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仏に満ちた宇宙 [宗教]


 事前にそういう内容の長期予報が出ていたから、ある程度の覚悟はしていたのだが、今年の夏は、とにかく暑い。

 8月12日(月)から14日(水)まで、会社の夏期一斉休暇があったので、前週の土日を含めると私は五連休になった。昔から我家では、夏のお盆の時期は遠出をせず、静かな都心を楽しむことが常だったから、今年もそのパターンに終始したのだが、それにしてもこれほど暑くてどこにも行く気がしなかった年も珍しい。

 中でも11日(日)は、東京都心で観測史上初めて最低気温が30度を下回らなかった日として記憶に残ることだろう。この日は我家の家族と妹の一家が揃ったので、実家の母を招いて外でランチをした。マイカーでの移動だったし、ランチの場所は都心の高層ホテルだったから、東京都心の最高気温が今年のレコードの37.3度となったこの日の暑さは、実はそれほど体感していない。午後のわりと早い時刻に雷雨になったので、その直後はスッと気温が下がったのだが、それが止むとまた気温が34度近くまで上がったことが、何より今年の夏を象徴している。

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(休みの間は暑かった!)

 休みの日に天気が良ければ外を歩き回ることが多い私も、さすがにこの休みの間は屋内で過ごしてばかり。そのおかげで家の中の片づけが思った以上にはかどったりもしたのだが、まあそれでも、休みの最終日になると、家内と短時間でもどこかへ行こうかという話になり、青山の根津美術館へ出かけることにした。今は『曼荼羅展 - 宇宙は神仏で充満する!』という展示会を開催中である。「夏のひととき、崇高で力強い、仏画の宇宙をご体感ください。」というコピーに、何となく魅かれるものがあった。根津美術館というと、毎年決まった季節に公開される尾形光琳の燕子花図で有名だが、根津嘉一郎のコレクションには仏教美術も数多く含まれており、今回のような展示企画が珍しくない。
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 午前11時少し前、ここ数日の間では暑さもまだマイルドなうちに、メトロを乗り継いで根津美術館へ。その入口に続く長い竹垣と玉砂利への打ち水が涼しさを演出してくれる。
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 展示室に早速掲げられた、大きな曼荼羅。いうまでもなく仏教、それも密教において、その世界観や仏の悟りの境地などを幾何学的な構図の絵にしたものだ。それが二つ対になった「両界曼荼羅」というのが最も有名で、二つの異なる経典をもとに、大日如来を中心に数多くの尊像が秩序正しく並び、それぞれに仏の世界観を表しているという。「金剛頂経」に基づく「金剛界曼荼羅」と「大日経」に基づく「大悲胎蔵曼荼羅」の二つである。
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(金剛界八十一尊曼荼羅)

 仏の世界観といっても、曼荼羅に描かれている一つ一つが何なのかは、じっくり説明を受けないと私などにはわからないが、古代の日本に密教が入って来た頃、人々はこうした曼荼羅のありがたさについてどんな解説を聞いたのだろう。書籍や映像で実に数多くの事物を知る機会のある現代人とは違って、古代や中世に人々が曼荼羅などを見る機会などは極めて限られていたはずだ。そのミステリアスな世界に、現代の我々よりも遥かに強い感受性と想像力を持って、当時の人々は引き込まれていったのではないだろうか。

 「真言密教は自らの思想を曼荼羅で表す。曼荼羅の中央には大日如来がいて、大日如来がいかに千差万別の姿をもつ個々の仏に具現するかを示す。この点、周辺の仏が中央の毘盧遮那仏と同じ姿で現される華厳とは異なる。いってみれば、多の一といっても、華厳では一が強調されるのに対し、密教では多が強調される。多を強調することは個体性の重視であり、密教は欲望や感覚を強く肯定する。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)
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(大日如来以外の尊像が中心になることも。これは愛染曼荼羅)

 密教といえば、日本に伝えられたのは9世紀の初め頃。いうまでもなく最澄(767~822年)と空海(774~835年)の活躍による。最澄は還学生(げんがくしょう)、空海はより長期の留学生(るがくしょう)として入唐。それぞれに仏法を学んで帰国するが、密教の奥義を深めたのは空海の方であったそうだ。

 奈良仏教が鎮護国家のための仏教であったとすれば、都が平安京に遷った頃に仏教に求められたのは呪術的な要素であったという。当時は怨霊が本気で恐れられた時代。折しも平城天皇と嵯峨天皇の対立により「薬子の変」が勃発。この政争に敗れた平城一家の怨霊が嵯峨天皇の心痛の種になるのだが、空海は真言密教の呪術によってこれを見事に鎮魂し、嵯峨天皇の厚い信頼を得たという。

 数々の加持祈祷があり、護摩の煙の向こうの暗闇にご本尊がおわす密教。何やらオカルト的なその姿が(貴族が主体ではあったが)当時の人々の信仰を集めたのも、もっともなことだろう。仏教の世界観をビジュアル化した曼荼羅も、その大道具の一つであったに違いない。

 「原始仏教以来の根本原理の一つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというものである。言いかえれば因果性を離れた永遠の存在はありえないということである。この原理が大乗仏教では『空』とよばれ、やはり最も中心の原理とされる。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている。瞑想のなかで自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるというのである。(中略)ともかくも従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。」
(『日本仏教史』 末木文美士 著、新潮文庫)

 「(中略)ちょうど最澄が戒律に対して大乗と小乗の区別を厳しくたてたように、空海は密教以外の教えを大乗も小乗も一緒にして顕教とよび、密教と顕教とを峻別して究極の真理性を密教にのみ認めている。」
(前掲書)

 「密教の絶対者大日如来」という部分を理解していないから、私はただ漫然と曼荼羅を眺めるしかないのだが、前掲書の著者の指摘を汲み取れば、空海の真言宗に代表される密教の登場は、日本の仏教史上において一つの大きなマイルストーンであったのかもしれない。
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(大日如来像)

 更にいえば、真言密教によって日本古来の神様と外来の仏とが融合したことも、特筆すべきことだろう。

 「東寺の境内にある鎮守八幡宮は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像がある。僧形八幡像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)

 この展示会にも「垂迹(すいじゃく)曼荼羅」の実例として、春日大社や日吉山王神社の祭神を垂迹神(本地仏が神の姿で現れたもの)として曼荼羅風に描いたものが展示されていた。日本人の「神様仏様」という思考回路は、このあたりから出来上がったものなのだろうか。

 それにしても、根津美術館は涼しい。平日だったから館内も適度に空いていて、曼荼羅の数々を、時にはベンチに腰を下ろしながら、家内と二人でゆっくりと眺めることができた。仏画の宇宙が涼を運んでくれたかどうかはともかくとして、我々の祖先が残してくれた精神世界と向き合ってみるのも、たまにはいいものである。

 一時間ほど滞在した美術館から外に出る。時計は正午を回ったところだった。

 「暑いなー。」
 「お腹空いたね。」

 曼荼羅の宇宙から現実に戻った私たちは、体が欲するものを満たすために、メトロの駅へと再び向かった。
 
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