D列車で行こう [鉄道]
定刻の12時33分に新潟駅を出た特急「いなほ5号」は、3月の曇り空の下を東に向かって走り続けていた。
7両編成の後ろ3両が自由席車なのだが、乗客の数は座席の半分にちょっと欠けるぐらいだろうか。それが、羽越本線に合流する新発田(しばた)に着くと早くも降りる人が結構あって、車内はだいぶ寂しくなった。新潟を出てしばらくは沿線の道路に雪もなかったのだが、新発田から先は道に積雪が残り、田畑は一面の白のままである。
生き物が呼吸をするように、曇り空にも息がある。雲が空一面をずっと覆っている訳ではなく、時おり雲間に青空がのぞき、日が射すこともあるのだが、その太陽はまたすぐに隠れてしまい、そのうちに雪が舞い始めたりする。日本海側の冬はいつもそんな風なのだ。私が社会人になって最初の任地となった北陸の富山もそうだった。窓の外を見ていて、久しぶりにそのことを思い出していた。
私が学生の頃は、「いなほ」というと、上越線経由で上野と秋田を結ぶ特急だった。当時は新津回りだったのだが、’83年に上越新幹線が開業すると、「いなほ」は新潟発の白新線経由で秋田・青森へと向かう特急になった。それが、秋田新幹線が走っている今では秋田以北へは行かなくなった。
使われている車両も、羽越本線の電化前の80系気動車や、電化後の485系電車など、先頭車がボンネット型の「いなほ」が私には懐かしいのだが、今は常磐線の特急「ひたち」に使われていたE653系電車がここに転用されている。
13時19分、村上駅に到着。私はここでホームに降り、「いなほ」の出発を見届ける。
その時、同じホームの向かい側では、二両連結の気動車がディーゼル・エンジンの重々しい唸り声を響かせていた。国鉄時代に製造されたキハ40だ。塗装は新しくなってしまったが、この鈍重な車体は昭和の匂いを濃厚に残していて、妙に嬉しい。
列車番号827D、村上発・酒田行きの普通列車。私はこれに乗ろうとしている。末尾のDは言うまでもなくディーゼル車のことである。
私はこの後、山形県の鶴岡で仕事上のアポがあって、午前中に東京を出て来た。先ほどの「いなほ」にそのまま乗っていても鶴岡にはもちろん行けるのだが、それだと先方指定の時刻には2時間ほども早く着いてしまう。それが、827Dに乗ればちょうどいい時間に鶴岡に着くのだ。ならば、この「D列車」を利用しない手はない。しかも、村上と鶴岡の間は左手に日本海が迫る独特の風景が楽しめる。出張とはいいながらも、こんな機会に巡り会えたとは何と幸運なことだろう。それに、手前味噌ながら「各駅停車」と名付けたブログにも相応しい旅でもある。
それにしても、羽越本線は昭和47年に全線電化が完了しているのに、この酒田行きはなぜ気動車なのか。その答は、この駅を挟み南北で異なる電化方式が取られたことにある。
村上以南は1500Vの直流だが、以北は2万Vで50kHzの交流。駅の秋田方にはその切換点(デッド・セクション)が設けられている。
(矢印の部分に「交直切換区間」の表示が)
この二つの区間を跨いで走るには交直両用の電車が必要なのだが、気動車であれば電気とは無関係だ。交直両用の電車は高価であることや実際の旅客数の少なさを勘案すると、電化路線とはいえ普通列車は既にある気動車で対応するというのが現実的な方法なのだろう。
「D列車」の車内は海側が一列、山側が二列の座席配置で、乗客は本当にチラホラだ。私はもちろん海側の席に陣取った。
13時35分、一段と大きな唸り声を上げて、キハは出発。村上の町並みが遠ざかると直ぐに山が近づき、それをトンネルで越えると左手にさっそく日本海がひろがった。村上で顔を出した青空がまだ続いていて、この時期の日本海にしては明るい眺めである。
福島から板谷峠を越え、東北地方の内陸部を北上して秋田から青森に至る奥羽本線が明治の30年代に全通していたのに対して、東北地方の日本海側を縦断する羽越本線が建設されたのは大正期に入ってからのことだ。それも、この路線が通る秋田・山形・新潟の三県でそれぞれ工事が進められたのだった。
(羽越本線建設の歴史)
そして、羽越本線の建設工事で最後に残った区間が、山が海に迫る村上・鼠ヶ関(ねずがせき)間と、軟弱な地盤のためにトンネル工事が難航した秋田県内の羽後岩谷・羽後亀田間だった。それらが漸く完成したのは大正13年のことである。
海沿いを走る道路に並行して、ニ両のキハは一駅ずつ鉄路を辿っていく。桑川駅のあたりからの海岸線は奇岩が次々に立ち並ぶ「笹川流れ」と呼ばれる景勝地だ。後になってからの線路改良工事で、以前のルートよりも山側に線路が付け替えられた区間もあるそうだが、それでもなお、波が本当に荒い時は線路が波を被ってしまうのではないか、と思われるほどだ。羽越本線の建設で最後まで残された区間だったのも道理である。
(今はもう使われていない?手動の転轍機)
桑川の次の今川という駅では4分停車。この間に貨物列車が上りのホームを通過していく。この駅も、直ぐ先が海だ。
海岸線を忠実に辿りながら、鉄路は続く。村上を出た頃に広がっていた青空は早くもどこかへ行ってしまい、今はもう、どんよりとした雲が空を覆っている。でも、この方が冬の日本海らしいかな。
これは進行右側の席にいた方がよくわかるのだが、羽越本線は単線区間と複線化された区間とが見事なほどの斑(まだら)模様である。元々は単線鉄道として開通したが、戦争の時代になってからは軍部が日本海ルートの輸送力強化を重視し、複線化を精力的に進めたという。だが、戦後は国鉄の財政難で複線化が進まず、斑模様のまま今に至っている。これでは列車のスピード・アップもなかなか難しいことだろう。
(単線区間・複線区間が斑模様の羽越本線)
14時28分、鼠ヶ関駅に到着。いよいよ山形県に入った。鼠ヶ関は、かつては勿来関、白河関と並ぶ奥羽三関の一つで、まさに東北地方への入口となっていた場所だ。逆に言えば、それは何らかの区切りになるような地形であったのだろう。村上からこの鼠ヶ関までの区間が羽越本線の建設で最後に残された区間だったというのも、何やら象徴的である。
そこから先も、集落がある所では、山と海の間の限られた平地に道路と民家と鉄道が寄り添っている。そして集落が途切れると、後は荒々しい海だけだ。
海が見えるのは小波渡(こばと)という駅まで。その次の三瀬(さんぜ)駅から羽越本線は内陸部を走るようになり、野山の風景が広がる。外はいつしか横殴りの雪になっていた。
乗り鉄冥利に尽きる素晴らしい車窓の眺めを楽しませてくれた827D。だが、その旅も終わりに近い。村上を出てから、途中15個の駅に一つずつ停まり、1時間45分ほどをかけて、遂に鶴岡駅に到着。本線仕様の長大なホームを、二両連結のキハは完全に持て余していた。
酒田へ向けて更にコマを進めていく827Dを見送り、跨線橋を渡って改札口へ。外に出ると、雪はみぞれになっていた。深呼吸を一つして、タクシー乗り場へと向かい、運転手さんに行き先を告げる。
さあ、仕事だ。
【追記】
鶴岡の訪問先では、初対面ながら案外と話し込んでまい、鶴岡駅に戻って来るのがぎりぎりの時刻になってしまったが、ともかくも予定の秋田行き「いなほ7号」に何とか乗ることができた。
自由席車両も閑散としたもので、私は再び海側に席を取り、缶ビールを片手にぼんやりと外を眺める。そして列車が酒田を過ぎ、夕闇が迫る頃に再び海の眺めが始まった。吹浦から象潟にかけての海だ。それはまた、二年前の夏に山仲間のT君と二人で鳥海山(2236m)に登った時に、山の上から眺めた海でもあった。
あの時に遥か彼方に見えた海岸線に沿って、私は今、秋田を目指していることになる。午前中に東京を発ち、列車に揺られて遠くまでやって来たものだと、改めて思う。
缶ビールが空いて、窓辺の友は、いつしかカップ酒に代わっていた。
2016-03-06 19:34
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