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海峡が隔てるもの [世界]


 海峡をただ一つ越えただけなのに、その向こう側に横たわる国の在り様がこちら側とは驚くほど違う。そういう体験をする場所が、この地球上にはあるものだ。私の数少ない経験からしても、例えばジブラルタル海峡などは、それに当てはまるだろう。もう四半世紀も前のことながら、スペイン側から海を渡って足を踏み入れたモロッコは、全くの別世界だった。

 もっと身近で、しかも案外意識していない場所としては、対馬海峡がそうだ。その両岸には、地理というよりも人文において、大きな隔たりがある。

 1597(慶長2)年の夏、それ以前の「文禄の役」の講和交渉が決裂すると、豊臣秀吉が投じた日本の遠征軍が再び朝鮮半島に攻め入り、いわゆる「慶長の役」が始まった。そして、その緒戦で藤堂高虎の軍勢に捕らわれた朝鮮の人々の中に、一人の若きエリートがいた。齢27にして科挙に合格し、役人としてもまだ日が浅いその男の名は、姜沆(日本語読みではキョウコウ、韓国語読みではカンハン、1567~1618))。高虎の所領であった伊予・大津に送られ、更に大坂、伏見へと場所をかえて、都合三年間の俘虜生活を送った後に、帰国が許された。

 捕虜ながら大変なインテリだということで、日本での生活の間も姜沆は相応の処遇を受けたようだ。中でも儒学者・藤原惺窩(1561~1619)との師友の交わりはよく知られている。『新古今和歌集』の歌人・藤原定家の11世の孫にあたる惺窩は、秀吉や家康に儒学を講じ、日本における「近代儒学の祖」と呼ばれるのだが、その惺窩にとって、自分よりも若年ながら本場の科挙合格者は、特別な尊敬の対象であったのだろう。
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(藤原惺窩)

 科挙の制度もなければ文人統治もない織豊時代の日本は、姜沆から見れば軽蔑すべき蛮夷の地であった。加えて、文禄・慶長の役(朝鮮側から見れば「壬辰・丁酉倭乱」)の直接の被害者でもあったのだから、日本は憎むべき相手だった。そして、その野蛮な日本は二度も朝鮮に侵攻して来たのだから、三度目もあり得ると姜沆は見ていた。だから、帰国の暁には、自分が日本で見聞きしたことに基づいて、祖国防衛のための建議を李朝に行わねばならない。その目的で姜沆がまとめたものが『看羊録』である。

 日本にいながら「羊を看る」とはいかなることか。それには紀元前二世紀の古事に遡ることが必要だ。漢の武帝に仕えていた武将・蘇武が、北方の遊牧騎馬民族・匈奴からの使者を送り返し、匈奴の王と対面。すると王は蘇武を大いに気に入り、その地に留まるよう命ずるのだが、蘇武はそれを受け入れない。そのために蘇武は監禁生活を送ることになり、草原で羊の世話をして暮らした。それから19年の後に蘇武はようやく帰国を許されるのだが、既に武帝はこの世になく、蘇武もすっかり白髪になっていた。

 「私がいいたいのは、その日本滞留記の『看羊録』の題名である。姜沆は、蘇武に自分をなぞらえている。
 古来、朝鮮は日本を野蛮とし、みずからを文明とした。それが型だったことが、この書名でもわかる。」
(『この国のかたち 五』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

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(日本で三年の俘囚生活を送った姜沆)

 姜沆にとっては、当時の日本のあらゆる事柄が批判の対象だった。

 ● 日本人は互いに名前を呼ぶのに、肩書を用いず、「様」や「殿」で済ませてしまう。上下の区別がなく威厳に欠ける様子は、いかにも夷荻の地である。
● その風俗は細かいことにこだわるが、原理原則を理解しない、陋劣(いやしいこと)の限りである。

といったことを挙げつつ、日本人が持つ四つの価値観を、姜沆は全く理解できないとしている。

(1) 勇気を誇り、死を恐れない武士なるものの存在(=サムライの価値観)
(2) 木を縛り、壁を塗り、屋根を葺くなどというつまらない技にも「天下一」があり、それが認められると権威になり、尊敬や報酬が支払われること(=職人を貴ぶ文化)
(3) 茶人趣味(姜沆から見れば、日本人が珍重する茶器などはただのガラクタ)
(4) 南蛮趣味(=異国とその産物への異様な好奇心)
(以上、青字部分は『危機の日本人』 山本七平 著、角川oneテーマ21 からの引用)

 これらはいずれも現代の我々に通じるものがある事柄ばかりなのだが、儒教を究めた人間の目には奇妙なものに映ったのだろう。

 その姜沆の時代から凡そ120年後にも、上記(1)と同じことを指摘した李朝の役人がいた。徳川吉宗の将軍就任を祝い、1719(享保4)年に李朝から派遣された朝鮮通信使の一行の内、製述官として随行した申維翰である。自らまとめた紀行文『海游録』の中で、申維翰はこう述べているという。

 「国に四民あり、曰く兵農工商がそれである。士はあずからない。」

 日本人の私たちは何の意識もなく「武士」という言葉を使うが、「士」が持つ意味は中国や朝鮮では全く違うのだという。儒教の国では、それは「人格的な『徳』に結びついた人文的・古典的な教養を体得した読書人」であり、それは「士大夫(したいふ)」と呼ばれた。そういう士大夫が最上層に位置するのが儒教国家のスタイルなのだ。
(青字部分は『江戸の思想史』 田尻祐一郎 著、中公文庫 より引用)

 それに対して、将軍吉宗の時代の武士は戦闘員としての性格を既に失い、為政者及びそれを支える文吏へと姿を変えていたが、科挙の制度もなく、またそれに匹敵する儒学の素養があった訳ではないから、申維翰から見れば武士階級は「士」と呼ぶに値せず、単なる兵に過ぎなかったのだろう。従って、江戸期の日本で社会の秩序が保たれている様子について、それは単に軍事力を背景にしたものに過ぎないと申維翰は見ていた。前述の姜沆にいたっては、日本の戦国大名は全て盗賊の出だ、とまで言っている。
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(江戸時代に12回も日本に派遣された朝鮮通信使)

 もちろん、支配層である武士階級の中に儒学の素養が全くない訳ではなかった。むしろ、つまみ食い的に儒学の中から使えるものを使う、というスタイルだった。

 「北条早雲が儒生に『三略』を読ませ、最初の一行を読んだら『もうよい、わかった』といった話があるが、当時の武将はみな、漢文の読める者に読ませ、役に立つと思える部分を吸収していたのである。その多くが僧侶であったことからこれを『物読み坊主』といった。いわば彼らは、実戦で勝つことのみを目指し、そのために役に立つものを読ませてはいても、科挙に及第するための受験勉強としてこれを精読・暗記しようとしたわけではない。彼らが及第しなければならぬものは、下克上という苛烈な生存競争である。」
(『危機の日本人』 山本七平 著、角川oneテーマ21)

 「ある韓国人は私に、『本当に儒教化したのは韓国であっても中国ではない』といい、また別の人は『120パーセントの儒教化』と言ったが、これもまた辺境文化の一つの型であろう。
 韓国も日本も中国の辺境文化の国といえるが、その文化の受容の仕方が全く逆になっている。韓国は本家を凌駕しようと目指し、日本はまことにプラグマティックに、利用できるものは受容して利用するが、一方、熊沢蕃山のように、日本にそぐわないものを導入するのは害があるだけだからやめようという態度になっている。
(前掲書)

 16世紀末に姜沆が観察した、朝鮮と日本の間の大きな違い。士大夫の国とサムライの国の違いは、18世紀中頃に日本を訪れた申維翰にとっても大きなギャップであった。そして、申維翰の時代から更に100年後の日本は、そのサムライが自らの存在を否定することで大急ぎの近代化を迎えたのに対して、結果的に20世紀の初頭まで500年超にわたって統一王朝の儒教国家であり続けた朝鮮は、その近代化に大きく苦しむことになった。

 たった一つの海峡を隔てただけなのに、両国が歩んだ歴史の大きな違い。500年という時の長さを考えれば、その違いはそれぞれの国の現在の在り様にも色濃く映し出されているはずである。

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 4月16日(水)の朝、韓国南西部の珍島沖で旅客船「セウォル号」が突如沈没し、修学旅行中の高校生を含めて200人以上が行方不明になるという事故が発生。世界は大きな衝撃を受けた。そして、船内に閉じ込められたままと見られる乗客の救助が難航を極める一方で、航海術や緊急時の乗客誘導も含めた船長・船員の行動、船会社の日頃からの備えなどについて、驚くべき実態が次々に明らかになっていった。

 加えて、中央対策本部が正確な事実をなかなか把握できず、当事者の間ではこれでもかというほどに「デマ」や「嘘」が飛び交い、遭難者の家族が激高する様子が、あらゆるメディアを通じて世界中に配信されている。そして、事実の全容の解明はまだこれからではあるものの、この事故は人災の疑いが極めて濃厚だ。

 事故発生の翌朝、韓国の或る大手紙には『どうして大韓民国で旅客船沈没のような惨事が起きるのか』と題する社説が掲載されたのだが、その日本語版を読んで、私には思うところが少なからずあった。

 「(中略) どうして後進国でも起きないような惨事が大韓民国で起きるのか。 (中略) これ以上こうした惨事は大韓民国の名前の前で許すことができない。結果的に『じっとしていなさい』という案内放送に忠実に従った人たちが犠牲になる社会、あちこちで安全不感症が見られる社会は正常でない。

 朴大統領は国民の安全を最優先にする幸せな社会を約束した。非正常の正常化を約束した。私たちは珍島の惨事を見ながら、その約束に深い疑いを抱いた。もう朴槿恵政権は安全な社会を実際に作るのか行動で見せてほしい。

 それが、地域の特性上工場勤労者が多い安山檀園高の生徒の保護者が、汚れた作業服姿で学校の室内体育館に駆けつけ、必死に子どもの安否を確認する今日の私たちの悲しい自画像の前で投じる切実な注文だ。」
(2014年4月17日付 中央日報日本語版 社説『どうして大韓民国で旅客船沈没のような惨事が起きるのか』より)

 「後進国ならともかく、我々は大韓民国なのだ」というプライドと、「その大韓民国の面子をつぶしたのだからこの事故は許せない」というような思考。国の序列への意識が、ここにはないだろうか。

 二番目に、筆者は「『非正常の正常化』という公約を朴政権は果たすべきだ」と述べているが、こうした安全安心社会は「お上」が作ってくれるものなのだろうか。そうではなくて、これは社会の様々な持ち場でそれぞれの国民がルールを守り、嘘・偽りを排し、責任ある行動を取る、それが当たり前のことになるように皆が意識を変えていくことである筈だ。面倒なことに自らは手を染めずに結果だけを求めるのは、儒教に支配されたこの国の悪しき伝統なのではないか。

 第三に、「汚れた作業着姿・・・」というくだりに見え隠れする、体を動かす仕事に対する「上から目線」である。工場労働者に同情を寄せているようでも、そう素直には読めないところを私などは感じてしまう。生徒の親が作業着姿か背広姿かは船の事故とは無関係だし、どんな職業の親でも、行方不明のままの我が子を案ずる気持ちに変わりはない筈だ。なぜ工場労働者であることをことさらに取り上げる必要があるのだろうか。

 どんな国であろうと、こんな事故が起きてはならない。ましてそれが人災ならばなおのことだが、起きてしまったことの背景には、国家社会の過去の歴史が映し出されているものだ。それを一つ一つ乗り越えて行かねばならない。「歴史を直視する」とは、そういうことではないだろうか。

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