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八幡さま [宗教]


 京都・大阪間の地形は、北東から南西へと流れる川が作ったものと言えるだろう。

 京都の嵐山から南へと下ってくるのが桂川。宇治から西へと流れてくるのが宇治川。そして奈良盆地の方から北上して来るのが木津川。三方向から来た河川が、こんもりとした二つの山に挟まれた地点で一つに合流し、「淀川」となって南西の大阪湾へと流れて行く。京都・大阪間の地形の臍(へそ)ともいえるような場所だ。
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 その二つの山のうち、川の右岸にあるのは「天下分け目の天王山」。本能寺で信長を討った明智光秀と、四国攻めから踵を返した羽柴秀吉の両軍勢が激突した場所として知られる。もっとも、実際に戦闘があったのはこの山の東側の湿地帯であったそうなのだが。

 そして、三つの川を挟んだ反対側が男山。その山頂には神社があって、遥かな昔から人々の信仰を集めてきた。徒然草や今昔物語などにも名前が登場するそのお社は、石清水八幡宮。周囲は平地なのに突然ここだけ山の盛り上がりがある、何とも不思議な場所である。

 大阪の淀屋橋から京阪電車に揺られて約40分。八幡市(はちまんし)の駅を降りると、すぐ目の前に男山の緑が迫る。駅前のロータリーを過ぎて右へ折れると、商店が続くその先が神社の入口だ。大きな一ノ鳥居の真ん中には、「八幡宮」とだけ書かれた額束。シンプルだが無言の風格を感じる空間である。
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 古来、この男山の山頂近くには涸れることなく水の湧き出る泉があり、石清水社として人々に拝まれてきたという。それはいかにも日本古来の神さまのあり方なのだが、そこに九州の宇佐神宮から八幡神が勧請されてきたのは、清和天皇の御世になる860年のことだそうだ。

 そのずっと以前から、宇佐には渡来人である秦氏の一派が住んでいたという。自称、「秦の始皇帝の後裔」なのだそうだ。渡来後も、その暮らしぶりは大陸の匂いを残していたのだろうか。

 「仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐のかれらの集団のなかで、
  『八幡神』
という、異国めいた神が湧出した。」
(『この国のかたち 五』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 それは欽明天皇32年(571年)のことだそうである。そして湧出した時、「われは誉田天皇(ほんだのすめらみこと)である。」と名乗ったとされる。誉田天皇とは第15代応神天皇のことだから、実在の人物の神霊が現れたことになる。

 「最初から人格神だったことで、当時の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせる。さらには、この名乗りによって、大和の宮廷は無視できなくなった。」
(前掲書)

 仏教伝来と同時期に現れた八幡神は、その仏教の普及に一役買うことになる。寺を建てる時、その鎮守の神さまとして八幡神が勧請されたというから、仏教側にしてみれば、相性の良い神さまが何ともタイムリーに現れたものである。そしてその後に神仏習合が進んでいく中で、八幡神は仏僧の形で描かれ(僧形八幡)、「八幡大菩薩」などと呼ばれるようになった。

 「この神は風変りなことに巫(シャーマン)の口を藉りてしきりに託宣をのべるのである。それももっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった。」
(前掲書)

 中央の政治に係わるといえば、奈良時代の後期に、天皇になろうとした道鏡の企みを排する託宣を和気清麻呂に与えたのは宇佐の八幡神だった。そして今度は平安時代初期の859年、宇佐を訪れていた奈良・大安寺の僧侶に新たなご託宣があった。
 「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん。」

 新しく拓かれた平安京。その鬼門(北東)に位置するのが比叡山だとすれば、裏鬼門(南西)の方角に屹立するのが男山だ。自らの意思によって、八幡神は宇佐からその男山へと勧請される。元からあった石清水社は摂社となり、八幡神が男山の主となった。以来、王城守護の神さまとして石清水八幡は篤い信仰の対象となり、歴代天皇の行幸、上皇の御幸は240余度にも及んだという。

 一ノ鳥居をくぐると、境内はまだしばらく平らで、頓宮を過ぎると右手に高良神社がある。これも石清水の摂社の一つで、よく知られている通り『徒然草』にその名前が登場する神社だ。このあたりの地域の氏神様でもあるという。
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(高良神社の鳥居)

 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて(=心残りに思っていたので)、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て(=これだけだと思って)帰りにけり。
 さて、かたへ(=仲間)の人に会ひて、「年比思いつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎてこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん(=いったい何があるのかしら)、ゆかしかりしかど(=興味はあったけれど)、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり(=指導者というものが必要なのだ)。
(『徒然草』 第52弾)

 高校時代の古文の教科書にも載っていたこの話、なるほど、実際に現地を訪れてみると、この仁和寺の法師がいかに勿体ないことをしたのかがわかる。高良神社は、それはそれで賑わっていたのだろうけれど、石清水八幡宮そのものは、まだこれから参道を登って山の上まで行かねばならないのだ。

 その参道は森の中へと続く道で、それをせっせと登る。健康のためにここを歩くことを日課にしているようなお年寄りも見かける。順調に高度を稼ぎ、木々の間から見える民家はどんどん小さくなっていく。1月25日の今朝は結構冷え込み、吐く息も白いが、せっせと登っているうちに汗が出てきた。そして、下界から15分ほどで三ノ鳥居が現れ、本殿へとまっすぐに向かう石畳の平らな道になった。
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 左右に石灯籠の並ぶ石畳の道を進み、手水舎で手を清めて南総門の前に立つ。ここをくぐれば、いよいよ本殿の境内の中に入ることになる。その本殿は南総門からも見えているのだが、両者は一直線には並んでいない。(本殿がやや西を向いている。) それは、本殿への参拝が終わって南総門を出る時に、本殿に対して真正面にお尻を向けることがないように計算されているのだそうだ。
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 南総門をくぐる時に一礼をして、本殿に向かう。堂々たる社殿だ。そして拝殿の左右の柱に取り付けられた、矢をかたどった巨大な飾りが目を引く。こんな神社は今までに見たことがない。
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 八幡神がここに勧請されたのは、前述のように860年のことだ。それが清和天皇の御世であったから、八幡神は源氏の氏神となった。この石清水で元服して「八幡太郎」を名乗った源義家は、その象徴といえるだろう。その後、頼朝は鎌倉の鶴岡に八幡宮を建てるに際し、八幡神をここから勧請した。源氏の血筋である足利尊氏が北条を討つ、その旗揚げを行った丹波の篠村八幡宮も、やはり石清水から八幡神が勧請された神社である。

 源氏の氏神になったことで、八幡神は「武運の神様」としての色彩を強めていったのだろう。ここ石清水八幡宮の「名物」といえば、八幡御神矢だ。

 「八幡大神様の用いられる御矢は、破邪顕正・一発必中(邪悪な敵をうち払い、正しきを守り、狙った的に必ずあたる)の霊験(れいげん)あらたかな御神矢(ごしんや)として様々な奇瑞を顕し、多くの古典にも登場します。その故事にちなみ、当宮では八幡大神様の御神威がこもった厄除開運・必勝・家内安全・商売繁盛の「おふだ」として授与しています。」
(石清水八幡宮のHPより)

 要するに、普通の神社の「おふだ」に相当するものが、ここでは矢なのだ。元旦から節分までは初詣の期間とされているから、1月下旬の今はまだその期間に入る。境内では若いカップルが御祈祷を受け、その八幡御神矢を授かっていた。

 仁和寺のお坊さんもいつかは行ってみたいと思っていたという石清水八幡宮に、私は今回やっと足を運ぶことができた。八幡市の駅から歩いてきたが、ケーブルカーもあるので、それを利用すれば片道わずか3分だ。
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 今では八幡社が全国に44,000社もあって、私たち日本人にとっては最も身近な神社の一つなのだが、ここ石清水八幡は、他のどの八幡社よりも印象的だ。そのいささか武張った姿を眺めながら、八幡大神が新たに平安京の守護役を買って出た、まだ武士という言葉もなかった時代のことを、ちょっぴり思ってみた。

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