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神社の下の急カーブ [歴史]


 よく晴れた土曜日の昼下がり。小田急の代々木八幡駅で電車を降りた私は、しばしホームの片隅に佇んでいた。

 新宿から乗って来た電車が出発し、右カーブで駅を離れて行く。そして、今度は反対側のホームに上りの電車がやはりカーブを切りながら入線。この駅は本当に急カーブの真ん中にあることを改めて実感する。
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 新宿と小田原を結ぶ小田急電鉄小田原線は、昭和2年4月の開業である。部分開業をせずに最初から全線を一気に、しかも完全電化路線として開業した。当初から「小田原急行鉄道」を名乗ったのは、東京のターミナル駅と観光地・小田原を短時間で結ぶというコンセプトがはっきりしていたからなのだろう。

 開業の翌々年には映画『東京行進曲』の主題歌が大ヒット。
 「♪ シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか ♪」
という歌詞で「小田急」の略称が一躍有名になったそうだが、それぐらい、昭和2年に登場した小田急の電車はモダンな存在であったのだろう。(もっとも、「いっそ・・・」という逃避行を連想させる「週末温泉特急」を小田急が走らせたのは、それから6年後の昭和10年のことなのだが。)

 その小田急小田原線は、急行鉄道の名前の通り、新宿を出てから多摩川を渡る手前までの区間は、線路が比較的真っ直ぐ引かれていて、首都圏の他の私鉄と比べてもカーブの少ない路線である。ところが、その唯一の例外が代々木八幡駅の周辺だ。新宿を出た電車が南新宿・参宮橋を過ぎてしばらく南下すると、その先で半径203mの右カーブで代々木八幡駅に至り、環状6号(山手通り)をくぐり抜けた地点で進路はほぼ90度右(=西)向きに変わっている。そして今度は左カーブで代々木上原駅に至り、その後は多摩川の手前の狛江まで殆ど一直線だ。
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 代々木八幡駅付近では、特急ロマンスカーも制限速度45㎞/時でこの急カーブを進まなければならない。こんなルートがなぜ必要だったのか。それが子供の頃から不思議だった。この付近の地図を見ると、参宮橋駅からもっと直線的に代々木上原駅に向かうとしたら、現在の代々木八幡駅の北側を通ることになり、そこにはちょうど代々木八幡神社の境内がある。それを横切るのは余りに畏れ多いからという理由で、神社の南を大きく迂回したルートにしたのだろうか。
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 市街化が進んで建物が立ち並んだ大都市では、地図を見ても地表の凹凸がよくわからないので、標高データを5mメッシュで表示した国土地理院の「デジタル標高地形図」を使ってこの付近の地形を観察してみよう。この地図は1/25,000のスケールだから、色分けによってかなり細かい地表の形状も浮かび上がって来る。
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 新宿駅から南南西の方角へ、台地の上を走る甲州街道。その南側には、川によって台地が刻まれた谷が幾つかあって、代々木八幡神社のある場所はその谷の上、つまり台地が岬のように南へ突き出したような地形になっている。小田急線のルートは、参宮橋駅付近からこの「岬」の東側の谷に沿って南方向へ下り、「岬」の突端で大きく西へ回り込んで別の谷を遡り、代々木上原駅へ向かっていることがわかる。

 この「岬」と谷はかなり顕著な凹凸で、もし小田急線のルートを直線的にするために「岬」を南西に横切るとしたら、神社には畏れ多い以前に、切通しやトンネルを幾つか築かなければならなかった筈だ。東急東横線の代官山・中目黒間、或いは京王井の頭線の神泉駅付近のようなトンネルがあったかもしれないと思うと興味深いものがあるが、当時の小田原急行鉄道の建設にあたっては、それが許されない事情があったのだろう。

 それでは、小田急線が建設される以前のこの付近は、どんな様子だったのだろうか。明治42年の測量に基づいて大正2年に作製された地形図を眺めてみると、デジタル標高地形図に谷の地形が表れていた参宮橋駅~代々木八幡駅間には、河骨川という小川が流れていたことがわかる。
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 水生植物のコウホネが数多く自生していたことから名付けられたというこの川は、台地から南に突き出た「岬」の先端でもう一つの小川と合流している。その合流地点が現在の代々木八幡駅だ。そこからは「宇田川」と名を変えて南東方向へと流れ、渋谷駅に至っている。言うまでもなく渋谷川の上流の一つで、今も残る「宇田川町」という地名はここから来ている訳だ。

 代々木八幡駅から外に出て、かつては河骨川の流域だった道路を北方向に歩いていくと、小田急線の線路沿いに「春の小川の碑」が建てられている。
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(「春の小川」の歌詞が刻まれた石碑)

 「♪ 春の小川はさらさらいくよ ♪」
という、誰もが知っているあの唱歌は大正元年の作だそうだが、作詞者の高野辰之はこの河骨川の流れから着想を得たという、そのことに因んで建てられた石碑。今ではその小川も暗渠になって姿は見えないから、そののどかな風景は想像も出来ないが、そこに昭和の時代になって鉄道が通ったのだから、「岸のスミレやレンゲの花」もさぞかし驚いたことだろう。

 その石碑の近くにある踏切から行く手を眺めると、坂道の上に代々木八幡神社の杜が見えている。デジタル標高地形図で見た「岬」にあたる箇所だ。
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 神社までは坂道をけっこう登ることになる。代々木八幡駅の標高が22m、そして神社は標高35mを少し超えている。境内のすぐ南側にはかなり深い切通しの路地があるぐらいだから、この付近に鉄道を通すとなれば、かなり大規模な土木工事になったに違いない。やはり小田急線は台地の「岬」の突端を迂回せざるを得なかったのだ。

 緑深い代々木八幡神社の境内と社殿は、よく知られた神社の割には質素だ。ご由緒によれば、その創建は1212年というから鎌倉時代の初期である。源氏将軍の二代目・頼家の側近であった男の家臣が、頼家の暗殺(1204年)の後にこの地に隠遁。主君を弔う生活を送っていたところ、ある日の夢の中に八幡神が現れたので、鶴岡八幡宮から勧請したのが始まりなのだという。
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 1199年に源頼朝が落馬によって急死。これには北条氏による暗殺説もあるそうだが、続いて二代目・頼家も追放の後に暗殺され、執権職に北条時政が就いた。頼朝死去の翌年には梶原景時が、そして頼家暗殺とほぼ同時に比企能員が謀殺されている。北条氏がライバルを次々と倒していった時代。追手から逃れる立場の人間が隠れ住むほど、代々木八幡宮の周辺は草深い土地であったのだろうか。
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 神社の境内からは、昭和25年に始まった調査で縄文時代の住居跡が見つかったという。今から5000年ほど前の時代の遺跡だというから、地球温暖化で海水面が上昇した、いわゆる「縄文海進」の後期にあたる。現在よりも暖かく、海が陸地の奥まで入り込んでいた頃、台地が南に突き出した代々木八幡のあたりは住みやすい場所だったのだろう。境内の一角には復元された当時の住居が展示されている。
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 八幡宮の参拝を終えて、目の前の山手通りをぶらぶらと降りて行けば小田急の駅だ。そしてそこから東方向へ歩いて行って自動車通りを渡ると、代々木公園の入口がある。原宿駅や明治神宮の参道に隣接した東側の入口は多くの人々が行き交うのに対して、こちらの入口は実に静かなものである。

 夏の終わり頃には例のデング熱騒ぎがあって、この代々木公園も一時は閉鎖されていたのだが、蚊の季節が終わった今は再び公開されている。そんな経緯があったからか、穏やかによく晴れた土曜日だというのに、今日の代々木公園はこの季節にしては入場者が少ないようだ。
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 高い山で見かける紅葉ほど鮮やかではないが、代々木公園の紅葉もそれなりに見頃になってきた。そういえば、神宮外苑の「いちょう祭り」もこの週末から始まる。吹く風が日を追って冷たくなるこれからが、東京はいい季節だ。
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 芝生の広場の彼方に広がる明治神宮の深い杜。先ほど見た明治42年測量の地図には、明治天皇の在位中だから当然のこととして明治神宮はまだ存在していない。かつて彦根藩主・井伊家の下屋敷だったその場所は、維新の後に皇室の御料地となり、前述の地図にも「南豊嶋御料地」の名前が見える。大正時代に入っても、そのすぐ北側では春の小川がさらさらと流れていたのだから、周辺にはのどかな田園風景が広がっていたのだろう。

 ここから目と鼻の先にある渋谷区松涛町に国木田独歩が一時的に住んだのが、明治29年。その時に記した日記をもとにした随筆『武蔵野』に描かれた野の風景は、このあたりのものなのだろうか。
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 その御料地の西側に隣接する原っぱ(現在の代々木公園)は、明治42年に帝国陸軍の練兵場になった。周辺には農地が続いていたが、練兵場から舞い上がる土埃がひどくて度々問題になったそうだ。それが戦後すぐに進駐軍に接収され、米軍将校用の家族宿舎が建てられた。いわゆるワシントン・ハイツである。接収が解除されたのは昭和36年で、それに続く東京オリンピックの選手村として、大半の施設がそのまま転用されたそうである。

 代々木公園の紅葉の中を歩きながら、私は子供の頃のことを思い出していた。父の転勤で一家が大阪から東京に越して来て、渋谷区に住むことなり、私は二年生の二学期から区立の小学校に転入した。まさに東京オリンピックが開催される直前のことである。その家はNHKの放送センターにも歩いて直ぐだったから、このあたりは放課後によく遊んだ場所だった。(そういえば、オリンピックの後になっても、地元ではまだ「ワシントン・ハイツ」という呼び方が残っていたものだった。)

 私はその小学校を卒業したのだが、中学からは電車で他地域へ通学していたし、その後も家の引越が二度あったりしたので、それからはこのあたりとも縁がなくなってしまった。そして平成の世に入り、その小学校は統廃合の対象になった。校舎はそのまま残っているが、名前は全く別物になった。

♪ 代々木の宮にほど近く わが学び舎は建てられぬ
みことかしこみ朝夕に 学びの道に勤しまん

その名もゆかし松涛の 響きも常に通うなり
松の操を身に締めて 互いに睦み励みなん

窓より遠く仰がるる 富士の高嶺を鑑とし
誠の道を本として 国の恵みに報いなん ♪

 大正時代の創立になるその小学校の校歌を、卒業して46年になろうかというのに、私は何故かまだ覚えている。今から思えば、たいそう立派な歌詞だ。当時の小学生がどこまでその意味を理解していたかはともかくとして、なんと重みのある日本語なのだろう。

 周囲に高い建物がなかったあの頃は、この原っぱで遊んでいた時にも富士山が見えていたのかもしれない。少なくとも、西の空が夕焼けで真っ赤になる時刻まで、よく遊んだものだった。草野球で特大のホームランを打った床屋の倅は、今はどうしているだろうか。

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 セピア色の思い出に包まれているうちに、原宿駅前の賑わいが目の前に近づいてきた。


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T君

八幡神社は、僕も御宮参り依頼御世話になっています
秋分の日には、祭りがあり、山の手通りを通行止めにして、神輿が集まってきていました
 作家の平岩弓枝は、ここの宮司の娘で、参道が大きく左に曲がる正面に、住居があります
 竪穴式住居跡や貝塚のも付近から見つかっています
初台に住んでいたころは(今は本町)。御宮参り、七五三は八幡神社、初詣は明治神宮でした。(今は初詣は氷川神社)
by T君 (2015-02-18 05:17) 

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