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失われた遺産 [美術]


 七宝(しっぽう)焼きという工芸は、誰にも馴染みのあるものだろう。金属の下地の上にペースト状の釉薬を乗せて高温で焼いたものだ。中近東で生み出されたその技法が、中央アジア経由で日本に伝わったのは奈良時代だという。大がかりな設備も要らないので、個人で楽しむ人も多いようだ。

 だが、小さな壺の表面いっぱいに藤の花が描かれ、その花びらの一つ一つは1ミリほどの小ささで、しかも色の変わり目が金属線で仕切られた有線七宝として作られている、そんな精緻な七宝焼きが明治時代の一時期に日本から盛んに輸出され、欧米のバイヤーたちによって高価で購入されていたことを、現代の私たちは認識しているだろうか。
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(左:七宝焼きの「花文飾り壺」、右:薩摩焼の「蝶に菊尽し茶碗」)

 同様に、薩摩焼という陶磁器も、誰もが知っている物だろう。秀吉による「文禄・慶長の役」の際に、朝鮮から連れて来られた陶工たちを技術者として薩摩藩が保護したことから始まり、現在に至るまで発展してきたものだ。薩摩焼と聞けば、水で割った焼酎を温める時に使う「黒ぢょか」を連想する人も多いことだろう。

 だが、小さな茶碗の内側に僅か3ミリほどの大きさの無数の蝶が描かれ、しかもその個々の蝶は上下の翅(はね)の色が使い分けられていて、単眼鏡でもなければ細部の出来栄えを鑑賞することは到底できない、そんな精緻な薩摩焼が幕末維新の頃から海外に紹介され、明治時代には日本の輸出工芸品の花形であったことを、現代の私たちは認識しているだろうか。

 こうした七宝や陶器だけではなく、漆工、金工、刀装具、象牙彫、印籠、刺繍絵画など、いずれもミクロの技を極めて海外から大いに珍重された明治日本の第一級の輸出工芸品160点を鑑賞できる美術展『超絶技巧! 明治工芸の粋』が、東京・日本橋の三井記念美術館で開催されている。これは必見の美術展だ。
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 雨風に晒されて朽ち果てたような古瓦の上に、一羽の鳩がとまっている。だが、古瓦と見せかけて、実はそれは「打出し」で古瓦のような質感を持たせた鉄なのだ。そして、その上から鳩が足元の一点を凝視している。その目線の先にあるのは、瓦の窪みに身を潜めてはいるが、鳩に見つかってしまった一匹の蜘蛛なのだ。その縮こまった蜘蛛の慌てぶりまでもが見事に表現されている。そして、高さ15センチほどのこの作品はいったい何かというと、実は香炉で、上の部分が蓋になっている。こんな金工品を、現代の私たちは見たことがあっただろうか。
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(左:金工の「古瓦鳩香炉」、右:象牙彫の「竹の子、梅」)

 更には、展示ケースにゴロリと置かれた、たった今掘り出されたばかりのような実物大のタケノコ。どう見ても本物としか思えないのだが、実は象牙を彫って作り、彩色を施したものなのだという。その他にも、茄子だの蓮根だの柑橘類の一種だのと、八百屋の店先のように並べられたものが、実は同様にみんな象牙彫なのだ。これにはただただ呆気に取られるしかないだろう。三井記念美術館の内部は重厚な造りでとても厳かな雰囲気なのだが、会場のあちこちで聞こえて来るのは、驚きの声と溜息ばかりである。

 今回の美術展は全て、京都の清水三年坂美術館の所蔵品なのだという。館長の村田理如氏は、1980年代の後半に出張先のニューヨークでたまたまアンティーク・モールのショーウィンドウに置かれていた美しい印籠を見つけて、幕末・明治の美術品の虜になったそうだ。以来、「村田コレクション」と呼ばれる明治工芸品の収集に邁進することになる。

 「集めるうちに気がついたことは、幕末・明治の美術品の名品はほとんどが海外に流出していて、日本国内には残っていないし、それらを本格的に展示している美術館も国内には存在していないということでした。特に金工(金属工芸)、七宝、印籠、根付等はひどい状態だということが分かってきました。」

 「これらの名品が、日本で市場に出れば、海外の業者の手に渡り、たちまち欧米に流出してしまいます。こういう事が、明治以降延々と続いてきた為に日本からほとんど姿を消してしまったのです。だから一般の人が明治の美術品の名品を見る機会はほとんどないといっていいかと思います。」

(『明治の美術に魅せられて』 清水三年坂美術館HPより)

 徳川の世が終わった日本は、欧米の近代文明を取り入れる文明開化へと大きく舵を切り、新しい文物が急速に取り入れられたが、その一方で古いもの、伝統的なものが数多く捨てられた。ただ捨てるだけでなく、明治の初年に寺や仏像の大々的な破壊行為に結びついた「廃仏毀釈」などは、その最たるものだろう。

 対外的にも国内的にも戦争のない時代が長く続いた徳川の世。伝統工芸の名人たちは大名家のお抱えになり、もはや実用の機会がなくなった武具などは、「お洒落を演出するための小道具」へと昇華していた。浮世絵や文楽、歌舞伎などに代表される町人文化の興隆と相俟って、幕末時点での日本は、技術そして芸術性の両面で、世界の中でも非常に高い文化水準にあったようだ。

 ところが、そうした伝統文化が、明治の欧化政策の中で、国内では急速に見向きもされなくなってしまった。大名家もなくなり、お抱えの名人たちは職を失う。そうした人々の「失業対策と殖産興業政策」として、明治政府が彼らに輸出用の工芸品を作らせ、その結果、「外貨獲得のために外人の好みに合わせて作らせた作品」が数多く輸出された。そして、その中には想像を絶するような技巧を駆使した驚くべき作品が幾つもあったのだ。「村田コレクション」として現代の我々が鑑賞できるのは、その中のごく一部なのである。
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 そうした経緯を踏まえると、この美術展の名前に付された「これそ明治のクールジャパン!」というサブタイトルは、私にはいささか引っ掛るものがある。「小さくて精緻」というのは日本の工業製品の代名詞のようなものだから、それが明治の工芸品にもあったのだとすれば「クールジャパン」の源泉なのかもしれないが、それが世界に知られるようになった背景は、「国内では見捨てられた」ということなのだから。

 前述の「廃仏毀釈」に代表されるように、歴史が大きな変化点を迎えた時に、何か物に取り憑かれたように社会全体が一方向に走ってしまうことが、この国には何度もあった。もちろん、その結果として比較的短期間に変革を成し遂げることができたというメリットは大いにあったのだが、その反動として、捨てなくてもいいようなものまで捨ててしまい、不必要に価値を貶めてしまった物も山ほどあった。そのことを忘れてはいけないのだと思う。個々の作品はクールに見えても、当の日本社会は頭に血が昇っていてクールではなかったのだから。(先に挙げた象牙彫のタケノコなどは、一体どうやって象牙に色を塗ったのか、その技術は最早わからなくなってしまったそうだ。)

 更に言えば、これらの「海外に輸出されて高値で取引された」とのとだが、これだけの技を見せた当時の名工たちは充分に報われたのだろうか。これほどの技術に相応しい報酬を得ていたのだろうか。オリンピックの東京誘致の際のキャッチフレーズになった「おもてなし」もそうだが、それが安易に行われれば、単なる「オーバースペックなサービスの安売り」だけで終わってしまう。今の私がモノ作りの世界にいるから余計にそう思うのかもしれないが、明治の工芸品の技術の高さが正しく価格に反映されていたのか、超絶技巧なら「超絶価格」にちゃんとなっていたのか、それが製作者に正当に還元されたのか、そのあたりが気になるところだ。

 「村田コレクション」として収集された輸出用工芸品の数々は、江戸時代のハイレベルで多様な文化遺産を明治の日本がしっかりと受け継いでいたこと、そしてその後の日本がいかに大きなものを失ったのかということを、改めて私たちに教えてくれる。同時にまたそれは、多種多様な分野のそれぞれで皆がきっちりと仕事をこなしてきた日本の姿を凝縮しているようにも見える。簡素な美もあれば派手な美もある。繊細さばかりではなく、大胆なデザインもある。動も静もあり、一つの概念で全てを語ることは不可能だ。それらの総体の中に香る「日本」があるとすれば、それは実に淡く微かで、目には見えないものなのだろう。

 下手な官製イベントのような「クールジャパン」という言葉には踊らされず、ネット上に氾濫する安っぽいナショナリズムにも与せず、私たちは祖先たちの作品をじっくりと見つめながら、日本というものの在りようを考えて行きたいものである。

  「日本はたしかに一途(いちず)なところはあるのですが、それとともにたいそう多様な歴史を歩んできました。日本は『一途で多様な国』です。
 信仰や宗教の面からみても、多神で多仏です。『源氏』と信長の横着と芭蕉のサビが同居しているのです。考えてみれば。日本には天皇制や王朝文化がずっと主流になっていたことなど、ないのです。天皇と将軍がいて、関白と執権がいて、仏教と神道と儒教と民間信仰が共存してきた。(中略)

 信仰的なことばかりではない。社会制度だって一つの全国制度が支配していた例はきわめて少なかったと見るべきです。東の日本と西の日本はちがっているのです。江戸後期にいたるまで、東国では貫高制の金の決済で、西国では石高制の銀の決済がおこなわれていましたし、風土や習慣も異なるものが併存していた。東は水田優位社会が進行し、西は畑作優位社会が動いていたし、道具や言葉づかいも多様です。(中略)

 こういう多様性や多義性はふつうに考えると、そのままでは混乱を招いたり、弱体になりすぎて他国の侵略を受けたり、どこかの属国になりかねないという意見もあるでしょう。そう、思われがちになる。しかし実際には、それでも日本は日本であることを、なんらかの理由でちゃんと保ってきました。対比や矛盾だらけのようでいて、必ずしもそうでもないのです。」

(『日本という方法』 松岡正剛 著、NHKブックス)

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