SSブログ

禁ヲ解ク (1) [宗教]


 大学四年生になった頃、イスラム教の聖典であるコーランの和訳を、少しばかり読んでみたことがあった。

 信心を起こした、ということでは決してない。知人にムスリムがいて薦められた、という訳でもない。ただシンプルに、イスラム世界というものに不思議な興味が湧いていたのだった。

 何といっても、私の高校時代にはエジプト・シリアとイスラエルの間で第四次中東戦争が勃発し、それが第一次石油危機へと発展。日本では洗剤やトイレットペーパーの買占め騒ぎに繋がった。そして大学時代にはイランでイスラム革命が起こり、それまで西側諸国の支援を受けてきたパフラヴィー国王が国外に逃亡するという大きな出来事があった。その混乱でイランの原油生産が止まり、世界は再び石油危機に直面。とにかく世界は中東地域に揺さぶられ続けていたのである。

 同時代史がそんな風だったから、それまでは全く馴染みのなかったイスラム世界について多少なりとも理解を深める必要があると、大学卒業もそろそろ近くなった当時の私は考えていたのだろう。キリスト教徒における聖書以上に、ムスリムたちにとって欠くことの出来ないコーランとは一体何なのか。和訳は世の中に出ていたから、ともかくもそれに目を通してみようと。
iranian revolution.jpg

 イスラム教の世界では、アラビア語のコーランが正真正銘の聖典であり、他の言語に翻訳されたものはコーランとは認められないのだそうだ。従って、アラビア語が理解できない限り、本当にイスラム教を理解したことにはならないのかもしれないが、少なくとも和訳を読む限りでは、コーランは思いのほか平易な書きぶりになっている。仏式のお葬式の時に坊さんが読み上げるお経が、何のことやらさっぱりわからないのとは対照的に、コーランは妙に平易な聖典である。

(なお、今ではインターネット上に、日本ムスリム協会の手によるコーランの全訳が掲載されているから、本を買わなくてもいつでも読むことが出来る。)
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html

 イスラム教というと、「豚肉を食べない」とか「酒を飲まない」というようなことを私たちはすぐに連想するのだが、それは例えばコーラン第5章の「食卓章(アル・マイーダ)」を紐解けば、何を食べてよい・いけないということが事細かに書かれている。なるほど、これが「啓示宗教」と呼ばれる所以で、神様のご指示は実に明快かつ具体的なのである。
quran.jpg

 「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい。おそらくあなたがたは成功するであろう。」
(第5章 90節)

 「悪魔の望むところは、酒と賭矢によってあなたがたの間に、敵意と憎悪を起こさせ、あなた方がアッラーを念じ礼拝を捧げるのを妨げようとすることである。それでもあなた方は慎まないのか。」
(同 91節)

 イスラム教において酒を飲むことが禁じられていることの具体的な根拠は、これらの記載にあるとされているようだ。ところがその一方で、コーランの中の別の章では、天国についてこんな風に書かれている。

 「主を畏れる者に約束されている楽園を描いてみよう。そこには腐ることのない水を湛える川、味の変わることのない乳の川、飲む者に快い(美)酒の川、純良な蜜の川がある。・・・」
(第47章15節)

 「(信仰の)先頭に立つ者は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(彼らは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向かい合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちが彼らの間を巡り、(手に手に)高杯や(輝く)水差し、汲みたての飲物杯(を捧げる)。彼らはそれで、後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は彼らの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、彼らの好みのまま。大きい輝くまなざしの美しい乙女は、ちょうど秘蔵の真珠のよう。・・・」
(第56章10~23節)

 何ともハーレムな世界が約束されているのだが、そこには美酒がいくらでも流れていて、いくらでも飲むことができ、しかも泥酔することがないという。現世では酒はご法度だが、天国では飲み放題という訳で、ムスリムたちも本音は酒を好きなだけ飲みたいということなのだろうか。
adhan.jpg

 ではキリスト教ではどうかというと、それについては更に浅学なので、私には正確なことは何一つ書けない。或るクリスチャンに話を聞くと、
 「キリスト教では飲酒そのものを禁じている訳ではないが、酔ったり依存したりすることは禁じられている。本人次第だが、自分をコントロールするのは難しいから、飲まないのが賢明。」
という答えが帰って来た。

 なるほど、そういえばイエス・キリストは水を葡萄酒に変えたり、有名な「最後の晩餐」では杯を取って、「これは私の血である。」と言って弟子たちに与えたりしている。教会や修道院でワインを寝かせているシーンは映画の中にも出て来るし、中部イタリアには、中世にヴァチカンへの旅をしていたゲルマン人司教が、その土地のワインの素晴らしさに感銘を受け、宿屋の看板に”Est! Est!! Est!!! (これ! これ!! これ!!!)”と思わず書きつけたのがそのまま銘柄の名前になった、という白ワインが今でもあるぐらいだ。

 日本とは違って水の悪いヨーロッパでは、飲み水の代わりにワインなどを飲む習慣が遥かな昔からあったのだから、キリスト教が酒の存在そのものを否定してきたとも考えにくい。飲むのは構わないが、酔って自己を失ったりアルコール依存症になったりするかどうかは、あくまでも自己責任ということなのだろう。
bread and wine.jpg

 なぜこんなことを書き連ねているのかというと、自分の体の事情でこの一ヶ月ほど酒を全く飲んでいなかった、それが3日後には解禁になるからである。

 十二指腸に出来た腫瘍を内視鏡で切除する手術を10月末に受け、12日間入院。手術の前日から刺激物とアルコール類は摂取しないよう、医師から指示が出ていた。そしてその手術は無事に終わり、その後の経過も順調だったことから、先月の19日に受けた外来診療で、執刀医からあと二週間でアルコールも解禁とのご沙汰が出た。手術からちょうど5週間、連続35日間の禁酒というのは、社会に出てからは勿論のこと、自分の大学時代にもなかったのではないだろうか。

 入院の直前までは、この禁酒期間はさぞかし憂鬱なのだろうと思っていたのだが、実際に始まってみると、意外に淡々と日々が過ぎていった。医者から禁じられているのだから、と思えばあっさりと割り切れる。ノン・アルコール・ビールの助けを借りてはいたが、どうしてもアルコール入りの本物のビールを飲みたいという衝動にかられることもなく、寝つきが悪いなどということも全くないのは、自分でも不思議なぐらいだ。むしろ、酒のない生活というのは、これはこれで快適でさえある。

 そして更に不思議なのは、酒の解禁日が近づくにつれて逆に自分が不安にかられていくことだった。故あって酒のない生活をしばらく続けてきた自分は、自由の身になって箍(たが)が外れたらどんな風になってしまうのだろう。コーランがムスリムたちに飲酒を戒めていることには、やはり深い意味があるのではないのか、と。

 ただ単純に、手術の前の自分に戻るだけでいいのか?そのことを自らに問いかけ始めた自分が、ここにいる。
(To be continued)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。