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国の中の国境 [世界]


 「今夜は皆で四川料理を食べに行きましょう。」

 総経理のIさんがデスクの上を片付けながら、いつもの温和な笑顔を浮かべた。8月8日の午後6時。他のスタッフ二人もジョインしてくれることになっているのだが、彼らももうすっかり退社モードになっている。金曜日は中国でも「ハナキン」のようなムードがあるのだろうか。

 広東省・深圳の真夏は日本以上に蒸し暑い。オフィスのあるビルから外に出れば、地下鉄の駅はすぐ目の前なのだが、その間に私たちはもう汗をかいている。ホームに降りると、さすがに夕方のラッシュが始まっていて、乗降客は多いのだが、人々のマナーは思っていたよりも良くて、香港の地下鉄などよりも幾分整然とした感すらあった。
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 相応に混雑した地下鉄を乗り継いで、2号線の后海(Houhai)という駅から外に出ると、海岸城(Coastal City)という巨大なショッピング・モールがあった。半球型の3D映画館あり、多数のブランド・ショップあり。そして、ともかくも飲食店の数がとてつもなく多い。日本のWATAMI(和民)も入っていた。

 「あそこは当地でも人気がありますよ。日本では居酒屋ですが、こちらでは飲みに来るというようよりも食べに来る人が多いんです。だから、なかなかビールが出て来なくてね。」

 そう言ってIさんは笑った。北京生まれ・北京育ちのIさんは、日本に帰化した中国人で、奥さんも日本人だ。「仕事の後の一杯」などはもうすっかり日本人のスタイルになっている。

 広い海岸城の中をだいぶ歩いて、お目当ての四川レストランに着いた。新しいショッピング・モールに入居した店だけあって、明るくてすっきりした店構えだ。深圳にしては、と言ってしまうと失礼だが、ずいぶんと垢抜けた感じの店である。何はともあれ、青島ビールの「純生」で乾杯しよう。食事のメニューを選ぶのはそれからだ。一仕事終えた後の冷えたビールの美味さは、国籍や民族を超えて理屈抜きに人類が分かち合えるものの一つなのだから。
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 広東省深圳市の西部。比較的新しく市街化された地域に私の会社が小さな販売会社を設立したのは、昨年の11月だった。ちょっとした仕事があってここを訪ねたのは、今回が二度目である。

 総経理のIさんはもとより、二人のスタッフも日本語がよくできる。営業担当のK君は30代前半。黒竜江省の出身で屈強な体つきをしている。酒がめっぽう強く、人懐っこいキャラクターは確かに営業向きだ。経理担当の女性のLさんは20代後半。ずっと広東省で育ってきたが、客家の家系なのだそうである。中国人は南の方へ行くと体の小さな人が多いが、彼女などはその典型なのだろう。静かで控えめな性格だが、事務はきちんとこなしている。

 今年の5月に10日間ほど、この二人をそれぞれ日本に呼び、本社や工場で研修を受けてもらったから、お互いにもうすっかり顔なじみだ。まあ硬い話は抜きにして、この日の夜は美味しい四川料理を囲みながら楽しく過ごした。そして、私が深圳に滞在した二日の間、会社のスタッフたちと接し、そして街の中の様子を見た限りでは、日本と中国の間の政府間で対立している諸々の事柄は、微塵も表に出ることはなかった。そればかりか、スタッフたちは今後のビジネスのキャリアを考えて、日本語のスキルに更に磨きをかけ、日本と係わりのある仕事を続けて行きたいと話していた。
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 海岸城の一画で楽しく過ごし、ホテルに帰ってぐっすりと眠った私は、翌日の土曜日の朝8時頃に予定通りホテルを出た。今日は午前中に陸路で香港に入り、午後早くのフライトで東京に帰るだけである。

 土曜の朝の、やや間の抜けた感じのオフィス街を少し歩いて、地下鉄の駅に降りる。券売機はタッチパネル方式で、路線図上で目的地の駅名をタッチした後に人数を入力し、10元札か硬貨を入れると、緑色をした樹脂製のトークンが出てくる。それを使って改札機を通る仕組みだ。
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 現在は5号線まである深圳地下鉄は、2004年12月から順次開業したというから、私が今乗っている1号線は間もなく開業10周年を迎えることになる。ホームドアが導入され、駅構内の造りや各種の表示方法などは香港の地下鉄(MTR)の方式をまるっきりそのまま取り入れたような感じだ。

 東方向行きの電車は土曜の朝から案外込み合っていたが、会展中心(Convention & Exhibition Center)という駅で4号線の南行きに乗り換えると、車内はまた一段と混雑してきた。そして乗客のほぼ全員が、そこから2駅目の終点・福田口岸(Fotian Checkpoint)で我先に電車を降りる。ここは香港との国境なのだ。地下鉄の出口の表示に「香港」とシンプルに書いてあってわかりやすい。
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 たとえ「一国二制度」であるとしても、現在の香港は特別行政区として中国の一部なのだから、「国境」という言葉使いは正確ではないのだろう。中国の国内では別の言い方をしているのかもしれないが、ここから先にあるのは誰が見ても中国からの「出国審査」であり、そして香港側の「入国審査」だ。現に私が記入したのは中国の「出国カード」である。

 エスカレーターを上がって地下鉄の改札口を出ると、大量の人の流れが向かう先は、国際空港に必ずあるような出国審査のカウンターだ。それがズラリと並んでいる。この日は中国パスポートか外国パスポートかの区別を特にしていなかったので、目の前に出来ていた列に並ぶことにした。見た限りでは圧倒的に中国人が多く、それに混じって欧米人もチラホラ。とにかく物凄い人数だ。これが空港だったら到底捌ききれないだろう。

 香港特別行政区基本法に基づいて、香港では中国本土とは異なる出入境管理(査証政策)が行われている。そこでは、中国本土に国籍を持つ人間がビザなしで香港に入れるのは以下の場合だけだ。
 (1) トランジットの場合(その先の第三国への航空券等が必要)
 (2) 中華人民共和国往来港澳通行証を取得した場合(親族訪問用、観光用、商用等)

 後者は紺色をしたパスポートのような冊子で、確かにそれを持って列に並んでいる人ばかりだ。中国政府はこうした通行証の発行量をコントロールしているそうだが、それにしても福田口岸の現場で見る香港訪問者は膨大な人数である。
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 列に並んで約35分。ようやく中国側の「出国」を終え、川の上に架かる長い橋を渡る。橋といっても人が通る部分はインドアの構造になっている。川を渡り終えたところが香港側で、落馬洲(Lok Ma Chau)という入境のチェックポイントがある。今度はここで香港の「入国カード」を記入し、パスポートと共に提示する訳だ。ここも大変な混雑で、入境までに40分を要することになった。
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(香港・落馬洲駅のホームから見た「国境」の橋。対岸は深圳)

 入境してエスカレーターを上がれば港鉄(香港MTR)の落馬洲駅で、香港の中心部に向かう電車が出ている。今回も出入境に一時間以上を要したが、ともかくも午前10時過ぎに落馬洲駅を発車する電車に乗り、私は香港・九龍サイドの紅磡(Hung Hom)に向かった。
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 深圳に接する香港の新界地区を走る電車。市街化が無原則に広がってしまった深圳に比べると、むしろこちらの方がずっと緑豊かに見える。そして、新界地区を南下するにつれて、かつての香港駐在時代に私が歩いた山々の姿が見えてきて、何とも懐かしい。やはり香港に入ると、中国本土にいる時とは明らかに違う安心感があるものだ。

 そして、何気なく私はシャツの胸ポケットに入れていたスマホを取り出した。香港ではあらゆる場所でWi-Fiが使える。そして、言うまでもないことだが、インターネットの利用には何の制約もない。その当たり前のことを、香港に来ると改めて実感するのだ。

 深圳にいる間は、Googleが全く開けなかった。You Tubeも見られない。Gmailも送受信が出来なかった。私は使っていないが、FacebookやTwitterもダメなのだそうである。Yahooは利用可能だが、試しに幾つかのサイトを検索してみると、日本の主要紙の中では産経新聞のサイトが開かなかった。中国政府は膨大な手をかけて、インターネットやSNS経由の情報アクセスに制限をかけているというのだ。

 しかしその一方で、深圳の福田口岸から落馬洲経由というルートだけでも、毎日あれほど大勢の中国人がネット規制のない香港を訪れている。これではいくら本土側で情報統制をしたところで、ザルで水を掬うような話ではないか。
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 1997年の7月1日をもって英国から中国に返還された香港。その時から50年間は「一国二制度」を維持し、香港に社会主義政策を導入しないことが約束されている。あれから今年で17年。50年という年月の1/3が経過したことになるが、今の世の中が当時の想定を既に大きく超えているものが、少なくとも二つあると私は思う。

 一つは、中国本土の経済規模が巨大になり、しかもそれが外の世界とグローバルに結びつくようになったことだ。返還当時の香港は、中国にとっては西側に向かって開かれた窓であり、貿易の拠点や金融市場のある街として貴重な宝箱のような存在だったはずである。それが今では、中華圏全体の中で一つのローカル市場になったような観がある。

 そしてもう一つは、インターネットやSNSのような情報媒体が飛躍的に普及・発展し、既存のメディアを遥かに上回るスピードでありとあらゆる情報が世界を駆けめぐるようになったことだろう。それは中国共産党にとって、テレビや新聞・雑誌などよりも大きな脅威であり、先に述べたようなネット規制が中国本土では現に行われているのだが、その網をかけられないのが香港だ。日々、これだけ多くの人々が中国本土と香港の間を往来しているという現実がある中で、中国本土でのネット規制にはどれほどの意味があるというのだろうか。その点では、今や香港は中国共産党にとって厄介者ですらあるのかもしれない。

 午前11時前に、電車は紅磡駅に到着。向かい側のホームに停まっていた地下鉄でもう一駅行けば、九龍サイドの中心街は近い。時間があったので海側に出てみると、おなじみの香港島の眺めがあった。今日の香港はよく晴れていて、暑い!
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 家族に頼まれていた買い物を済ませたが、この暑い中を再び地下鉄の駅まで歩く気になれなかったので、スターフェリーで海峡を渡ることにする。今日は土曜日だから、料金は3.4香港ドル(約45円)。沢木耕太郎ではないが、「たった45円の豪華な船旅」で、この船からの眺めが私は好きだ。
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 それから、空港行きの電車に乗るまでの1時間足らずの間、私は汗をかきながら香港島の中心部を歩いた。何もかもが懐かしかった。このゴチャゴチャ感とインターナショナルな雰囲気が、やはりいい。街を歩いているだけで、何だか元気が出て来そうだ。

 特別行政区というステータスで中国の一部となりながら、現実は「中国とは違う国」である香港。この先もずっと、香港は香港のままでいて欲しい。

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