SSブログ

北に眠る大砲 [読書]


 私の高校時代の同級生H君は、当時から一風変わった面白い男だった。

 頭脳明晰だったのは言うまでもないが、いつもマイペースで飄々としていて、しかも今でいう「オタク」のような側面があった。それは、歴史に関することだ。修学旅行で京都の寺社の数々を巡った時に、そのオタクぶりは如何なく発揮され、彼の持つ豊富な知識に周囲はみな呆気に取られたものだった。

 彼がそのまま歴史学者への道を進んだことには、誰にとっても不思議はないだろう。それも、東大の史料編纂所で維新前後の史料の研究を専門にしているそうだから、歴史に残された本物の史料と日々向き合っている筈である。

 その彼が所属する史料編纂所の研究者たちによって、一冊の新書本が上梓された。『日本史の森をゆく』(中公新書)がそれで、「正倉院のお宝から戊辰戦争の流行歌まで」「史料編纂所に所属する『史料読みのプロ』42名が、それぞれの専門分野から選りすぐりの逸話を集めて綴ったアンソロジー」という触れ込みだ。もちろん、H君が執筆した一節も載っている。書店でそれを見つけた私は早速買い求め、週末の間に読み耽ることにした。
chukoshinsho-2299.jpg

 H君の専門は先述の通り幕末維新期なのだが、特にその時期の外国との関係を掘り下げている。そうなると、研究対象は軍隊や戦争との係わりが必然的に多くなる。彼が今回の『日本史の森をゆく』の中で披露しているのは、19世紀の初めに起きたロシアとの紛争にまつわることだ。

 時代は少しだけ遡って18世紀の末。北米のアラスカがまだロシア領だった頃のことだ。そのアラスカで捕れるラッコやオットセイの毛皮を中国に売り込むために、当時のロシアは日本との国交や通商を望んでいた。それはまた、ロシアがシベリア・極東開発を進めていた時期でもあり、入植者の食糧補給のために日本との交易を望むという側面もあったようだ。

 そのための使節として1792(寛政4)年にエカテリーナⅡ世号で根室に来航したのが、アダム・ラクスマン中尉だ。日本人の漂流民でロシアに保護ざれていた大黒屋光太夫を通訳に連れていた。漂流民の返還を手土産に国交・通商を迫るという作戦だった。
Adam_Kirillovich_Laksman.jpg
(アダム・ラクスマン)

 それに対して、老中・松平定信率いる幕閣は、国交に関する窓口は長崎だからと、ラクスマンに長崎への入港許可証を渡して立ち退かせた。国交開始を何らコミットした訳ではないのだが、幕府が真意を曖昧にしたままそうやって問題を先送りしたことは、その12年後になって高くつくことになる。

 1804(文化元)年、その入港許可証を持ったロシア使節のニコライ・レザノフが長崎に来航。ところが長崎奉行所は半年ほども回答を引き延ばした挙句、ロシア皇帝(当時はアレクサンドルⅠ世)の国書も進物も受け取らず、長崎からの退去を求めた。このロシアへの対処方針を巡っては幕閣の中でも大きな議論になったようだが、老中・土井利厚が強硬論でこれを押し切ったという。

 「『立腹いたさせ候方、然るべき哉、腹立(はらだち)候はばもはや参る間敷(まじく)』とは要するに、『怒らせろ、腹を立てればもう二度とやって来ることはあるまい』ということなのである。」
(『逆説の日本史 17 江戸成熟編』 井沢元彦 著、小学館)

 これに憤慨したレザノフは、日本を開国させるには力ずくでやるしかないと思うに至り、報復攻撃を計画することになった。1806(文化3)年、レザノフの部下ニコライ・フヴォストフ大尉が樺太の松前藩居留地を攻撃し、続いて択捉島に駐留中の幕府軍を攻撃(この時に駐留していた幕府の役人の一人が間宮林蔵だった)。更にその翌年には利尻島で幕府の船舶・万春丸が激しい攻撃を受け、幕府方は船を放棄して逃げたために、積んでいた大砲を奪われてしまったという。
Rezanov_and_his_ship.jpg
(レザノフとロシア船)

 「(幕府が)むやみに居丈高な対応をとったことがかかる衝突を招いたともいえる。」
(『日本史の森をゆく』 東京大学史料編纂所編、中公新書)

 学校の日本史の教科書にはラクスマンやレザノフの名前こそ登場するが、当時「蝦夷地」と呼ばれた地域で上記のような軍事行動をロシアが起こしたことは、「その間、ロシア船は択捉・国後島に上陸して掠奪した」ぐらいにしか書いてない。だから、当時の年号をとって「文化露寇」と呼ばれるこの事件は、一般には知られていないといっていいだろう。私も本を読んでこの事件を初めて認識したのはつい数年前のことである。

 「レザノフの攻撃命令はロシア皇帝の許可を得ていなかったが、彼らの分捕り品の多くはロシア政府の手に渡った。旧都サンクトペテルブルクの人類学民族博物館(クンストカーメラ)には、南部兵の甲冑や刀、鎗、鉄砲のほか、日用品などが現在も多く収蔵されている。そして、この紛争で接収された大砲三門もロシア国立軍事史博物館で『発見』された。」
(引用前掲書)

 実は、H君は2010年に史料編纂所の調査でサンクトペテルブルクのこれらの博物館を訪れ、前述の万春丸から分捕られた大砲を実際に確認した当の本人なのである。当時フランキ砲と呼ばれていた青銅製の古い大砲二門が保管されていたのだが、H君はその内の一門を観察していて、更に驚くべきことを発見した。その大砲の持ち主を特定できる証拠があったのだ。それは16世紀後半の日本で活躍した或る人物だった・・・。

 そこから先はネタバレになるから、本を読んでのお楽しみとしておこう。いずれにしても、戦国時代に製造され、江戸時代に幕府が大坂城で長年保管していた骨董品の大砲が、19世紀初頭に蝦夷地でロシアに分捕られ、そしてその後200年近くもロシア旧都の博物館に置かれていたというのだから、これは大いなる歴史のロマンと言う他はない。

 本を読み終えた私は、その旨のメールをH君に送った。面白かったので、高校時代のクラスの皆にもそれを伝えたいということも。

 「新書の件、恐れ入ります。自分たちのやっていることを面白く紹介してみようよ、ということであんな本になったのですが、世間では『地味~』という評価のようですね(笑)」。

 程なく返って来たレスポンスは、相変わらず飄々としている。高校卒業から今年でちょうど40年。あの頃のスタイルをちっとも変えていないH君の様子が、何とも羨ましかった。

 ロシアに分捕られた大砲の話に限らず、興味深いエピソードが他にも多々紹介されているので、オタクに近い歴史好きの人には、本書はお薦めである。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。