SSブログ

台地の突端 [散歩]


 「今日はお洗濯用の柔軟剤を少しまとめ買いしたいのだけれど、一緒に行ってくれる?」
 「それなら、伝通院へ散歩がてら、白山通りのスーパーへ行こうか。今週末は確か、伝通院の『朝顔市』をやってるはずだから。」
 「ああ、それいいね。」

 日曜日のお昼過ぎ、コーヒーを飲みながら家内とそんな話になって、外を歩くことになった。「海の日」の三連休の中日。梅雨の末期特有の空模様だが、雨は降って来そうにない。気温はもう30℃に近いのだろうか。やたらと蒸し暑いから、私もTシャツに短パン姿だ。
 「虫除けをシュッシュして行こうね。」
家内が小さなスプレーを持ってきた。お寺の境内は蚊がいるから、この季節の散歩には必携なのだ。

 いつもの坂道を上って大通りに出ると、雲間から陽がさして、早くも汗が出て来た。両側にマンションやオフィスビルの立ち並ぶ大通りは、日曜日とあってクルマも人通りも少ない。休日の都心のそんなガランとした様子が、私は案外と好きだ。家内と何の話をしたのかは覚えていないが、15分ほど歩いて大きな交差点を左に曲がると、正面が伝通院の山門だ。
denzuin2014.jpg

 山門をくぐると、たくさんのアサガオの鉢が参道の上に並べられている。その鉢の販売だけではなくて、地ビールだの甲州のワインだのが販売されていて、伝通院の境内は賑やかだ。「文京朝顔・ほおずき市」と名付けられた文京区のイベントになっているこの催し。これが始まると、今年も夏がやって来たことを肌で感じることになる。
asagao.jpg

 ほおずき市の方は、この伝通院から坂道を下っていった先の源覚寺で行われている。(源覚寺という名前よりも「こんにゃくえんま」と呼ばれる閻魔像の方がずっと有名なのだが。) 善光寺坂と呼ばれる、幅の狭いその坂道を下り始めると、道路の中央近くに幹の太いムクノキの姿が見える。
zenkoujizaka.jpg

 善光寺坂のムクノキ。樹齢400年とされるこの巨木は、文京区指定天然記念物の第1号だ。往時は高さが22mもあったそうだが、昭和20年5月25日の空襲で上部が焼け落ちてしまったという。にもかかわらずこの木は生き続け、今も多くの枝に葉を茂らせて元気いっぱいだ。そんな様子から、最近では一種のパワー・スポットとしても知られるようになった。

 ムクノキからも更に下り坂が続く。先ほど我家の前から坂道を上った分以上に下って来たようだ。下りきると千川通りの商店街に出て、それを右方向にしばらく歩いていくと、右手にいきなり「こんにゃくえんま」の入口が現れる。源覚寺の境内には入らず、閻魔堂にお参りするための通路なのだ。その狭い空間にほおずきの鉢が幾つも吊るされ、販売されている。徳川家の菩提寺であった広大な伝通院とは対照的に、庶民の信仰の対象だった「こんにゃくえんま」では狭い場所に人々がひしめいている。
hozuki.jpg

 今日は坂を一つ上り、一つ下りてここまでやって来た。これから買い物をして、我家に帰るためにはまた少し坂道を上ることになるのだが、このように文京区は坂道が多い。武蔵野台地が沖積平野に接する間際のところで、小さな河川が台地に谷を刻んだような地形が幾つもあるのだ。例えば、TVドラマなどのロケに使われることがある庚申坂は、東京メトロ丸ノ内線の後楽園・茗荷谷間で電車が地上の高架を走る、その足元から始まって、坂を登り切った春日通り沿いとは5mほどの高度差がある。
koushinzaka.jpg
(庚申坂)

 文京区に限らず、台東区の西部、千代田区、港区、渋谷区、新宿区、豊島区の東部・南部も坂道ばかりだ。ちょうど、JR山手線に囲まれた地域である。その山手線の内側のデコボコを、7つの台地と6つの谷に整理する学説があるそうだ。

 ① 上野台地
 ② 本郷台地
 ③ 目白・小石川台地
 ④ 牛込台地
 ⑤ 四谷・麹町台地
 ⑥ 赤坂・麻布台地
 ⑦ 芝・白銀台地

geography of tokyo.jpg

 最初の上野台地は、上野駅から田端駅にかけて線路の西側に続く丘で、いわゆる「上野の山」と「道灌山」だ。そして、東大のキャンパスがある②の本郷台地との間が千駄木・不忍谷である。②と③の間は指ヶ谷(さしがや)谷と呼ばれ、現在の千川通りや白山通り(中山道)の一部がそれにあたる。

 そして③と④の間は神田川が作る谷、④と⑤の間は飯田橋から四谷までの皇居外堀、⑤と⑥の間は溜池谷で、紀尾井町のお堀から赤坂見附を通って外堀通りの溜池までの谷だ。そして⑥と⑦の間は古川谷で、現在は暗渠になった渋谷川の上を明治通りが走っている。

bunkyo area.jpg
(文京区のクローズアップ)

 このうち、文京区の部分をクローズアップしてみると、目白・小石川台地は神田川と千川通りの二つの谷に挟まれた台地で、春日通りがちょうど尾根の上を走っているような構造だ。そして、目白台と小日向の間の谷(現在は音羽通り)も、神田川の支流によって刻まれた谷なのだろう。今日訪れた伝通院は台地の上、そこから善光寺坂を下った源覚寺(こんにゃくえんま)は、台地の下の縁に位置していることがわかる。

 ところで、日本列島が出来たのは、海面が上昇したおかげだという。今から2万年ほど前にウィスコンシン氷期と呼ばれる大規模な氷河期があり、海面が下がったので日本列島はユーラシア大陸と陸続きになった。その後、温暖化が始まって徐々に海面が上昇し、日本が列島として大陸から離れていったという。

 「一番高く海面が上昇したのは、約6000年前のことであった。その時を『縄文海進』と呼んでいる。その6000年前の縄文海進期には、現在より海面が5~7メートル高かった。それは地質調査や貝塚の分布調査などによって確定されている。

 日本の歴史が誕生した縄文海進期に、現在ある平野は存在していなかった。今の日本文明の中心である石狩、仙台、関東、濃尾、新潟、富山、金沢、福井、大阪、和歌山、徳島、香川、高知、広島、筑後、熊本平野など、平野という平野は全て海の底であった。

 その縄文海進期が終わり、気温が下がり始めた。それに伴い南極など地球各地で氷河や氷床が形成され、そのため海水面が数メートル低下して現在に至っている。」
(『日本文明の謎を解く』 竹村公太郎 著、清流出版)

 この縄文海進期には、現在の東京でいえば九段下あたりまで海が来ていたという。勢力の強い台風などがやって来て海面が上昇した時には、それがもっと先まで押し寄せて行ったのだろう。とすれば、現在の目白・小石川台地の東の突端あたりが陸と海の境目だったこともあるのではないか。

 東京メトロ・後楽園駅のすぐ近く、春日通りと千川通りが交差する富坂下の四つ角の東南側に、文京区役所が建っている。その25階にある展望ロビーに上がると、目の下はちょうど目白・小石川台地の東の突端だ。春日通りと千川通りに挟まれた間に伝通院の山門も見えていて、建物が密集する都会の風景ながら、地表のデコボコをそれなりに観察することが出来る。そして、この近くまで海が押し寄せていた6000年前の風景を想像してみるのも悪くない。
bird's  view of koishikawa.jpg

 朝顔市とほおずき市。夏の風物詩を見物した私たちは、その近くのスーパーで本来の目的である買い物をした。そして、少々重たい荷物を抱えながら、我家に向かって再び坂道を上がった。散歩に出た時よりも今の方が日差しが強く、汗が出る。天気予報に載っていたこの先の予想天気図を見る限りでは、明後日の22日には関東地方も梅雨が明けそうだ。

 さあ、帰ったらシャワーを浴びて、缶ビールを開けようか。そう話しかけようとしたら、家内の横顔にも同じことが書いてあった。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

梅雨の合間に - 三ツ峠山東北の夏 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。