SSブログ

ただ一度の栄光 [スポーツ]

 
 10月20日(月)、日本プロ野球(NPB)の今年の日本シリーズの顔ぶれがようやく決まった。

 年間144試合のレギュラー・シーズンが終わった後に、日本シリーズの出場権を賭けて上位3チームが最終決戦を行うという、2007年から始まった「クライマックス・シリーズ(CS)」という名の奇妙な制度によって、日本シリーズは必ずしもリーグ優勝チーム同士の対決ではなくなった。現に今年のセ・リーグでは、覇者ジャイアンツがCSではまさかの四連敗で2位タイガースに屈し、「下克上」ともてはやされている。

 パ・リーグでも、CSのファースト・ステージではレギュラー・シーズン3位のファイターズが2位バファローズを喰ってしまい、ファイナル・ステージでリーグ優勝のホークスに挑戦。リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージの1勝を含めて3勝3敗のタイにもつれ込んだが、最終戦をホークスが征して何とかリーグ優勝チームの面目を保つことになった。

 さもなければ、今年の日本シリーズは史上初の「下克上対決」になっていた。そうなると、その日本シリーズには一体どういう意味があるのか、そもそもCSとは何のためにあるのか、世間にはそのことを問う声が高まったことだろう。だから、ホークスの日本シリーズ進出が決まって、NPBの関係者は胸をなで下ろしたのではないだろうか。リーグ優勝の価値を貶めるようなCSという制度は、やはり廃止するべきだろう。(ここでは割愛するが、米メジャー・リーグにおけるプレーオフ制度とは意味が全く異なるのだから。)
cs final 2014.jpg
(CSのフィナーレは、引退する稲葉・金子誠を両軍選手が胴上げ)

 ところで、今年の日本シリーズがもし本当に「下克上対決」になったとしたら、それは実に52年ぶりの顔合わせになっていたはずだ。昭和37年10月、阪神タイガースと東映フライヤーズの対決である。結果は4勝2敗1分でフライヤーズが制覇。リーグ優勝も日本一も、フライヤーズにとってはそれが最初で最後だった。言うまでもなく、そのフライヤーズの系譜が現在の北海道日本ハムファイターズである。

 昭和20年8月15日の終戦。焼け野が原からの復興の中で、プロ野球の復活は意外に早かった。戦前のプロ野球を運営していた日本野球連盟がその年の11月に復活を宣言し、翌21年には以下の8チームがそれぞれ年間何と105試合を戦うリーグ戦が行われたのである。

 後のパ・リーグ球団: 近畿グレートリング、阪急、セネタース、ゴールドスター
 後のセ・リーグ球団: 東京巨人、阪神、パシフィック、中部日本

 この中のセネタースは、戦前のプロ野球のチームだった東京セネタースの復活が基本だったが、個人ベースでの再興だったため直ぐに資金不足に陥る。そこに資金を出したのが東急電鉄で(戦時体制の「大東急」がまだ続いていた時代だ) 、球団名は「東急フライヤーズ」となった。英語では「高速列車」の意味を持つ、電鉄会社らしいネーミングである。

〔プロ野球チームの系譜〕
toei fliers 01.jpg

 その後、映画会社の大映が球団経営に触手を伸ばし、フライヤーズにも出資を行ったため、翌22年には球団名が「急映フライヤーズ」に変わる。しかし大映は別途ゴールドスターを傘下に入れることになった(後の大映スターズ)ためにフライヤーズからは手を引き、翌23年のシーズンは名前が再び「東急フライヤーズ」に戻った。そして、昭和25年のセ・パ2リーグ分裂の際にパ・リーグに加盟している。

 戦後間もない時代は、プロ野球というビジネスがよほど儲かると思われたのか。2リーグに分かれてスタートした昭和25年のシーズンは、パ・リーグが7球団、セ・リーグが何と8球団だった。その後、西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄ライオンズに統合され、更には大洋ホエールズと松竹ロビンズが統合することで、セ・リーグは昭和28年のシーズン開始時までに6球団に集約されたのに対して、7球団という中途半端な状態がパ・リーグでは昭和28年まで続き、翌29年には更に1球団が増えるという、セ・リーグとは逆方向の運営になった。それは、毎日新聞のオリオンズが大映スターズと高橋ユニオンズを吸収して「毎日大映オリオンズ」になる昭和33年になって、ようやく6球団に落ち着いている。

 パ・リーグが8球団に増えた昭和29年、東急電鉄は球団運営を、当時はまだ東急グループ内にあった東映に移管。映画も野球も興行という点では同じということか。ともかくも、それによって球団名はその年から「東映フライヤーズ」に変わった。それまで後楽園を他球団と共用していたのが、前年には本拠地・駒澤野球場がオープンし、東映フライヤーズは「駒沢の暴れん坊」の異名を取るようになる。駒沢は東急沿線だから、沿線住民も取り込める。ここでも東急は阪急の小林一三の経営手法に倣ったのだろうか。

 だが、昭和21年のセネタースの発足からここまで、フライヤーズはお世辞にも強いチームではなかった。年間108試合だろうが150試合だろうが、いつも概ね50勝止まりなのだ。要するに毎年負け越しで、順位は常に下から数えた方が早かった。当時は西鉄と南海が強い時代だった。

〔フライヤーズの戦績〕
toei fliers 02.jpg

 考えてみれば、セ・リーグには老舗にして名門の読売ジャイアンツと、2リーグになってから誕生した国鉄スワローズ。そしてパ・リーグには毎日新聞と大映のオリオンズ。在京球団が他に三つもある中で、万年5位のフライヤーズは、どこまでファンを集めることが出来たのだろう。

 そんなフライヤーズが、僅かながらも初めて勝越してAクラス(3位)に入ったのは昭和34年。高卒新人ながらレギュラーに定着し、13本塁打で新人王を獲得した張本勲の入団が大きかった。そして36年には水原茂が監督に就任し、南海ホークスと激しい首位争いを展開するまでになる。結果は2位だったが、この年に記録した勝利数83、勝越数31はフライヤーズ史上最多で、エースの土橋正幸は年間30勝を挙げた。

〔フライヤーズの歴史〕
toei fliers 03.jpg

 翌・昭和37年。東京五輪用の競技場建設のために駒澤野球場の取り壊しが始まり、この年からフライヤーズは本拠地を神宮に移す。皮肉なもので、駒沢を離れたこの年にチームは絶好調。新人投手・尾崎行雄の大活躍もあって、東映フライヤーズは78勝52敗3分(勝率.600)で初のリーグ優勝を遂げる。張本がシーズンMVP、尾崎が新人王をそれぞれ獲得。その勢いで阪神タイガースとの日本シリーズも、前述のように4勝2敗1分で征してしまった。甲子園球場で宙に舞う水原監督。セネタースの発足から数えて球団創設17年目の、これがフライヤーズの最初で最後の頂点だった。
nippon series 1962.jpg

 その後5年間、フライヤーズは年間で勝越を続ける。だが、Aクラスでも優勝に絡むことは余りなかった。本拠地球場を五輪の年から後楽園に移したが、エースの土橋は程なくピークを過ぎ、尾崎も酷使が祟って5年ほどしか活躍出来なかった。東京五輪の後の昭和40年代前半というと、フライヤーズは大杉勝男白仁天毒島章一といった強打者や、内野の名手・大下剛史らを擁していた割には勝てていない。そして、昭和43年からチームは再び借金生活を続けることになる。既に東映は東急グループから離れており、経営路線の対立もあったようだ。

 翌44年の暮、一部のプロ野球選手が八百長に絡んでいるという、いわゆる黒い霧事件が表面化し、45年はシーズンの初めからプロ野球界が揺れに揺れた。そしてフライヤーズでは当時のエースが7月に永久追放処分となる(他に厳重戒告1名)。この年のフライヤーズは、.383のNPB史上最高打率をマークした張本が首位打者、大杉が打点王と本塁打王のタイトルを獲得しながら、チームは54勝70敗6分の5位に終わる(最下位は、投手4人が永久追放になった西鉄)。私がおぼろげながら覚えているのは、ピークを過ぎてこのように凋落していく頃のフライヤーズだ。

 そして翌46年にフライヤーズの名物オーナーが死去すると、球団に対する東映側の経営方針が大きく転換し、昭和48年の年初に日拓ホームへの球団売却が決まる。だが、第一次石油危機の発生という経済環境の激変を受けて、「日拓ホームフライヤーズ」は一年しか続かず、球団は更に日本ハムへと売却される。その時にチーム名も「ファイターズ」に変わり、セネタースの1年も含めた「フライヤーズ」の歴史は28年で幕を閉じることになった。
Flyer Uniforms.jpg
(1年だけ存在した日拓ホームフライヤーズ。7色のユニフォームを用意したが、5位に終わった)

 平成16年に本拠地を札幌に移して以来、現在の北海道日本ハムファイターズは、地域球団そして新生球団というイメージを前面に出していて、フライヤーズ時代の歴史は敢えて引きずっていないように見える。その方が北海道の気風には合っているのだろうし、かつてのフライヤーズのファン層といっても、おそらくは母数が小さくて市場としても見込めないのだろう。その点では、かつて黄金時代を築いた南海ホークスの歴史を受け継ぎ、チーム名も変えず、南海時代のレプリカ・グッズなどを売り出して、(例えば私のような)当時のファン層を取り込んでいる福岡ソフトバンクホークスとは、同じ地域球団でも対照的である。

 昨年と今年ではAクラスとBクラスがそっくり入れ替わり、その点からはレギュラー・シーズンそのものが「下克上」だったパ・リーグは、来年もまた激戦を繰り広げることだろう。球団に地域色を取り入れ、ITの時代に親和的な数々の手を打つ様子を見ていると、セ・リーグよりもよほど将来性があるようにも見えて来る。半世紀もパ・リーグを見てきた私には隔世の感があるが、それだけに、今や話題になることもないフライヤーズ28年の歴史は紛れもなくパ・リーグの歴史の一コマであり、そしてまた日本の戦後史の一コマでもあることを、時には思い出すようにしたい。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。