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城南の横糸 [鉄道]


 池袋でメトロの副都心線に乗ると、それが急行運転なら東急東横線の自由が丘までは22分ほどである。

 メトロと私鉄の相互乗り入れというのは、列車の遅延が他線にも影響してしまう面はあるものの、順調に運行されている分には便利なものだ。ホームが地下に移る前の、地上で行き止まり式だった昔の東横線の渋谷駅も味があったので懐かしいが、あの時代に戻るのはもう無理というものだろう。

 自由が丘で電車を降り、高架のホームから地上の高さの大井町線のホームを一瞬通って南出口へ。駅前の賑わいを通り過ぎて、家内と私は大井町線の線路にほぼ沿うように西方向へと歩く。住宅街の彼方には一列に並ぶ立派な木立が頭の先だけを見せている。あそこが私たちの目指すお寺なのだろう。

 10月最初の日曜日の昼下がり。お彼岸を過ぎたというのに、まだ夏かと思うような日差しが照りつけて外は暑い。今日の散歩は本当は短パンでもよかったと思うような陽気だ。

 程なく私たちは寺の参道の入口に到着。それは東急大井町線の九品仏(くほんぶつ)駅からほんの50mほどの場所だ。住宅街の真ん中ながら実に堂々とした参道で、背の高い松の木が奥に向かって並んでいる。九品山浄真寺。ここに安置されている九体の阿弥陀如来像が「九品仏」の名の由来となった浄土宗の寺である。
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 室町時代の末期、ここは奥州吉良氏が支配する土地で、世田谷城の出城としてこの場所には奥沢城があったという。奥州吉良氏は元々足利の一門で、鎌倉公方がいた時代にはそれに従っていたが、戦国の世には新興勢力の北条氏に接近。そして秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、今度は家康に従っている。

 奥沢城は徳川の世に廃城となり、その跡地を地元の名主が寺地として貰い受けたという。開山は珂碩(かせき、1617~1694)。武蔵国の出身で越後の村上の寺に務めていたが、請われてこの地にやって来たそうである。
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 参道を進んで浄真寺の境内へと入っていくと、これが驚くほど広く、緑が深い。立派な仁王門、足元に続く石仏の数々など、それぞれに味があって、東京23区の中にいることを忘れてしまいそうだ。今はまだ藪蚊が多くて、家内も私も案外刺されまくってしまったのだが、カエデの木も多いので来月の下旬頃にまた散歩をするといいかもしれない。本堂の手前には天然記念物のイチョウの木があった。
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 本堂には大きな釈迦如来像があり、本堂の中に入って間近に見上げることもできる。それと向かい合うように、本堂の反対側には三つの阿弥陀堂があり、それぞれに三体の阿弥陀像が安置されている。窓ガラス越しに暗がりの中の阿弥陀様の様子をうかがっていると、ここでも次々に蚊が寄ってくる。私たちは早々に退散して、街中の散歩を続けることにした。
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 現在の東急大井町線がこのあたりを走るようになったのは、調べてみると昭和4年のことである。当時の目黒蒲田電鉄が大井町と玉川(現在の二子玉川)を結ぶ鉄道を建設。名前は最初から大井町線だった。このうち大井町・大岡山間は昭和2年に開業し、残る西半分がその2年後に完成したのだった。

 昭和の初年というと、確かに東京の山の手は私鉄の建設ラッシュだった。元々山手線の西側の都市化が進みつつあったところへ、大正12年の関東大震災によって下町地区が甚大な被害を受け、多くの人々が山の手に移り住んだことが、運輸業界には大きなビジネスチャンスとなったのだ。
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 目黒蒲田電鉄・目蒲線は、震災の半年前に目黒・丸子(現・沼部)間が、残る蒲田までの区間も震災の2ヶ月後にそれぞれ開業していた。建設ラッシュが始まったのはそれからだ。大正15年に神奈川(昭和25年廃止)から丸子多摩川(現・多摩川)まで出来ていた東京横浜電鉄・東横線が、昭和2年に全通。震災前に蒲田・御嶽山前間を開業していた池上電気鉄道が昭和3年に五反田まで延伸。そして、これらの3線を横断するようにして、この目黒蒲田電鉄・大井町線が昭和4年に全通している。

 終点の玉川には渋谷まで行く路面電車の玉川電気鉄道・玉川線(いわゆる玉電)が明治40年に出来ていたから、それを含めれば大井町線は城南地区の4本の縦糸をつなぐ横糸ということになる。その縦糸は全て異なる電鉄会社だったのに、結果的には横糸も含めた全てが昭和14年までに目黒蒲田電鉄に買収された。同社はその上で社名を東京横浜電鉄に変更。そしてその3年後には戦時統制下で小田急、京急を吸収して社名を更に東京急行電鉄へと変え、いわゆる「大東急」時代を迎えることになる。

 ところで、鉄道が通る前の時代にこのあたりはどんな様子だったのか。例えば大正8年の地図を見てみると、後に自由が丘駅が設けられた場所は田圃の真ん中だ。丘という名前はむしろその南北にある丘陵地帯に与えられるべきなのかもしれない。水田地帯の中にあって浄真寺の境内が僅かに小高い土地であることもわかる。そして、後世に環状8号線となる細々とした道が浄真寺と多摩川の間にあることも興味深い。
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 そして昭和4年測量の地図を見ると、まさにこの年に全通したばかりの目黒蒲田電鉄・大井町線が描かれている。自由が丘の一つ南の丘陵には田園調布駅があり、駅の西側には半円形の道路が同心円状に作られた、あの特徴的な街の形が早くも地図上に表れている。
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 田園調布というと、東横線の建設と並行した宅地開発のようなイメージを持ってしまうが、実はそれよりも早い大正12年に分譲が始まった街だ。理想的な住宅地「田園都市」の開発を目指して渋沢栄一が大正7年に立ち上げた田園都市株式会社の手によるものなのだが、この会社は同時に鉄道事業も手掛けていた。それが目黒蒲田電鉄で、この田園調布を経由して目黒と蒲田を結ぶ目蒲線が、田園調布の分譲開始と同じ大正12年に開業している。(因みに、この電鉄会社の設立以来、専務取締役として腕をふるったのが、後の東急の総帥・五島慶太だった。)

 要するに田園調布は東横線ではなくて目蒲線と共に始まった街なのだ。そして、横浜方面から北へ伸びていた東京横浜電鉄・東横線の線路が多摩川を越えて、田園調布の一つ南の丸子多摩川駅で目蒲線に接続したのが大正15年。以後、東横線の電車は田園調布から目蒲線に乗り入れて目黒まで走っていたそうである。

 浄真寺の境内を後にした私たちは、再び大井町線の線路の南側に出て、住宅地の中を西へ。そこから1km少々を歩けば等々力駅に出る。駅のすぐ南にある高級スーパーを過ぎれば、その右奥にあるのが等々力渓谷の入口だ。階段を下りると谷底に出て、そこから下流に向けて1kmほどが遊歩道になっている。
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 東京23区で唯一の天然の渓谷は、多摩川の支流・谷沢川の渓流で、谷の深さは最大で30mほどもある。10月に入ったというのに、今日は思い出したように夏日の陽気となったが、等々力渓谷の中に入ると、鬱蒼とした緑の中で、さすがに空気もひんやりとしている。
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程なく環状8号線の橋をくぐり、左岸の壁から湧水が流れ落ちる不動の滝まで歩いた私たちは、そこから右岸に設けられた階段を上り、日本庭園の上の緑地で一休み。等々力の駅前で買って来たコーヒーをゆっくりと楽しむことにした。

 そこから更に西方向に5分ほど歩くと、野毛大塚古墳に出る。こんもりとした盛り土は「帆立貝形古墳」というのだそうで、静かな住宅地の中にこれが忽然と現れるのが何とも不思議である。出土した副葬品などから5世紀の初め頃の古墳と推定されるそうだが、当時のこの場所にこのような古墳を作らせることの出来た権力者とは、一体どんな人物だったのだろう。
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 家内と二人でのんびりと歩いた、自由が丘から等々力渓谷までの散歩コース。時計は午後四時を回り、太陽の光にも少しずつ赤味が加わっている。そろそろ等々力の駅に戻ろう。

 私が渋谷区の区立の小学校に通っていた頃、この電車は田園都市線と呼ばれていた。オリジナル・ネームの大井町線が田園都市線に改称されたのは東京五輪の前年で、当時は大井町から二子玉川を経て溝の口まで行く電車だった。戦前に田園調布の開発から始まった「田園都市構想」は、オリンピックの頃には多摩川の南へと進んでいたということなのだろうか。

 更に昭和41年、この路線が長津田まで延伸。その翌年に開通した「こどもの国線」に乗って小学校の遠足に行った記憶が残っているが、あの頃の長津田駅というと周りにはまだ何もなくて、子供心にも寂しい駅だった。けれども、渋谷・二子玉川間の、昔の玉電ルートが地下を走る「新玉川線」として昭和52年に開業。その2年後には二子玉川以西からの田園都市線の電車が渋谷へ直結するようになり、そのルートが新たな田園都市線となった。それに伴い、大井町・二子玉川間は再び「大井町線」に。要するに、目黒蒲田電鉄によって昭和4年に全線開業した時と同じ運行形態に戻ったことになる。

 等々力の駅は、道路から駅舎に向かうのに上り線にも下り線にも構内踏切がある、都内でも珍しい構造だ。その小さな踏切からホームを眺めると、どこか昔の面影が残っている。5両編成で一杯になる短いホームが、何だか妙に懐かしい。
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 昭和の初年の開業以降、沿線の開発と共に姿を変えてきた大井町線。それでも、城南地区の四本の縦糸を結ぶ横糸というコンセプトは今も生きている。大井町線の電車に張りつけられたシンボルマークを見て、改めてそう思った。

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