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変奏曲 [音楽]


 西日本を縦断した台風11号が日本海へと抜けた7月18日(土)、太平洋高気圧が東の海上から日本列島に向けて大きく張り出してきた。東京では朝から強烈な日差しが照りつけ、気温がぐんぐんと上がる。早朝のジョギングで既に一汗かいていた私は体中の汗腺が開きっぱなしになって、少しの間外を歩くだけでも汗まみれになってしまう。今回の台風一過が梅雨明けの一つの判断時期になると言われていたが、この三連休の間にはどうやらそういうことになりそうだ。(→事実、翌19日(日)に関東甲信地方の梅雨明けが気象庁から発表されることになった。)
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 都心のターミナル駅に出た私は、買い物のついでに割と最近開店したCDショップに立ち寄り、しばらくぶりに音楽CDの新譜の数々を眺めているうちに、或る一枚に目が止まり、試聴も出来るようになっていたので、その上で買い求めることにした。それは、フランスの有名なマリンバ奏者、ジャン・ジェフロイと、リヨンで活動する打楽器のアンサンブル、タクトゥス(メンバーはジャン・ジェフロイの教え子たちであるそうだ)によるもので、J.S.バッハ『ゴルトベルク変奏曲』を5台のマリンバと1台のヴィヴラフォンで演奏するという、なかなかユニークな試みである。
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 『ゴルトベルク変奏曲』は1742年、すなわちバッハが57歳になる年の作品で、本来の名前は『クラヴィーア練習曲集 第4部』である。要するに鍵盤が二段あるチェンバロ用の練習曲で、冒頭にゆったりとしたアリアが置かれ、そのアリアの低音部をテーマにした30曲のヴァリエーションがそれに続いている。それが『ゴルトベルク変奏曲』と呼ばれるのは、ドレスデンの廷臣カイザーリンク伯爵のお抱えクラヴィーア奏者だったヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727以前~1756)に因んだエピソードがあるからだ。

 カイザーリンク伯爵はバッハが「ザクセン選定候宮廷楽長」という肩書きを得る時にお世話になった人物で、彼が召し抱えたゴルトベルクはバッハの弟子であったそうだ。このカイザーリンク伯爵は不眠症に悩んでおり、ゴルトベルクが弾くチェンバロで眠れるような楽曲をバッハに依頼したことでこの作品が生まれた、というのが『ゴルトベルク変奏曲』の由来なのだそうが、当時のゴルトベルク(15歳前後)向けとしては変奏曲の難度が高いことから、このエピソードの信憑性は疑わしいとされている。(確かに、聴いてみるとヴァリエーションの中には高度な演奏技術を要するパートが幾つもあり、思わず聴き込んでしまうような箇所もあるので、睡眠へと誘導されるのは難しそうである。)

 今回買い求めたCDでは、このゴルトベルク変奏曲をジャン・ジェフロイが前述のように5台のマリンバと1台のヴィヴラフォンで演奏されるように編曲。温もりのあるマリンバの音によって輪郭の実に柔らかな、それでいてヴィヴラフォンの金属音によって一本筋の通った、ユニークなゴルトベルグ変奏曲に仕上がっている。そして、5台のマリンバがそれぞれのパートを受け持つことにより、一台の鍵盤楽器で弾いた時よりも多声楽曲的な膨らみがぐんと増しているのも、大変に魅力のあるところだ。マリンバとヴィヴラフォンの音感からしても、夏向きの涼しげな演奏と言えようか。
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 このゴルトベルク変奏曲が世に出る19年前の1723年5月、38歳のバッハは一家と共にライプツィヒに移り住むことになった。それ以前の5年間をケーテンという小さな街で、レオポルド公の宮廷楽長として過ごしてきた彼の名声は既に国内にとどろいていたが、今度の肩書きは国際都市ライプツィヒ、聖トーマス教会での教会音楽の指導者(トーマスカントル)である。同教会の合唱団や礼拝の音楽全般を取り仕切る他、他の教会も含めたライプツィヒ市全体の音楽監督も行う重職なのだ。

 「バッハが先祖から受け継ぎ、作曲と演奏の根となったルター正統主義に対し、すでにヴァイマールでは啓蒙主義が押し寄せ、カルヴァン主義のケーテンでは、教会音楽そのものが必要とされていませんでした。カルヴァン派のケーテンで、音楽による『神との対話』から離れていたバッハは、『キリスト』を音とする作業に飢えていたのかもしれません。」
 (『バッハの秘密』 淡野弓子 著、平凡社新書)

 ライプツィヒに移り住んだ1723年から4年間、つまり41歳になるまでの間、バッハは毎年実に多くの教会カンタータを創作している。多忙な毎日の中でよくもこれだけの作曲が出来たものだと、そのパワフルな仕事ぶりには驚嘆をせざるを得ないが、トーマスカントルとしての報酬は思っていたよりもずっと少なく、収入を得るために出来高払いの作曲をせざるを得なかった面もあるようだ。ともあれ、この4年間は年齢的に見ても最も脂の乗った、才力も馬力も存分に発揮できる時期だったのではないだろうか。
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 そんな彼に一つの転機がやって来たのは1729年、44歳の年である。その当時、現在のドイツの各地には市民や学生による音楽愛好団体「コレギウム・ムジクム」が設立され、音楽文化の普及に大きく貢献していたのだが、中でも1701年にあのゲオルク・フィリップ・テレマンが創設したというライプツィヒのコレギウム・ムジクムが有名だった。「カタリーナ通りのツィンマーマンのコーヒー・ハウス」で行われていたそのコレギウム・ムジクムの活動について、この年からバッハが指揮を引き受けたのである。
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(Georg Philipp Telemann 1681~1767)

 「一定の入場料と引き換えに、誰もが音楽を聴くことの出来る『公開コンサート』は、今では当たり前となっているが、バッハの時代にはこのような形態はまだ珍しいものだった。教会音楽の例を見るように、当時の音楽は礼拝や祝典など、何かの『機会』に際して注目されるいわば付随物のようなもので、音楽それ自体を聴くことを目的としたコンサートのような場は、めったになかったのだ。
 (中略)
 これまで同様、新しい場はバッハの意欲をかきたてた。生活のため、また教会学校生との義務として、いやいやながら聖歌隊に加わっている少年たちを率いなければならない礼拝の場にくらべ、音楽が好きで、自らすすんで集まってくる学生たちとの合奏のひとときはどれほど快適だったことだろう。」
 (『バッハへの旅』 加藤浩子 著、東京書籍)

 教会の聖歌隊というと、今の目で見るととてもきちんとしているような印象があるが、バッハがライプツィヒのトーマスカントルに就任した当時の教会学校は劣悪な環境にあり、伝染病の巣のような状態だったようで、バッハ自身も何人もの実子を赤ん坊のうちにここで亡くしている。加えて、教会の音楽活動に対する市当局者の無理解、バッハの持つ権限の縮小、新入生の合否に関する不透明な扱いなど、様々な憤懣がバッハにはあったようだ。

 1730年、45歳の年には、「整った教会音楽のための簡潔な、しかし緊急なる覚書、ならびに教会音楽の衰退に関する若干の公平なる考察」という文書をバッハは市の参事会に提出。彼としては真っ当な意見具申をしたつもりだったが、市側はバッハに批判的で、この文書が却って対立を深めてしまう。(何につけても頑固一徹なバッハの側にも問題がなかった訳ではないようだが。)

 そうした問題を抱えつつも、バッハはトーマスカントルとして教会音楽を取り仕切る一方、コーヒー・ハウスではコレギウム・ムジクムの公開コンサートを指揮。更には、金属工業が盛んであったこの街の特徴を活かして新たなビジネスをも展開していた。それは、銅版による楽譜の出版である。(順番が後先になるが、例の『ゴルトベルク変奏曲』も、『クラヴィーア練習曲集 第4部』として1742年に楽譜が出版されたものだ。)
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(バッハの時代に出版された『クラヴィーア練習曲集 第4部』の初版)

 「様々な顔を持つ国際都市ライプツィヒを舞台に、バッハは多彩な活動を謳歌していた。
 だが時は流れる。そして知らないうちに、何かを変えていく。いつの時代も、どんな人間も、その無情から逃れることはできない。それは不意にあらわれ、行く手に立ちふさがるのだ。海面の下にひそんでいた氷山が、突然目の前に現れ出るように。
 そしてバッハのもとにも、『時』の使者がやってきた。いつものように、不意に。」
(引用前掲書)

 それは1737年、バッハが52歳の年のことである。雑誌『批判的音楽』の中で、ハンブルグの音楽ジャーナリスト、ヨハン・アドルフ・シャイベという男が、名指しこそしないものの、明らかにバッハとわかる人物への批判を展開した。シャイベは、演奏家としてのバッハの腕前を称えながらも、「過度な技巧を凝らして音楽の美しさを曇らせ」、「彼の音楽は極度に演奏が困難である」と述べたのだった。実はシャイベには、1729年にライプツィヒの聖トーマス教会のオルガニストを目指したが結果は不採用だった、という経緯があったという。採用の可否を判断したのはもちろんバッハだったから、シャイベはそのことを根に持っていたという見方もあるようだ。

 とはいえ、ヨーロッパの中世以来の多声音楽的な伝統を受け継いできたバロック音楽に対して、時代はこれからやって来る古典主義時代の、中心となるパートが他のパートよりも明確に前面に出た、わかりやすい音楽が求められ出していたことも確かだった。このシャイベの批判に対して、バッハは人を介して反論を試みたが、うまくはいかなかったようだ。

 「言葉にしたわけではない。音楽から身を引いたわけでもない。
 だがバッハは何かを感じた。以後、バッハの『音楽』は、次第に内面へ、心の奥底へと、深く沈み込んでゆく。そして、バッハその人の生活も。」
 (引用前掲書)
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 『ゴルトベルク変奏曲』は、バッハの人生がこのような時期に入ってからの作品である。本当にカイザーリンク伯爵の不眠症対策になったかどうかはともかく、そうしたエピソードが語られる背景には、自分の内面に向かったような穏やかな曲想から来る連想があるのではないだろうか。そして、この時点でバッハの生涯はあと8年しか残されていなかった。

 私は今、還暦の本当に一歩手前である。社会人としての自分の人生を振り返ってみても、50歳代というのは一つの転機だったように思う。総じて、いいことのない年恰好だ。セカンド・キャリアに入り、ビジネスマンとしての自分の能力に頭打ち感があるのは否めない。それまでの経験に基づいた判断や行動は出来ても、何かをゼロから産み出すことはなかなか難しく、体力・気力の面でも明らかに峠を越えている。

 だからこそ、多くの優れた作品を世の中に送り出し、高い名声と共にあったバッハが52歳の年に受けた批判を、彼自身はどんな気持ちで受け止めたのか、私には想像するに余りあるところだ。それは自分がこの歳になって初めて気付くことである。

 私はこの歳になってしまったから、ゴルトベルク変奏曲にも、ついそうした「人生のほろ苦さ」を投影してしまうのだが、ジャン・ジェフロイの新譜を聴く時には、そうした思い入れは不要だろう。5台のマリンバと1台のヴィヴラフォンによるゴルトベルク変奏曲の新たな解釈を、予見なしに楽しめばいいのだと思う。

 さて、梅雨が明けた。暑い夏を、この歳なりに元気に乗り切りたいものである。

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