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East of River [散歩]


 今年4月の下旬に膵臓の半分を切除する手術を受けてから、ちょうど2ヶ月と1週間が経過した。直近3回の日曜日は何かと体調が悪くて何れも棒に振ってしまったのだが、7月最初の日曜日の今日は特に問題がなく、少しは外で体を動かせそうだ。梅雨の合間に日差しが戻り、日中は30度超えになるようだが、元気を出して散歩に出かけよう。

 我家の最寄駅から地下鉄とJRを乗り継ぐこと約20分、隅田川を渡った両国駅で電車を降りる。普段は東京の山の手側で暮らしている私にとって、週末にちょっと気分を換えたい時には隅田川を超えてみることが時々ある。

 両国という地名は、言うまでもなく隅田川がかつて武蔵国と下総国との境であったことに由来している。それが、寛永年間(1622~43年)とも、もう少し後とも言われるが、いずれにしても17世紀の内に隅田川の東側も武蔵国に編入されたようだ。そしてそれは江戸の市街地拡大の歴史と軌を一にしている。

 大坂夏の陣の終結によって実現した元和偃武(1615年)から20年後の1635(寛永12)年、徳川家光によって諸大名の参勤交代が制度化されると、各藩の江戸屋敷が次々に設けられ、江戸詰めの家臣達も居住を開始。江戸の人口は急増し、市街地が拡大していく。その延長線上で起きた大惨事が1657(明暦3)年の明暦の大火、いわゆる「振袖火事」だった。旧市街地の大半が焼失し、大名屋敷はおろか江戸城の天守閣までもが焼け落ちてしまったこの大火による死者は、3万人とも10万人とも言われる。

 この大火の二年後の1659(万治2)年、隅田川に両国橋が架けられた。そして、この橋から東側の地区への居住が幕府によって奨励される。橋よりも北側が本所、南側が深川だ。上述したようにこの地域が下総国から武蔵国へと編入されたのも、こうした防火・防災上の政策の一環なのだろう。

 時代は明治に飛んで、1904(明治37)年4月5日というから、日露開戦からまだ間もない頃だ。私鉄・総武鉄道の線路が市川方面から伸びて来て、この両国に終着駅が出来た。当時の駅名は「両国橋」だったそうだ。その終着駅時代の面影を残す駅舎が(関東大震災で焼失したため、昭和4年に再建された駅舎がベースではあるが)今も残されている。
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 現在は1・2番線ホームをJR総武線の電車が行き交っているが、その北側の一段低い場所にもう一本のホームがあり、3番線の線路が西側(浅草橋駅寄り)で行き止まりになっている。

 道路の両国橋に並行するように総武線の鉄橋が隅田川に架けられたのは、1932(昭和7)年。関東大震災後の帝都復興事業の一環で、これによって総武線の電車は今のような運行形態になった。それでも、東京と内房・外房地区を結ぶ中・長距離列車の東京側の終点は長らく両国駅のままで、私が小学生の頃、夏の臨海学校の帰りに内房の岩井駅から蒸気機関車が牽く客車列車に揺られ、最後はこの両国駅に降り立ったことを今でも覚えている。そう、あの時も確かにこの行き止まりの線路があった。
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 そんな風に、どこか昔懐かしい両国駅から外に出て南に向かい、京葉道路を渡ると、正面に回向院の緑が目にとまる。諸宗山無縁寺回向院。幕府の命により、振袖火事の死者を弔った万人塚を起源とする寺である。以後も大きな災害による横死者の無縁仏を供養する場所として機能し続けて来た。
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 境内の奥には沢山の供養塔や慰霊碑が建てられていて、そこに刻まれた文字を読み解くと興味深いものがある。写真の左側は「大正十二年九月一日 大震災横死者之墓」、言うまでもなく関東大震災の死者に対するものである。その右側は「天明三年癸卯七月七日八日 信州上州地変横死之諸霊魂等」とあるから、「天明の大飢饉」の原因となった1783(天明3)年7月の浅間山大噴火による横死者への慰霊碑なのだろう。(因みに、この年の4月には東北の岩木山でも噴火があった。)
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 さて、回向院の南側にある路地を東側に数ブロック歩いていくと、「本所松坂町公園」の表示がある。公園といっても小さな土地で、遊具などは何もない。しかも白塗りの塀に囲まれているので、ここが公園だと思う人はいないだろう。それが吉良邸跡、要するにあの忠臣蔵の「悪役」・吉良義央の屋敷跡(の一角)である。1702(元禄15)年12月14日(今の暦では1703年1月30日)、四十七士による吉良邸討ち入りの舞台はこの場所だったのだ。
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 浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で刃傷沙汰を起こし、即日切腹となったのが前年の3月14日。赤穂城の明け渡しが同4月19日。一方の吉良義央はその年の8月19日に呉服橋門内から本所のこの場所へと屋敷替えになっている。もちろん自主的に引っ越したのではなく、幕府により呉服橋の邸宅が召し上げられ、代替地があてがわれたという訳だ。

 大名屋敷が連なり、北町奉行からも目と鼻の先にある呉服橋から、それよりも遥かに人通りの少ない本所への転居命令。私たちが北斎や広重の錦絵を通じてイメージしている江戸・両国橋近辺の賑わいはあくまでも19世紀前半のものであって、両国橋の竣工からまだ40余年しか経っていない赤穂事件の時代は、両国橋の向こう(東側)はまだ市街化の歴史がずっと浅い頃だ。それに、元禄時代といえば文化の中心はまだ上方にあった頃である。そんな時代の本所に屋敷を移せと幕府が吉良に命じたことについて、敢えて討ち入りがしやすい場所を与えたのではないかという想像が働くのも無理からぬところだろう。
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(歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 19世紀に描かれた想像画ではあるが・・・)

 さて、吉良邸跡から両国駅に戻り、今度は隅田川に沿いに浅草まで歩いてみることにしよう。
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 両国国技館を右手に見ながら土手沿いに歩いて行くと、水上バスの両国発着場があり、階段を降りると隅田川の岸辺に出る。どうせ歩くなら土手沿いの道よりも岸辺の遊歩道の方が楽しい。振り返ると、総武線の電車が隅田川橋梁を渡っていく様子が彼方に見える。
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 そのまま暫く歩いて行くと、蔵前橋が目の前に近づいて来る。時刻は午後2時半を回った頃で、隅田川の左岸(東側)は対岸から太陽に照りつけられて暑い。岸辺から一旦上がって蔵前橋を渡り、右岸に出れば少しは日陰があるかな。そう思って蔵前橋から対岸に出てみた。1927(昭和2)年の竣工というこの橋。その直下から眺めると、鋼鉄製の重厚なアーチ部分がなかなか立派である。
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 両国に移転する前のかつての国技館は、この橋の東詰にあった。私が子供の頃に父に連れられて大相撲を見に行ったのは、その蔵前国技館の時代である。その跡地は東京都下水道局の蔵前ポンプ所になっていて、台東区周辺の家庭や工場からの下水を三河島水再生センターに送ったり、降った雨水を集めて隅田川に流したりする役目を負っている。
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(昭和40年当時の地図にある蔵前国技館。当時は主要な道路にまだ都電が走っていた。)

 期待したほどの日陰は右岸にはなく、汗を拭き拭き歩き続けると、次にやって来るのは春日通りがその上を走る厩橋。三つ並んだアーチが印象的な橋だ。厩(うまや)の名前は、江戸時代に蔵前の米蔵に出入りした荷駄馬用の厩が橋の西側にあったことに因むという。現在の橋は1929(昭和4)年の竣工になるもので、このあたりから対岸の眺めは次第に東京スカイツリーが主役になっていく。
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 ここまで来れば、浅草までは残り1kmもない。左手の土手の上を見上げると、川沿いに居並ぶビルの所々に、フレンチ・レストランや和風の居酒屋が隅田川の対岸に向いた場所にテラス席を設けている。スカイツリーの夜景を眺めながら一杯という趣向、なかなか良さそうだ。そして駒形橋を過ぎると、正面には鮮やかな赤色に塗られた吾妻橋が見えて来る。そこから左手の土手を上がれば東京メトロの浅草駅だ。
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 両国から浅草まで、川岸と土手の昇り降りを除けば 川沿いの至って平坦な散歩コースだが、梅雨明け後の盛夏を先取りしたような陽気になった今日は、両国駅前で買った水のペットボトルが浅草ではもう空になっていた。

 人気番組「ブラタモリ」のような深掘りは出来ないが、自分なりに江戸と東京とを行き来しながらの日曜日の散歩も、たまにはいいものだと思った。

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