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梅雨は戦の季節 [歴史]


 6月の第二週が終わろうとしている。

 今週もよく雨が降り、湿度の高い日が続いた。そして、夏至まであと一週間だから、梅雨の合間に青空が広がると、輝く太陽はとても高い位置にある。この週末は梅雨も中休みのようで、晴れて暑くなるとの予報。サッカーのW杯ブラジル大会が始まったので、この週末は山歩きを企画していないが、雨が続いたから、行ったとしても山道はどこもコンディションは良くないことだろう。まあ、テレビ観戦を主体に週末のスケジュールを組み立てるのが無難なところかな。
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 6月は雨の季節だが、近世以前の日本では、そんなことにはおかまいなしに案外と大きな戦が行われてきたようだ。

 例えば、木曽義仲が数百頭の牛の角に松明をつけて放ち、10万に及ぶ平家の軍勢を壊滅させたという1183年の倶利伽羅峠の戦いは、ユリウス暦では6月2日のことだ。鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇が幕府の転覆を狙った承久の乱が始まったのは、1221年の6月5日である。

 織田信長が今川義元の本陣に奇襲攻撃をかけた、有名な桶狭間の戦いは1560年の6月12日。信長と家康の連合軍が鉄砲の連続射撃で武田の騎馬隊を壊滅させた長篠の戦いは、1575年の6月29日。そして、その信長の命運が尽きた本能寺の変は、1582年の6月21日である。

 更に言えば、この6月から7月初めにかけての鬱陶しい季節に、実にダイナミックに日本の歴史が動いたのが、1333年だった。言うまでもなく、鎌倉幕府が滅亡したプロセスのことである。
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(激動の1333年。日付は全てユリウス暦換算)

 火種は西国にあった。

 鎌倉幕府打倒の陰謀が事前に発覚し、密かに都を脱出した後醍醐帝が山城国笠置山で挙兵、その皇子・護良親王や河内の「悪党」・楠木正成らがこれに呼応したのが、前々年の9月(元弘の変)。だが程なく帝は捕えられ、正成が籠城戦を続けていた赤坂城は11月に陥落。翌年4月には帝が隠岐へ流罪となる。倒幕の炎は消えたかに見えた。

 だが、姿をくらましていた正成がその年の暮に河内国金剛山の千早城で再び挙兵。摂津国で六波羅の軍勢を撃退するなどの功を挙げる。年が明けて1333年。幕府方は大軍を派遣して千早城を取り囲み、3月8日から攻防戦が始まるのだが、立てこもる僅か千人の正成軍に対して、『太平記』によれば「百万人」とされる幕府の大軍が容易に城を落とせない。そのことが各地に伝わり、倒幕の機運を高めることになった。

 その間に播磨国で赤松則村(円心)が挙兵して倒幕勢力を糾合。そして4月9日に後醍醐帝が隠岐を脱出し、伯耆国の船上山で倒幕の綸旨を全国に発するようになると、幕府も六波羅へ援軍を送らざるを得ない。「病気」と称して千早城の包囲戦から離脱していた足利尊氏が、幕府の命を受けて鎌倉を発つのが5月11日。だが、尊氏には胸に秘めたものがあり、この時点で幕府の命運は尽きていたといえるだろう。

 5月18日、尊氏の軍勢は三河国矢作に到着。承久の乱の時の功績によって、足利の三代目が三河守護職に就いて以来の縁故地だ。尊氏はここで一族郎党を集め、祖父・家時の置文を読んで倒幕の決意を明かしたとされる。そして、5月30日に入京。それから丹波国篠村に向かい(ここも足利氏の所領だった)、その八幡宮で倒幕の兵を挙げる。尊氏は赤松円心や佐々木道誉らと共に洛中を攻め、六波羅探題は6月19日に壊滅した。

 今のような通信手段のない時代に、どうやって時期を示し合わせたのか、六波羅滅亡の翌日には北関東で新田義貞が挙兵。手勢は僅か150人だったというから、その時点でどこまでの勝算があったのかはわからないが、結果的には道中で雪崩をうつように加勢が現れ、破竹の勢いで鎌倉を目指すことになった。

 一週間後の6月27日には多摩川の分倍河原で幕府軍を撃退。その3日後にはもう鎌倉での攻防戦が始まっている。そして、7月4日に鎌倉の東勝寺で、最後の得宗・北条高時ら一門が自刃し、鎌倉時代はここに幕を閉じた。後醍醐帝の隠岐脱出からまだ三ヶ月と経っていないのだから、時代は猛烈なスピードで展開したことになる。
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 それにしても、モンゴルが二度目に攻めて来た1281年の「弘安の役」から僅かに52年。日本の未曾有の危機であった元寇に立ち向かった民族の英雄・北条時宗の、その孫の代で北条の世は潰えた。なぜ半世紀という短い時間に滅亡の道をたどったのだろうか。

 二度の元寇は撃退したが、新たな領地を得た訳ではなかったので、功あった者にも恩賞を与えることが出来ず、不満が渦巻いたこと。分割相続を繰り返したことで、武家の零細化が進み、借財に苦しむようになったこと。その対応策として発した1297年の「永仁の徳政令」も、逆に「貸し渋り」を招いたこと。そして、折悪しくそんな世に登場した「虚け者」の当主・北条高時・・・。滅亡の原因として語られるのはそんなところだ。

 だが、本来ならば鎌倉将軍の下に御家人衆が横一線という体制であった筈の鎌倉幕府において、元寇という一大事のために北条家が名実共にトップに立たざるを得なくなった。その北条宗家でその後の世代交代がうまく進まなかったことも、大きな要因だったのではないだろうか。
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(北条氏の歴代執権。丸数字は就任順)

 時宗の父・北条時頼が赤痢にかかって第5代執権を辞したのは、嫡子・時宗がまだ6歳の時だった。この時は一族の中から一世代前の赤橋長時が執権職を継ぎ、8年後にその長時も病に倒れると、更にその一世代前の北条政村が第7代の執権に就いた。そして1268年1月に蒙古の国書が届くと、そこで権力を北条宗家に戻すべく、18歳になった時宗に執権職を譲っている。その間に時宗は政村の連署(執権の補佐役)を務めるなどして帝王学を学んでいたというから、これは世代交代の一つのあり方だったのだろう。

 ところが、その時宗は二度の元寇で全身全霊を使い果たしたかのように、1284年に34歳の若さで夭折。この時点で嫡子・北条貞時は14歳なのだが、彼には兄弟がおらず、また時宗の時代における長時や政村のような一族の中の有能な年長者もいなかった。未知数のまま執権に就いた貞時の側につく御内人(みうちびと)が実質的な権限を握るようになるのは必然なのだろう。そうした権力闘争の中で、1285年に霜月騒動が起きて安達泰盛が倒され、それによって権勢を誇った平頼綱も1293年に倒された。

 永仁の徳政令が出たのはその4年後のことだから、世は既に傾き始めていたのだろう。そして更に4年後の1301年に貞時は執権を辞任。ハレー彗星が現れたことが凶兆と受け止められたのだという。この時点で高時はまだ生まれておらず、執権職は再び一族の中での持ち回りになった。
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(時宗以後の北条の世)

 その15年後、四代の執権を経て北条高時が第14代執権に就任。久しぶりに北条宗家に執権職が戻ってきたのだが、貞時から高時の後見役に指名された長崎円喜とその息子・高資が権勢を強めていた。そして、執権・高時の時代はそれからの10年間で終わる。1326年、「病」のため24歳の若さで出家した高時。田楽や闘犬に遊び興じた「虚け者」として描かれるのはこの時期のことだ。
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(天狗と共に踊り狂ったとされる北条高時)

 高時は「最後の執権」と思われがちだが、最後の得宗(北条宗家の当主)ではあっても、最後の執権ではない。高時の後には一族の中から金沢貞顕が執権となるも、僅か11日で辞任。結局、幕府滅亡までの最後の7年は、一族の赤橋守時が執権職にあった。守時の妹が足利尊氏に嫁いでいたのだから、これも皮肉な巡り合わせというべきだろう。

 政権担当までの準備期間を用意された時宗とは異なり、それがなかったために御内人が実質的な権力を握り、他の御家人との対立を招いてしまった貞時・高時の時代。現代のような民主主義の時代でなくとも、後継者の政権担当能力にひとたび疑問符がついてしまうと、人心が離れてしまうのは意外に早いものなのだろう。それは、民主主義国家はもちろんのこと、そうでない政治体制の国々にとっても、大きな脅威である筈だ。

 それから681年が過ぎて、現代の我々は、地球の反対側で開かれる4年に一度のサッカーの祭典に国を挙げて夢中になっている。それぐらい、世の中の森羅万象が瞬時に世界に伝わる時代。為政者たちにとっては、便利なようでいて、実は何とも厄介な世の中になったのではないだろうか。

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