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願いと祈り [自分史]


 10月9日(月)、三連休の最終日の東京は前日に続いて季節外れの夏日となった。私は午前中から既に二つの用事をこなし、今は家内と二人で四谷の駅前を目指して歩いている。地表付近の天候がどうであれ、太陽の動きはきっちりと暦通りだから、午後4時に近くなると早くもその光には赤みが差してきて、その限りではいかにも秋なのだが、歩いていると半袖でも汗ばむような陽気とのミスマッチが何だか不思議だ。

 JR四谷駅の麹町側に出ると、目の前が上智大学のキャンパスだ。その駅寄りの角地に建つカトリック麹町聖イグナチオ教会。かつては主聖堂のクラシックな姿がこの辺りの景観のシンボル的な存在だったのだが、老朽化により1997年に取り壊され、1999年に現在の楕円形の建物になった。それからもう18年も経つのだが、旧聖堂が姿を消して以降、四谷の駅前を通りかかったことがなかった訳ではないはずなのに、今の聖堂を改めて見つめてみるのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。
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 その楕円形の姿がどこか音楽ホールのような主聖堂を左に見ながら敷地の中を進むと、正面に植え込みの緑が豊かな低層の建物があり、二階のテラスのような場所から旧友のY君が手を振りながらこちらを見ている。私もそれに手を振って応え、家内と共に外階段から二階へと上がる。そして、久しぶりにY君と握手。「元気そうでよかった。」と彼は再会を喜んでくれた。Y君の奥様にもお目にかかり、建物の中へと案内される。そこは、マリア聖堂。丸屋根の部分に据えられた円形の大きなステンドグラスは、旧聖堂から引き継がれたものだそうだ。
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(写真は教会のHPから拝借)

 Y君は大学時代のゼミの同期生である。卒業後、就職も同じ業界で、お互いの結婚式にも呼び合った仲だ。それに会社では共に国際部門を長く経験したので、以後も何かと連絡を取り合って来て、海外でも会ったりしたものだった。その彼が私のブログを見て見舞いのメールをくれたのが今年の7月末のことだった。私が膵臓がんの手術を受けてからちょうど三ヶ月が経過した頃である。

 「驚きました。(中略)ブログでは出社されているようなので少し安心しましたが、この人生の困難に立ち向かわれているのを知り、まずは貴兄への神のご加護を強く祈っております。以前お話ししたように私はカトリック教徒です。」

 そんな風に書かれていて、以後も毎週日曜日に教会で私のために祈りを続けてくれているそうである。彼からメールを貰った時期はまだ私の体調が安定せず、大幅に痩せて体力もすっかり落ちてしまった頃だったから、心の底から私のことを心配してくれたY君の友情が、言葉の真の意味で身に染みる思いだった。

 Y君は中学・高校時代を神奈川県のカトリック系の学校で過ごしている。その後、留学や駐在勤務でメキシコ・スペインといった国々を経験しているから、カトリックという信仰が深く根付いた社会の在り方をつぶさに見て来たはずである。そんな彼が日本に帰って来た後、思うところあってカトリックの洗礼を受けたというのは、私から見れば不思議なことではないのだが、それは何も知らない門外漢にはそう見えるというだけのことで、実際に入信するということは彼の人生の上では大きな決断であったことだろう。

 8月以降もY君と何度かメールをやり取りする間に、彼はイエズス会司祭の英(はなふさ)隆一朗という神父さんの存在を教えてくれた。英氏は聖イグナチオ教会で精力的に活動し、日曜日毎のミサはもちろんのこと、週二回のキリスト教入門講座なども開いていて、非常に多忙な方であるようだ。その英神父がインターネット上に立ち上げた「福音 お休み処」というブログの冒頭には、こんな記載がある

 「主イエスは次のように仰せになりました。

 『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』(マタイ11章28節~29節)と。

 この聖句を読むたび、心がほっとします。現代社会の中で、重荷を負って、疲れ果てている方々がおられるのではないでしょうか。私自身も重荷に耐えきれなくなったり、疲れ果ててしまうことがたびたびです。しかしながら、イエスのもとで休み、イエスに学びながら、魂の安らぎを得て、また立ち上がる力をいただきます。

 このブログを通して、疲れた人や重荷を負っている人が主のもとで休みをとり、主から学び、また立ち上がって歩んでいく手助けをしたいと思っています。」 http://hanafusa-fukuin.com/

 このブログは彼が行った日曜日のミサの説教の音声ファイルやテキスト画面にもアクセス出来るようになっている。Y君にはこの英神父の講話を他の教会で聞く機会があり、「何か腹に自然に落ちる話をされる人」だと思ったそうだ。今の日本のカトリック教会において、こういう話が出来る神父さんは本当に少ないのだという。その英神父が祝日の10月9日(月)に「いやしのミサ」を聖イグナチオ教会で開くことになった。

 「このミサは、病気のいやしという特別な意向のためにささげられるミサです。ご自身が病気の方や、親族・友人のいやしを願われる方はどうぞご参加ください。いやしのミサの後に、個人的にいやしの祈りを祈る時間が設けられます。」

 Y君はこのお知らせを上記のブログで見つけ、わざわざ私に声をかけてくれたのだった。「貴兄の信条に反するかもしれませんが、祈りは呼びかけに結びつくかも知れません。彼は心に響くことを語れる人だと思います。」とも書かれていて、私自身の常日頃の考え方にも配慮をしてくれた上でのことだった。

 Y君ご夫妻に挟まれる形で私たち夫婦が聖堂内の椅子に着席。午後4時からミサは粛々と始まった。幾つかの讃美歌が歌われ、英神父が聖書の一節を読み上げ、一同が祈りを捧げる。そして信者の代表が聖書の朗読を行った後、いよいよ英神父の説教が始まった。

 病を得たということは、あなた個人にとっては苦しみではあるが、そのことによって逆に、病もなく日常を平穏に過ごすことの有難さに気づくことが出来る。そして、同じように病を得た人々の苦しみを理解することも出来る。それは神から与えられたあなたの役目なのだ。病を得た人はその治癒を願い、神に祈る。聖書の中でイエスは多くの病人をいやした後、「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。神が必ず救ってくださるという確信、神から力と恵みを与えられていると考える謙虚さ、病が治癒することへの希望、そして信仰。それらによって願いは真の祈りとなる・・・。

 ごく簡単に言ってしまえばそんな内容だったと記憶している。
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 今日、このミサに列席する機会を得るまで、正直言って私は願いや祈りというものをあまり深く考えたことがなかった。日本人だから多分に神道や仏教の考え方の影響を受けているのだろうが、それでも何かを神仏にお願いする・・・例えば浄土教のように、諸々の苦しみからの救済を求めてひたすら阿弥陀仏にすがる、というような考え方が好きではなかった。むしろ神道のようにこれからの自分の行動に誓いを立て、それを神様に見守っていただくと考えること、或いは禅宗のようにあらゆる執着を捨てて泰然と生きて行くことの方が、自分にはしっくりと来るものだった。神仏が万能であるとは信じておらず、それに頼ったりすがったりするのは人間として弱い考え方だとすら思っていたのだろう。

 今回、Y君は「いやしのミサ」に誘ってくれたことに加えて、英神父が書いた『祈りのはこぶね』という小さな本を私のために買っておいてくれた。100ページ足らずの分量で文章も極めて平易なので、一晩で読めてしまうものだが、英神父の当日の説教の内容とこの著書の内容とを合わせて復習してみると、今まで私が気づいていなかったことが明らかになった。それは、願いや祈りが本当に意味するところは何かということである。

 「願うことを嫌う人もいる、それは何か他力本願で、人間の努力を軽んじているように見えるからだ。
 本当の願う祈りは、他人任せや努力の放棄を意味していない。むしろ願う祈りには、懸命の努力が伴うものなのだ。例えば、病人がいやしを願っているとしよう。その病人がいやしを願いながら、薬も飲まず、医者の注意も聞かず、養生もしないなら、その人は本当に願っていると言えるだろうか。本当に願う祈りをしているならば、薬を飲み、養生して、自らの努力と実践を通して治ろうとするだろう。願う祈りとは他人任せにすることではなく、自分の全力を傾注して事に向かうことなのである。
 願う祈りは、自分の今の課題を示し、向かうべき具体的な方向を示してくれる。」

 『祈りのはこぶね』を読み始めると、早々にこんな記述が出て来る。参ったな、と私は思った。神仏などにはすがらないぞ、と思っている自分は、それではどんな努力をしているというのか。

① あなたの心の中に、どのような願いがありますか。願っていることを書き出してみてください。
② それがかなえられることをどれほど強く願っていますか。強く願っているものから順番に、番号をつけてみましょう。
③ そのためにどのような努力や実践をしているか、ふりかえってみてください。

 『祈りのはこぶね』の各章にはこんな設問も用意されていて、自分を客観的に見つめるためには、確かにそういう作業が必要なのだろうと考えさせられる。そして本書を更に読み進むと、祈りとは人々の願いや嘆きを具体化するものであり、今日がどんな一日であったかを思いおこすことであり、たとえそれが苦難に満ちたものであったとしても、願いに先立って感謝を捧げるチャンスであり、そして悔い改める機会でもあることが平易に説明されていく。
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 科学上の理屈だけから言えば、病気が治ることと願いや祈りとは直接の因果関係を持つ訳ではないのだろう。けれども、私が膵臓がんの手術を受け、今も定期的な経過観察に通っている病院では、現状を確認するための設問が20個ほど用意されていて、患者はタブレット端末を通じて回答を入力することになっているのだが、それらの設問の半分ぐらいはメンタルな事項に関するものである。今の体調が今の気分や人とのコミュニケーション、そして仕事への取組み姿勢などにどのような影響を与えているか、といったことを尋ねるものなのだ。

 「がん患者への最良の薬は、自分ががん患者であることを忘れることだ。」という指摘もあるぐらい、がん治療にはメンタルな部分のケアが重要なのだそうだが、考えてみれば、それは英神父が易しく説いてくれる願いや祈りにも繋がるものであるのかもしれない。

 既に述べたように、今までの私は願い事が叶うよう神仏にすがるという考え方を好まず、祈るということをあまりして来なかったように思う。願っていることが実現するよう自分が努力するのは当たり前のことだが、そこから先はなるようにしかならない訳で、それがどんな結果であっても泰然として受け止めるのが男のあるべき姿だと思っていた。

 自分の機嫌の良し悪しで人との接し方を変えたり、人に愚痴をこぼしたりするのは嫌いだったし、仮に何かの不幸に襲われた場合にも他人からの慰めは不要で、結局は自分自身で悲しみ・苦しみを呑み込み、乗り越えて行くしかないと思っていた。そして、その過程で溜まったストレスは、例えば親しい友人たちとの酒の席や、時に山歩きをすることで自分なりに発散していたつもりだった。

 けれども、自分がこうして病を得るという経験をしてみると、色々なことを独りで呑み込もうとするのではなく、逆にそれらを素直に吐き出してみることで自身を客観的に見つめることが出来るのではないか、ということを考えさせられたように思う。言い換えれば、粋がらず自分の弱さにもっと正直になれ、ということだろうか。そんな悩みや苦しみを素直に吐露すれば、自分の周りにはそれを一緒に聞いてくれる家族や友がいてくれる。そして、そうした悩みや苦しみのない日々の到来を願い、祈り、その実現に向けて努力を続ける時、私たちの背後には神の存在がある、と考えるのが信仰というものなのだろう。
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 最後の讃美歌が歌われ、「いやしのミサ」の一連の進行が終わったところで、個人的にいやしの祈りを行う場が設けられ、希望者が英神父の前に二列に並び始めた。車椅子に座った人、杖を突く人々など様々だ。実は、Y君は私が膵臓がんの手術を受けた身であることを事前に英神父にメールしてくれていて、神父は私のためにも祈りを捧げて下さるというので、Y君ご夫妻に導かれる形で私と家内もその列に加わることになった。

 やがて私の番が回って来たので、家内と二人で英神父に一礼。私は次のように話した。

 「私は今年の4月に膵臓がんの手術を受け、今も抗がん剤の服用による治療を受けています。この先、がんの再発・転移が起こるのかどうか、今はまだ何とも言えませんが、たとえ何が起ころうとも、自分の命の続く限りは精一杯生きようと思っています。」

 頷きながらそれを聞いていた神父は、その両手を私の頭に置き、暫くの間何事かを唱えていたが、最後にこのように語ってくれた。

 「あなたの今の考え方は、神が一番喜んでおられると思います。是非それを大切にしてください。」
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 マリア聖堂の中でのミサを体験した一時。私のために様々な心遣いをしてくれたY君ご夫妻に改めて感謝しつつ建物から出ると、5時半に近くなった外はもうすっかり夕暮れを迎えている。私たち4人はそれから四谷駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、暫くの間なごやかに語り合った。

 思えば大学を卒業してから既に36年。時には青臭い議論も含めて本当に色々なことを語り合って来たゼミの同期生同士。それがお互いにこの歳になり、夫婦一緒に今日こうしてこのような時を過ごしていることの不思議さと有難さ。人間、歳をとるということにも大切な意味があるものなのだ。熱いコーヒー以上に、Y君ご夫妻の温かいご厚意がはらわたに深く染みた。

 午後6時を過ぎ、四谷駅でY君ご夫妻とお別れをして、私たちは地下鉄のホームへと歩く。Y君のおかげで、私にとって神様の存在が少し身近になったかもしれない。ともかくも、余計な肩の力を抜いて病と向き合い、自分自身の弱さをもう一度見つめながら、今ある生をしっかりと生き抜いて行こう。

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