押される。身の危険を察知したカンディンスキーは、1933年(当時67歳)にスイスを経由してパリに移住。既にその街に集まっていた多くの芸術家たちと親交を温めたという。(その間、ドイツの美術館に残されていた彼の作品57点が、退廃芸術として没収され、売り飛ばされてしまったそうだ。)
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(「無償の上昇」 1934年)

 1939年(当時73歳)にフランス国籍を取得したカンディンスキーは、第二次世界大戦が始まってフランスがドイツに占領されて以降も出国をしなかったという。だが、フランスでも彼の作品はあまり理解をされなかったようだ。そして、大戦の終結を見ないまま、1944年の12月にパリ郊外で失意の内にその生涯を閉じた。享年78歳。彼の業績が再評価されるまでには、戦後もなお年月が必要であった。

 非凡な才能を発揮しながらも、人生の後半を革命と戦争の時代に翻弄され、自らの芸術活動が迫害の対象にさえなったのだが、それでもカンディンスキーは、「私は悲しくもまた幸福である。」という言葉を残している。そして、そんな彼の人生の苦難を全く感じさせないほど、彼が残した作品の数々が、光の明るさと色彩の優しさ、そして自由な精神に満ちていることには、ただ驚くばかりだ。因みに、私と家内がかつて東京の展覧会場で眺め続けた「空の青」は、フランスがドイツに占領された1940年の作品なのである。
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(1936年 パリにて 当時70歳のカンディンスキー)

 東京でカンディンスキー展が開催された1987年の11月中旬に、我が家では予定通り子供が生まれた。それは長男だった。その翌年の春には、私が一年間の業務研修で単身ロンドンへと発つことになる。そして、その年の冬が始まろうとする頃、家内と一歳になったばかりの長男をロンドンに呼び寄せて一緒に暮らし、年末を迎えた。

 3~4日ほど続くクリスマスの祝日は、ロンドンにいても開いている所が殆どない。私たち3人はその期間をパリで過ごすことにしたのだが、その時にたまたまジョルジュ・ポンピドゥー・センターを訪れていて、家内と私は思わず「あっ!」と声を上げた。あのカンディンスキーの「空の青」と、思いがけずもそこで再会したのである。それはポンピドゥー・センターの所蔵品だったのだ。

 前年の夏にはまだ家内のお腹の中にいた子を今は腕の中に抱いて、異国の地で再び同じ絵と巡り合ったことの不思議さ。何という幸運。以来、カンディンスキーの「空の青」は、我が家にとって守り神の一つのようになった。だから、私がロンドンから帰国した年の夏に娘が生まれた後も、息子の時と同じように、ベビーベッドを見下ろす壁には白い額縁に入れた「空の青」のポスターがあった。もう24年も前のことだ。

 今週もまた梅雨空は続く。そしてその次の週からは7月だ。あと一月ほどの我慢なのだろうが、梅雨が明けたらどんな夏空が待っているだろうか。家族と共にそれを眺めることを、楽しみにしよう。
 
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