SSブログ

「逆さに見る」歴史 [読書]


 富山県庁の刊行物の中に、350万分の1 環日本海諸国図という、B1サイズの一風変わった地図がある。もう20年以上前の1995年から販売されているというから、今更ニュースでも何でもないのだが、これは目の付けどころが面白い地図である。

 普通の地図の上下をひっくり返したもので、上が凡そ南西方向になっている。要するに中国東北部から日本列島の方向を眺めた時の見え方を表したものなのだ。従って、地図の上部に日本列島が横たわり、その下にまるで大きな湖のような日本海がある。
paradoxical chinese history 01.jpg

 地図には富山県庁の位置を中心点とした同心円が描かれていて、半径1,000kmの円の中に日本の四島がほぼスッポリと収まっている。何だか日本の重心が富山湾にあるかのように思えてしまうから不思議なものだ。そして、この「逆さ地図」を眺めていると、日本列島とユーラシア大陸との大きさのバランス、相互の距離感といったものも、いつも見慣れた地図とはどこか違うような印象を受けてしまうのだが、それは今年(2016年)のイグノーベル賞(「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞)の受賞で注目を集めた『股のぞき』と似たようなことなのだろうか。

 考えてみれば、私たち北半球に住む人間にとって、南は自然と視野の中心になる。住宅は南向きに建てるものだし、「日当たり」というものを常に考える。一般には寒い所より暖かい所が好きな人の方がずっと多いだろうから、人々が指向するのは自ずと太陽が空高い方角である。それは日本列島でも、それよりも北のユーラシア大陸や朝鮮半島でも同じはずである。

 それゆえ、半島の人々がこの「逆さ地図」を見ると、太陽が輝く暖かい南の行く手に長々と横たわる他国・日本は、もしかしたら鬱陶しい存在であるかもしれない。中国の人々にとっては、九州の南から台湾までの海上に円弧を描く南西諸島が東シナ海の出口を塞いでいて、これは何とかしたいと思うかもしれない。更に言えば、19世紀末から20世紀初頭にかけて猛烈な勢いで極東へ進出したロシア帝国の指導者たちは、この「逆さ地図」そのものが頭の中にあったのではないか。

 この「逆さ地図」と同じ要領でユーラシア大陸の東半分をひっくり返してみると、こんな風になる。
paradoxical chinese history 02.jpg

 朝鮮半島や現在の中国の背後にある乾燥地帯・草原地帯を舞台に、遥かな古代から近代の手前までの長い期間にわたってユーラシア大陸の歴史を動かし続けてきた遊牧民族の数々。その彼らから見た「太陽の輝く方向」がこれである。眺めてみると、モンゴル、シベリア南部、中央アジアといった地域は誠に広大で、現在の中国がいかに広いといえども、遊牧民族のフィールドと比べれば「中原(ちゅうげん)」などは小さなものだと思わざるを得ない。

 私たちは歴史を考える時も頭の中は北が上で南が下だが、まるでそれを逆さにするように、遊牧民族の目から中国史を紐解くユニークな本が、『逆転の大中国史』(楊海英 著、文芸春秋)である。著者は1964年の内モンゴル生まれの学者で2000年に日本に帰化。普段私たちが無意識のうちに持っている中国史のイメージを覆す様々な論点を提供してくれる。
pradoxical chinese history 03.jpg

 「曰く、古代より広大なアジア大陸に、ほかと隔絶した高い文明をきずきあげてきた『漢民族』。(中略) その豊かさゆえに、しばし北方から、戦争はつよいが、『野蛮な』遊牧騎馬民族が襲来し、一時的にはかれらが支配者となるが、圧倒的な漢文明によって『漢化=文明化』されると、アイデンティティをうしなっていく。かくして王朝の主はかわりはするが、偉大な中華文明のかがやきは普遍的かつ不変のものとしてうけつがれてきた。ざっとこんなストーリーだ。中国人ばかりか、日本人のあいだでも、大枠でこうした『中国史』をまなんできた人は少なくないのではないだろうか。」
(本書 序章より)

 中国史について、確かに学校ではそんな風に教わったように思うし、かつて読んだ歴史本もそのようなトーンであったと思う。けれども、
「そもそも黄河文明がシナ中心地域(現在の河南省周辺)でおこったのは事実だが、考古学による研究がすすむにつれ、その古代文明と現在の『中国人』とでは、文化的にも、人種的にも断絶している事実が明らかになっている。」
(同上)
というように、まず「漢民族」という既成概念からして疑ってかかる必要が私たちにはあるようだ。

 その上で、
 「『ユーラシア史』という観点からすると、『中国史』が蛮族と位置づけてきた遊牧民が、東はシベリアから西はヨーロッパ世界にまでひろがり、文化的・人種的にも混じりあい、世界史を動かしてきたのに対し、『漢文明』がひろがりえたところは、華北と華中のいわゆる中原を中心としたローカルな地域にとどまっていた。(中略) 『漢(シナ)文明』は普遍的な世界文明のひとつというよりも、ローカルな地域文明だと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。」
(同上)
として、著者はスキタイ、匈奴、テュルク(突厥)、鮮卑、モンゴル、女真などの遊牧民族がユーラシア大陸に残したダイナミックな歴史の足跡を多数紹介している。内モンゴルのオルドスに生まれ育った著者ならではの現地の写真も豊富に掲載されており、私にとっては認識を新たにすることばかりであった。

 「歴史以前の中国」と「歴史としての中国」を区切るものとされる、秦の始皇帝による天下統一(前221年)。それ以前の中国では「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸民族が中原をめぐって興亡を繰り返したとされるが、それでは中国人そのものはどこから来たのか。

 「中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成された都市の住民のことであり、文化上の概念であった。(中略) それ(=秦の始皇帝による都市国家群の征服)以前の中原には、それぞれ生活形態のちがう『蛮、夷、戎、狄』の人々がいりまじって住んでいたので、のちの中国人は、人種としてはこの『四夷』の子孫であり、これら異種族が混血した雑種である。」
(『読む年表 中国の歴史』 岡田英弘 著、WAC)
paradoxical chinese history 04.jpg

 本書にても度々引用されている岡田英弘氏の著書を私はだいぶ以前に読む機会があったので、紀元前3,000年に遡るともいわれる黄河文明に直結する「漢民族」という種族は存在しなかったことや、「中国五千年の歴史」というのは嘘で、広い領域を伴った「中国」としての歴史は始皇帝以後の2,200年であること等の史観には既に触れていた。その意味では、本書は岡田氏に代表される中国史観を遊牧民族の視点からも裏付けたものともいえるだろう。

 2世紀末に起きた黄巾の乱とその後の混乱から全土が内戦状態になった後漢王朝は、220年に滅亡。中国は三国志の時代に突入するのだが、相次ぐ戦乱の結果、黄巾の乱以前には5千万人ほどあった後漢王朝の人口が、魏・呉・蜀の三国を合計しても約5百万人、つまり十分の一に激減。それ以前の歴史によって形成された「中国人」はここで事実上絶滅したという。そして、次の統一王朝である隋が登場するまでの約300年間は、五胡十六国時代南北朝時代を通じて北方の遊牧民であるアルタイ系、もしくはチベット系の種族が華北を支配。その結果、「中国語」がアルタイ系の言語に変質していったという。
paradoxical chinese history 05.jpg
(高校時代の世界史の副教材にはこんな図があった。)

 そして、黄巾の乱から400年ぶりに中国を統一したとその後釜のは、言うまでもなく当時の日本が律令国家の統治のお手本とした王朝で、とりわけ盛唐時代は「偉大なる中華文明」の代表例だというイメージを私たちは持っている。けれども、隋・唐の王朝はいずれも五胡十六国時代の五胡、即ち遊牧民族・鮮卑の出自であったというのは、学校では決して教わらなかったことだ。

 しかも、中国史上で「ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた」王朝、「まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい」王朝を挙げれば、隋・唐(鮮卑)、元(モンゴル)、清(女真)となり、「いずれも非漢民族による征服王朝、端的に言えば遊牧民が建立した王朝」なのである。そしてそうした遊牧民を出自とする王朝が大帝国たり得たのは、「中原で栄えた偉大な中華文明」を継承したからではなく、「実力があれば、民族や宗教などに関係なく登用するという寛容さ」が原因のひとつであり、「漢民族中心主義ではなく、異民族による国際主義によって統治された時代こそ、『中国』がもっとも栄えた時代だという事実がわかるだろう」と、著者は強調している。

 それに対して、北方の遊牧民族の出自ではない、著者のいう「シナ人」による統一王朝はだ。そして、宋の時代には世界の三大発明とされる火薬・羅針盤・活版印刷が発明され、有名な景徳鎮の陶磁器が生み出されるなど、独自の文化が花開いたのに対して、異民族の反乱をおそれて抑圧的な政策をとった明代は総じて暗黒時代であったことの理由を、著者は以下のように述べている。

 「宋はもともと北部を北方民族のキタイや金人に押さえられていたため、東南沿海部を中心とした『小さなシナ』だったのである。この小さな規模で、シナ人のみの『民族国家』をつくることが、『漢民族』にはもっとも適していると断じていい。明のように宋よりも広い国土をえて、おおくの他民族を統治しなくてはならなくなると、他の文化、文明をみとめない『漢民族』ではうまくいかないのである。その点は、現代の中国共産党による政権運営とも通ずる。」
paradoxical chinese history 06.jpg
(「小さなシナ」だった宋)

 既に記したように、著者は内モンゴル(中華人民共和国 内モンゴル自治区)のオルドスに生まれ育った。彼の幼少時代は中国全土で文化大革命が荒れ狂った時期で、彼の一家も大いなる恐怖を体験したそうだ。その文革は彼が13歳の年に終了が宣言され、中国は改革開放へと舵を切る。中国が市場経済へと足を踏み入れていった80年代の後半に筆者は北京で日本語を学び、そして中国を離れた。

 「古代のシナ地域、ことに中原とよばれた華北の高原地域では、農耕を基盤として、四囲を高い城壁で囲いこみ、外敵の侵入を阻む都市国家が成立した。 (中略) ここで重要なのは、こうした都市国家には、国境という概念が存在しなかったことだ。 (中略) 都市国家の人口や富が増加し、つよい権力や高い軍事力をもつ指導者が出現すると、『国土開拓』と称して、壁をどんどん外側へと拡張していく。 (中略) かれらシナ人、中国人にとって、国境とは国力が高まれば自由に変更可能なものなのである。北方民族に侵略されたという意識はもつが、自分たちがモンゴル平原や新疆(東トルキスタン)に侵入しても、『侵略した』という意識は皆無である。 」

 「『中華思想』が厄介なのは、それが他の民族との接触によっておおきく歪んでしまったことだ。端的にいえば、遊牧民族とのあいだでの戦いでのたびかさなる敗北のなかで、現実を否認して、『自分たちは敗れたが、野蛮な敵よりも、文明的であり優っている。』、これがさらに嵩じて『自分たちは文明的で優った民族だから、野蛮人に負けるはずがない。現実の方がまちがっている』という虚構をつくりあげてしまったのである。そして近代以降は、その『敵』が西洋列強ならびに日本におきかえられた。」

 「それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく。そればかりか、『チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ』と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。」

 こうした記述だけをピックアップすると、いわゆる「嫌中本」と混同されてしまいそうだが、中国国内にいては決して発することは出来ないであろうこうした言論の中に、内モンゴル出身の著者が中国籍を離れた理由が滲み出ているようだ。

佐藤: ISの影響が中央アジアに浸透しつつある中で懸念されるのが、この影響が新疆ウイグル自治区に及ぶ危険性ではないでしょうか。(中略)

宮家: ウイグル族に対する共産党政権の厳しい取り締まりはイスラム過激派だけでなく、いまや一般イスラム教徒の信仰活動にまで及んでいる。しかし、中東を「後背地」とするウイグル・イスラム教は、チベット仏教のように中国国内で「封じ込め」ることが絶対にできません。中国政府指導部がイスラムをより正しく理解し、真の共存の道を見出さないかぎり、ウイグルは中国のアキレス腱でありつづけるしかないでしょう。(中略)

佐藤: ほんとうに中国はイスラム教、イスラム教徒との付き合い方がわかっていませんね。

宮家: そう思います。(中略) 中国のアキレス腱は台湾や朝鮮半島だけではありません。今後の中央アジア情勢次第では、新疆ウイグル自治区の動向も中国の安全保障にとって、重大事項となるでしょう。
(『世界史の大転換:常識が通じない時代の読み方』 佐藤優・宮家邦彦 著、PHP新書)
paradoxical chinese history 07.jpg

 こうした事態について、『逆転の大中国史』の筆者・楊海英は終章で、「現在の中国は歴史に復讐される」と表現している。中国史ならぬユーラシア史は、21世紀の前半に、また新たな局面を迎えるのであろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。