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辛いピーナッツ [歴史]


 7月の中頃に、いつもの山仲間たちと山梨県の三ツ峠山に登った帰り、新宿行きのホリデー快速の車内でボックス席を確保し、皆でビールを飲んでいた時のことだ。メンバーの一人のH君が、ちょっと珍しいおつまみを皆の前で披露してくれた。彼が上海に出張した折に、街中で買い求めたものだという。

 縦長の小さな袋に印刷されているのは、「麻辣花生」という真っ赤な四文字と、ピーナッツと赤唐辛子を混ぜ合わせた写真。要するにピリ辛の落花生なのである。
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 早速食べてみると、それは単なる「ピリ辛」ではなく、もっとインパクトが強烈で、舌が痺れるような辛味があった。これは、四川料理などによく使われる「花椒」、要するに山椒の辛さだ。そもそも「麻辣花生」の麻とは、痺れるという意味を持つのだそうである。

 しかし、これは美味いツマミだ。いくらでもビールが進む。私はこの「麻辣花生」が気に入ってしまって、今月の初めに広東省の深圳へ出張した際に、同じ物がないかと探してみたところ、現地のセブンイレブンでこれと殆ど同じようなものを見つけた。それも、「セブンプレミアム」というオリジナル・ブランドとして売っていたのだった。名前も同じ「麻辣花生」。中国では売れ筋の商品なのだろう。
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 袋の背面に、落花生の産地は山東省の煙台(簡体字では烟台)と書いてある。H君が教えてくれた物も、やはり煙台産の落花生だった。調べてみると、煙台は大粒の落花生の産地として有名なのだそうだ。そもそも落花生に限らず、山東省は中国で最も農業の盛んな地域で、野菜や果物の出荷量は中国一なのだという。もちろん、青島を中心に第二次産業も大きな集積を持っていて、工業面でも中国有数の省になっている。現地に進出している日本企業も数多い。
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 青島といえば中国を代表するビールの産地だが、言うまでもなくそれは、青島市の西側に広がる膠州湾をかつてドイツ帝国が租借地としていたからだった。

 19世紀の後半、英仏に遅れて植民地獲得競争に乗り出したドイツは、本国との間の海上貿易路、すなわちシーレーン確保の観点から、世界各地に海軍基地を設けることを優先したという。その観点から中国沿海部で彼らの目にとまったのが、青島の西隣にハート型に入り組んだ膠州湾であった。1861年(まだドイツ統一の前)に清国との間で貿易を始めた時から、プロイセンは中国沿海部を調査し、いつか膠州湾を占領して東洋艦隊を配備しようと考えていたというから、帝国主義とはそういうものだったのだろう。

 それから36年後の1897年11月に、山東省西部でドイツ人宣教師二人が殺害される事件が起きると、ドイツはすかさず膠州湾に海兵隊を上陸させて威嚇し、実際に砲火を交えることなく清国兵を駆逐してこの入江の一帯を占領。翌年3月には清国に条約を結ばせて、膠州湾の99年間の租借を認めさせた。(清国にしてみれば、この事件の前々年の「三国干渉」で遼東半島の日本への割譲を免れた、そのことでドイツに売られた「恩」が高くついたことになる。)
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 その膠州湾に接する青島でビールの生産が始まったのは1903年のことだそうだが、膠州湾租借地を運営するにあたり、当時のドイツはこれを世界の植民地の模範とすべく生真面目に取り組み、ハード、ソフトの各種インフラ整備に努めた結果、元は小さな港町だった青島は中国の中でも極めて整然とした街へと発展したという。何事も綺麗好きのドイツ人のことだから、中国によくある雑然とした街にはしたくなかったに違いない。

 だが、ドイツの租借地としての歴史は僅か16年で終わることになる。その膠州湾に突如として係わりを持つようになったのは、当時の日本だった。

 1914(大正3)年6月28日にボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻の暗殺事件を契機に、7月28日にオーストリアがセルビアに向けて宣戦布告。第一次世界大戦が始まった。7日後の8月4日に英国がドイツに対して宣戦を布告し、8月7日には英国大使より、青島駐留のドイツ東洋艦隊の通商破壊に対抗するため、日本に対独参戦を求める申し入れがあった。日英同盟に基づいてのことだ。(実はその後、英国との間では揺れ戻しが色々とあったようだが。)

 8月10日の元老会議で、日本は対独参戦の方針を決定。ドイツに対して最後通牒を発する。それは、膠州湾租借地の全てを、3年前の辛亥革命によって出来たばかりの中華民国に返還すべし、という内容だった。そして8月23日に最後通牒の期限が切れると、日本はドイツに宣戦布告を行ない、9月2日に山東省龍口に陸軍を上陸させた。今からちょうど百年前のことである。

 青島での実際の戦闘は、10月31日に始まっている。攻撃側は日英両軍を合わせて5万2千人、青島を守るドイツ軍の守備隊は5千人。膠州湾内に封じ込められることを恐れたドイツの東洋艦隊が青島から脱出したこともあり、この攻防戦は最初から勝負が見えていたようだ。日本にとっては初体験となる航空機による空中戦もあったそうだが、この戦いは砲撃による青島要塞の破壊でケリがつき、11月7日にドイツ軍は降伏。延べ8日間の戦闘で、日本:270名、英国:160名、そしてドイツには183名の戦死者が出たという。
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 ところが、ドイツに代わって日本が占領した膠州湾租借地を中華民国にいつ返還するかが、早々に問題となった。直ちに戦時占領を解除して自分たちに引き渡すべし、とする袁世凱の中華民国。それに対して、日本の戦争の相手はドイツであり、軍事占領したものを中華民国に返還するか否かは、戦時国際法上からもドイツとの講和条約で決める話だ、というのが日本の立場だった。(但し、その講和がいつのことになるのかは、この時点では全く見えていない。) 日本軍が膠州湾租借地だけでなく、膠済鉄道や青島税関の占領を続けていることについても、中国側からの抗議があった。

 事態を打開すべく、日本は袁世凱大総統との直接交渉に臨む。そこで中国側に提示したのが、1915(大正4)年1月18日の、いわゆる対華21ヵ条要求である。「欧州列強が第一次世界大戦で身動きの取れない間に、日本が火事場泥棒のようにして中国に無理難題を突きつけた」として、後世になっても指弾されることが多く、その後の中国における反日運動の発火点になったとされる日本のアクションである。

 第1号 山東省
 第2号 南満州及び東部内蒙古(旅順、大連、満鉄等の租借期限の延長)
 第3号 漢冶萍公司(中国最大の製鉄会社)の合弁に関する事項
 第4号 中国の領土保全(沿岸部を他国に割譲しないこと)
 第5号 その他(中国政府の顧問雇用等)

 大きく分けて上記の5項目があり、それぞれに条項が幾つかあって、14ヵ条の「要求」と7ヵ条の「希望」を合わせて21ヵ条という訳だ。この内、第1号の山東省については、

 ① 山東省においてドイツが保有していた権益を日本が継承すること。
 ② 山東省内の土地、及びその沿岸の島嶼を他国に割譲、貸与しないこと。
 ③ 芝罘または龍口と膠済鉄道とを結ぶ鉄道の敷設権を日本に与えること。
 ④ 山東省内の主要都市を、外国人の居住・貿易のために自主的に開放すること。

という内容の四ヵ条になっている。

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(袁世凱との交渉を担当した外相・加藤高明)

 当時の日本は第二次大隈重信内閣の時代だった。前年(1913年)2月の「大正政変」によって成立した第一次山本権兵衛内閣が、この年の初めに突如表面化したシーメンス事件によって倒れ、棚ボタ式に大隈の所に転がり込んで来た政権だった。

 その政権発足から三ヶ月で勃発した第一次世界大戦。財政難と不景気に喘いでいた大隈内閣にとって、それは「天佑」であったに違いない。(事実、それからの日本は多大な大戦景気を享受することになった。) しかも、勝てる戦で膠州湾の租借地をドイツから奪えるならば、建前はともかく、その美味しい権益を今後もキープしておきたいというのが大隈内閣のスタンスだったのだろう。だから、21ヵ条の冒頭は、ドイツに与えた膠州湾の99年間の租借権益を日本に継承させよ、というものだった。

 「膠州湾をドイツから取り上げた後、中国に返すつもりなど最初からなかったのだ。」 そう言われてみれば、おそらくそうだったのだろう。その中国では3年前の辛亥革命(1911年)で清朝は倒れたが、生まれたばかりの中華民国の基盤は弱く、国内はひどく混乱している。そんな中、天佑で膠州湾を押さえることができた。この権益をしっかりと継承すると共に、日露戦争で将兵の多大な血を流し、ポーツマス条約でロシアから譲り受けた南満州や東部内蒙古地域での権益延長もこの際明確にしておきたい、というのが日本の立場だったのだろう。

 いずれにしても、延べ4ヶ月、計25回の交渉を経て、第5号以下を削る形で決着。その時に中国側から「要求ではなく、最後通牒の形にして欲しい。」との要請があったので、1915(大正4)年5月7日に日本からそれが発せられ、5月9日に中華民国がそれを受諾することで条約が成立している。

 ところが、締結された条約の内容を袁世凱が歪曲誇張してリークし、「とんでもない内容の最後通牒を日本から突きつけられ、条約締結を強要された。」というポーズを取ったために、日本の「対華21ヵ条要求」は中国の国内で人々の憤激を呼び、海外からも批判を集めるようになる。袁世凱には、そうした反日感情を梃にして中華民国大総統から皇帝の座に就くという魂胆があったとされるが、ともかくも袁世凱が日本の「最後通牒」を呑んだ5月9日が、この時以来中国の「国恥記念日」となった。反日運動の起点と呼ばれる所以である。

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(最後は皇帝になりたかった袁世凱)

 そして、史上初の総力戦となった欧州の世界大戦で欧州各国が手一杯で、山東省の問題どころではなかった一方で、中国への進出に一番出遅れていて「門戸開放・機会均等」を主張していた米国が、日本の対華21ヵ条要求への批判を強めたことも、日本にとっては大いに不利だった。

 上記のように、袁世凱は対華21ヵ条要求を自分の地位のために利用したようだが、一方で要求の中から最終的に削られた第5号の一部は、袁世凱との政争に敗れて日本に亡命していた孫文の「日中盟約案」と符合するものだというから、孫文は日本の力に期待を寄せていたのだろう。

 現代の視点から見れば、或る国に対して外国が租借権を要求することは、それ自体が「帝国主義的」、「侵略的」であるのかもしれない。だとすれば、自己の地位のために対華21ヵ条要求を敢えて呑んだ袁世凱も、その要求の一部と符合する内容の「日中盟約案」を考えていた孫文も、(繰り返しになるが現代の視点から見れば)中国「国民」を代表するものではなかったことになる。その時点での中国の「民意」がはっきりしていればの話だが。

 更に言えば、対華21ヵ条要求から4年後のパリ講和会議(1919年)においても、「民族自決」というコンセプトは欧州に対してのみ適用されるものだった。アジアやアフリカに数多くの植民地があった時代に、そうした地域まで含めた「民族自決」を認めるような国際社会はまだ出来ていなかったのだ。

 そもそも、中華民国が成立したばかりのあの混沌とした中国で、「国民の総意」とは一体何だったのか。もっと言えば、中国の「国民」とは誰だったのか。それを現代の国民国家の視点で論じるのは無理というものだろう。(今の中国の政治システムも、「民意」とは何かが見えないことに変わりはないのだが。)

 だから、同講和会議ではドイツの膠州湾租借地は日本に譲渡されることになり、中国の民衆はそのことへの失望と反発を強めた。しかしながら、その後の中国における反日運動の激化や、米国を中心とした日本批判の圧力の高まりを受けて、結局1922(大正11)年に、日本はやむを得ず膠州湾を中国に返還することになる(いわゆる「山東還付」)。膠済鉄道沿線の鉱山などへの一部権益が残るのみで、国際的な批判ばかりを受けるという、日本にとっては散々な結果となった。そして、時代が昭和に入ると、山東出兵(1927~28年)の形で山東省は再び日中対立の舞台になっている。

 来年の5月9日は、この対華21ヵ条要求を袁世凱が呑んだ「国恥記念日」が百周年を迎える。そのことは、現在の日中間の政治的な駆け引きの一つとして利用されることだろう。だが、特定のプロパガンダに乗せられることなく、我々は史実を冷静に踏まえていきたいものである。

 それにしても、山東省・煙台産の「麻辣花生」は美味い。美味いけれども、噛みしめるほどに、何とも辛い。

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