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巨匠の絶筆 [音楽]


 今年の5月の連休の最中に、あるフランス人指揮者の訃報が新聞に載っていた。

 ジャン・フランソワ・パイヤール。懐かしい名前だ。’80年代にクラシック音楽、とりわけバロック音楽を聴いていた人なら、誰もがその名を聞いたことがあるだろう。パッヘルベルのカノンやアルビノーニのアダージョ、そしてヴィヴァルディーの「四季」といえば、人気レコードのトップにいたのがパイヤール室内弦楽楽団の演奏によるものだった。弦楽器の柔らかい音色に特徴があって、女性ファンも多かった。

 世界のバロック音楽ブームの火付け役とも呼ばれたパイヤール。だがそのスタイルはバロック音楽を現代楽器で演奏するものだったから、後に古楽器による演奏が時代の主流になると、彼の名前はあまり目にすることがなくなった。私も冒頭の訃報を見て、ずいぶん久しぶりに彼のことを思い出したぐらいだ。

 享年85歳。4月13日に亡くなっていたことが5月になってから報道されたことには、何か背景があったのだろうか。
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(ジャン・フランソワ・パイヤール 1928~2013)

 大学生だった頃のある日、帰宅した私は、留守録を仕掛けていたFM放送の番組をカセット・テープで再生してみた。それはこのパイヤールの楽団の演奏によるバッハの作品だった。

 ヴァイオリンが奏でるシンプルでゆったりとした四小節の主題と、もう一つのヴァイオリンがそれを追いかけるようにして、5度高いところから主題と相似のメロディーを奏でる次の四小節。その次にはヴィオラが、更にはチェロが加わって、主題のモチーフを残しながら曲想が次々に展開していく。四つのパートがそれぞれ独立しつつも互いに相手を追いかけていく、まるで川の流れに身を任せた四本の帯のような、二短調の枯淡にして重厚な音楽だ。全部で19曲からなるこの作品の第1曲を聴いただけで、私はたちまちその虜になってしまった。

 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の最晩年の作品になる、『フーガの技法』。私がそれと初めて出会ったのが、この時だった。

 フーガは、日本語では「遁走曲」と言うそうだ。数小節のメロディーが輪唱のように他のパートに次々と受け継がれていく様子が、まさに「遁走」という言葉によく表れていて、上手い訳だと思う。そのフーガを作曲する時の技術が「対位法」と呼ばれるもので、中世・ルネサンス期に盛んになったポリフォニー(多声)音楽以来の伝統を受け継いでいる。『フーガの技法』を構成する19曲の中には「コントラプンクトゥスの何番」という名前が付されたものが14曲あるのだが、その「コントラプンクトゥス(Contrapunctus)」がラテン語で対位法のことだ。
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(第1曲で各パートに次々と現れる主題)

 「この曲集は第1曲に用いられた主題とその転回、そのおのおののリズムの変化、コロラトゥーラによる変形、合計8個の旋律と、7個の対主題を用いてこれらを組み合わせて作ってあるが、ここでもこれらの主題、対主題の組み合わせの可能性の極限をきわめている。」
(『J・S・バッハ』 辻 荘一 著、岩波新書)

 中でも12番目と13番目のコントラプンクトゥスは、楽譜の音符を全て上下逆さまに読み替えてもほぼ同じ演奏ができる、いわゆる「鏡のフーガ」と呼ばれるもので、「正の主題を転回して逆の主題とし、向かい合ったページに印刷されているのは全くの奇観」(前掲書)なのだそうである。楽譜を詳細にわたって読める人には、フーガを聴く時にこうした楽しみがあるのだろう。

 この全曲を通しで聴いてみようとしても、私などは正直言って集中力が持たない。考えてみればコンサートで『フーガの技法』の全曲を取り上げることなどは、まず見たことがないから、そもそも人前での全曲の演奏を前提にしていないのかもしれない。そういう作品なのである。65歳でその生涯を終えることになるバッハの最晩年の作だと既に書いたが、間もなく命を終えようとしている頃に、大バッハはなおも対位法の世界で匠を極めていたとは。
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(バッハが死を迎えるまで音楽監督を務めていたライプツィヒの聖トーマス教会) ※

 それにしても謎めいた作品である。残された楽譜には音の抑揚も演奏速度の指定もなければ、四つのパートに関する楽器の指定さえもない。どんな楽器を使ってどのように演奏するかは、全くもって演奏者次第なのである。だから、『フーガの技法』は楽器の種類や演奏方法を超えた、あくまでも概念だけが存在する音楽作品なのだとも言える。事実、世の中には様々な演奏形態による『フーガの技法』が収録されているのだが、私はやはり、重厚な弦楽四重奏によるものが好きだ。

 更なる謎は、この作品の最後に収められた、いわゆる「未完のフーガ」のことである。

 それ以外のフーガを、バッハは1748~1749年頃に作曲していたらしい。そしてこのフーガを書き始め、第三主題に日本の音名でいうと「変ロ・イ・ハ・ロ」の音が並ぶ小節を取り入れた。それをドイツ式の音名で表すと”B・A・C・H”なのである。つまり、自分の姓を表す主題を加えたという訳だ。
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 (また、A =1、B =2 という風にアルファベットを数字に置き換えると、B+A+C+H=14となる。JSBACHなら41だ。バッハはこうした自分のイニシャルとも言える数字を自分の作品の中に忍び込ませているという。)
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(「平均律クラヴィーア曲集第1巻」第1曲のフーガ。ここにも「バッハの数」が。)

 「バッハは、『自然』というものは、『交代』するものである。音楽では『対位法』の原則が働く『フーガ』において、協和音と不協和音が代わる代わる交代しながら繋がって行くので、さまざまな感情が表現できる。『対位法』とは個人や時代の趣味を超えた音原則に基づくものであるから、そこには音による普遍的な世界が展開されると考え、『フーガ』を徹底的に追及しようとの強い意志のもと、≪フーガの技法≫と≪ロ短調ミサ≫の作曲を試みるのです。(『対位法』は、こうしたい、と思っても音はそのように動くことが出来ず、そうなるしかない、という結果が待っている世界です。)」
(『バッハの秘密』 淡野 弓子 著、平凡社新書)

 ところが、その頃からバッハの視力が非常に弱くなり、楽譜の筆跡が乱れるようになった。長年の作曲活動で目を酷使したためとも、糖尿病が原因で白内障を併発したためともされる。1750年の春に、友人たちからの薦めで高名な英国人眼科医の手術を二度受けたのだが、いずれも失敗してバッハは完全に失明。しかも内服薬の副作用で急速に体が衰弱していったという。

 ”B・A・C・H”の音による第三主題を加えた作曲途上のフーガについて、バッハ自筆の楽譜は239小節まで書かれたところで止まっていて、その先には次男カール・フィリップ・エマヌエルによる有名な書き込みが残されている。

 「BACHの名が対主題として表されるところで、作曲者は物故した。」 (前掲書)

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(画面右下がC.P.E.バッハによる書き込み)

 もっとも、これが最後の作曲ということではなくて、バッハの後妻であるアンナ・マグダレーナ・バッハが綴った『バッハの思い出』によると、瀕死の病床にあったバッハは、彼を見舞う娘婿のアルトニコルに対して『汝の御前に我は進まん』というコラールを枕元で口述筆記させたことになっている。BWV886aとして今は「ライプツィヒ・コラール」の最終曲に編入されているこの作品は、抑制の効いた穏やかなコラールで、死の縁に立つ信者が粛々と神の前へ進んで行く姿が目に浮かぶような曲想に、胸が打たれる。

 
 そして、そのバッハにも、いよいよ最後の時が迫った。

 「(中略)『すこし音楽をやってくれないか』と彼は申しました。『美しい死の歌をうたってきかせておくれ。もうその時がきたのだよ』 私はちょっとためらいました。もう間もなく天上の音楽をきく身になろうというこの人に、私たちはこの地上の最後の音楽としてどんな音楽を捧げたらよいのでしょうか。そのとき、神様がずばりとよい考えを恵んで下さったのです。

 私は『もろびとなべて死すべきもの』のコラールを歌いだしました。オルガン小曲集のオルガン前奏曲の一つは、このコラールのために彼がつくったものでした。他の人たちもこれに唱和し、それは四部合唱になりました。歌っているうちに、大いなる平和が彼の顔の上に現われてきました── 彼はもう殆どこの世のものではなく、いっさいの無常なるものを打ち越えた高みに立っているように思われました。

 1750年7月28日火曜日の夜7時15分、彼は世を去りました。享年65歳でございます。金曜日の朝、私たちは遺骸(なきがら)をライプツィヒのヨハネ教会墓地に葬りました。」
(『バッハの思い出』 アンナ・マグダレーナ・バッハ 著、山下肇 訳、 青土社)

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(聖トーマス教会内のバッハの墓) ※

 『フーガの技法』の最終曲である「未完のフーガ」は、バッハの自筆の楽譜が絶筆となった所で演奏が止まる。バッハの命が絶たれたことを表すように唐突に音が途切れるのは、悲痛でさえもある。だが、それはやはりバッハに対する演奏者の最大限の敬意なのだろう。

 今日、7月28日はバッハの命日だ。今夜はあらためて『フーガの技法』を聴きながら、私の一日を終わることにしよう。

(※はいずれもライプツィヒ観光局のHPより拝借)
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