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感謝 [自分史]


 12月28日、木曜日。会社が御用納めになるこの日の東京は、朝からくっきりとした冬晴れの空が広がっていた。朝の通勤電車の窓から見えた富士山の姿には、まさに「屹立」という言葉が相応しい。山の南東側には雲が渦巻いていたから、強い北風が吹きつけているのだろう。いよいよ真冬の到来である。

 朝から机の周りの片づけに取り組んでいた私は、昼前に会社を抜けて再び電車に乗り、途中の駅で家内と落ち合う。そして東京湾岸の駅に降り立ち、地上の改札口を出ると、硬質ガラスのような冬の青空の下にいつもの病院の建物の姿があった。

 「これはこれでなかなか美味しいじゃない。」

 野菜カレーを口に運びながら家内が微笑む。再診受付と血液検査を済ませた私は、院内にあるレストランで家内と昼食をとっていた。丸の内のお堀沿いに本拠を持つ有名レストランがこの病院の中にも店舗を出している。この病院にお世話になることになったのが今年の4月。それから既に9ヶ月の月日が流れたことになるのだが、このレストランで食事をしたのは今回が初めてだった。

 「ここでこんな風に普通の食事が出来るなんて、入院していた頃は想像も出来なかったからなあ・・・。」

 讃岐うどんをすすりながら、私もちょっとした感慨に囚われていた。そもそもこの病院にお世話になること自体が、今年の春を迎える前は想像すら出来なかったことだったのだから。
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 今年の4月5日に、高校時代の同級生S君が院長を務める都内の消化器内科クリニックでたまたま胃カメラを吞んだ時、前後して行われた超音波エコー検査で膵臓に病変らしきものがあることが判明。初期の膵臓がんが疑われ、S君がこの病院への入院と手術を大急ぎで手配してくれて、4月25日に開腹手術を受けることになった。そのイキサツと以後の経過については、既に何度かこのブログにも記載してきた。

 術後は延べ25日ほど入院し、7月中旬からは、今後のがん転移の可能性をゼロに近づけるために抗がん剤服用を開始。二週間服用して一週間は休み。それを8サイクル繰り返すというプログラムで、それが先週の12月21日で終了。その前日の20日にCT検査を受け、今日は主治医からその結果の説明を聞く予定になっていた。13:30から執刀医で消化器外科のA.S.先生、続いて14:00からは抗がん剤治療の指導をしていただいた消化器内科のT.S.先生の診察予定なのだが、年内最後の診療日とあってか院内は普段より混雑しているから、なかなか時間通りには行かないだろう。
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 「膵臓がんを疑う」という所見をS君から聞いたのは、もちろん私にとっては思いも寄らぬことだった。自覚症状が何もなかったから仕方がないのだが、膵臓がんというのはそういうものだそうで、だからこそ発見が遅れ、しかも進行が速いために、判明した時には手遅れで手術も出来ないというケースが非常に多いという。「がんが見つかってから半年ほどで亡くなってしまった」というような話は膵臓がんであることが多い。ところが私の場合は、全くの偶然ながら比較的早い段階で見つかったので、今なら手術が出来るという。事態の重大性が自分でもまだ十分飲み込めていないが、ともかくも旧友S君や執刀医A.S.先生の所見に全面的に従って、私は開腹手術を受けることにした。5月の連休に入る直前、新緑のきれいな頃だった。

 膵臓の半分と脾臓、胆嚢、二つある副腎の片方、そして周囲のリンパ節を切除した上で、膵臓の切除面に小腸を被せるように繋ぎ替えるという、5時間にわたった開腹手術。問題の膵臓がんはステージ2で、切除した部位の中のチェックポイント68箇所中、2箇所に転移があったという。従って、術後2ヶ月ほどが経過した頃から、今後の転移の可能性を極力ゼロに近づけるべく、抗がん剤の服用を一定期間続けることになった。そして、一般論として膵臓がんは予後も良くないケースが多いということも言い含められた。

 還暦になってから初めてこのような手術を経験することになった私にとって、開腹手術とは想像以上に体への負担が大きいものだということを、私はそれから思い知らされることになる。特に小腸をいじれば必ずそうなるとのことなのだが、手術以降なかなか下痢が治らず、当分の間は食欲も湧かず、カステラと牛乳ぐらいしか喉を通らない。加えて季節は次第に暑くなる時期だから、体は汗をかく。6月8日の退院後から比較的早く職場に復帰はしたものの、栄養失調と脱水症状で体が思うように動かず、正直言って電車の中で立っていることさえ辛いような状態だった。

 しかも、そんな状態が続く中で7月中旬から抗がん剤の服用が始まると、その副作用の辛さが上乗せになる。私の場合は抗がん剤の量を調整することで副作用はそれでも軽い方だったのだが、味覚障害が最初の頃は激しく、何を食べても美味しくなく、それでなくても細い食が更に細くなってしまう。手術から3ヶ月の間に体重は14kgほども減ってしまい、体から筋肉が随分と失われてしまったことに気分が落ち込んだ。

 こんな状態がいつまで続くのか、回復することはあるのか、いずれは歩くことさえ出来なくなってしまうのではないか・・・。先の展望がなかなか見えなかった7月末頃が、自分にとっては一番辛い時期であったと今にして思う。がんの宣告を受けてもつとめて深刻には受け止めず、「それもまた運命。ジタバタしても仕方がない」と考えてきたつもりだった私も、次第に「遠からずやって来る死」を意識し始めることになる。エンディング・ノートを作らねばならないかなと考えるようになったのも、この時期だ。そして、頻りにバッハのオルガン曲を聴くようになっていた。
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 体調が少しずつ安定の兆しを見せたのは、8月のお盆の時期を過ぎた頃だった。抗がん剤の副作用としての味覚障害は続いているものの、食欲がそれなりに回復し始めていた。まだ思い出したように下痢が起きたりはしていたのだが、オフの時間に起き上がって何かをすることが以前よりも楽になり始めてもいた。そして、自分にとって少し自信がついたのが、8月最後の日曜日に上毛電鉄の名物電車デハ101を見に、北関東まで半日の乗り鉄&撮り鉄に一人で行けたことだった。
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 これぐらいの時期に体力の回復が始まることを見越してのことだと思うのだが、三週間に一度の経過観察の時に、内科医のT.S.先生から「そろそろ適度な運動を行うことも心掛けて下さい。」とアドバイスを頂くようになった。それに従って、おそるおそるジョギングを始めてみる。最初はまず2km、次は2.5km、問題がなければその次は3km、という風に徐々に距離を伸ばしていった。始めてみると、痩せて体が軽くなった分だけ走りやすい。まだ残暑の続く頃だったが、体を動かして汗をかくことの爽快さを私は久しぶりに思い出していた。そして、9月下旬には2泊で東北地方にある我社の工場へ出張。10月最初の日曜日には、山仲間のH氏が付き添ってくれて、高尾山を徒歩でゆっくりと往復することが出来た。毎日の通勤電車で座る席を探す必要もなくなり、立っていることには問題がなくなっていた。
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 会社の仕事が俄かに忙しくなり始めたのも、この秋になってからのことだった。11月の上旬には社長と共にドイツへ一週間の出張。今のビジネスクラスはフル・フラットの座席なので、往復のフライトも特段辛いことはなく、現地でも(食べ物には用心する必要があったものの)大きな支障はなかった。そして、日曜日の日帰りの山歩きにはその後2回ほど出かけることになる。抗がん剤の服用は続いていたが、自分ががん治療中の身であることをあまり意識しなくなっていた。
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(ロンドン・ヒースロー空港)

 もっとも、術後をこんな風に過ごすことが出来たのは、何といっても家内が全面的にサポートしてくれたことのおかげである。手術によって膵臓の半分を失った訳だから消化能力は落ちており、私にはなるべく脂質の少ない食事を続ける必要があった。そうなると、特に最初のうちは食べられる物が限定列挙されるような状態なのだが、家内は色々と工夫を凝らして、私の体に極力負担のない、それでいて単調なメニューにならないよう配慮を重ねてくれた。そして、社食では揚げ物などが多くて心配だからと、毎日の弁当も用意してくれた。更には、三週間に一度の経過観察にも必ず同行してくれたので、医師のコメントを常に二人で共有することが出来た。

 実父を胃がんで失っている家内は、私が膵臓がんの宣告を受けたことを当の本人よりもずっと深刻に受け止めていた筈で、きっと多くの不安を抱えて来たことだろう。それでも、二人の子供たち共々、私の前ではつとめて明るく振る舞ってくれた。そのことには何と言って感謝したらいいのだろう。私の体調がなかなか安定せずに苦しんでいた頃も、家内には決して我儘は言うまいと、私は心に決めていた。
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 時計は既に14:00を回っている。しかし、首から吊り下げている呼び出し用の機器は沈黙を続けたままである。今日は診察が終わったら会社に戻り、17:00からの納会で社員に向けて一言述べた上で乾杯の発声をしなければならない。ここから会社までは一時間近くかかるが、はたして間に合うだろうか。そんなことが少し気になりだした14:30過ぎに、呼び出し機が震えて「診察室51-7へお入り下さい。」というメッセージが小さな液晶画面に表示された。予約の順番とは異なり、消化器内科の診察が先になったようだ。

 「今日はA.S.先生の診察が遅くなっているようなので、私の方から先に説明しちゃうことにしました。」

 いつもの穏やかな語り口で、内科医のT.S.先生の診察が始まった。机の上のモニターには、先週の水曜日に受けたCT検査の画像が映し出されている。

 「A.S.先生からもあらためて説明があると思いますが、CTの画像からは、がんの転移は見られませんね。特に心配なところもありません。今日の血液検査の結果にも特に問題はありませんから、TS1(抗がん剤)による治療は予定通りこれで終了になりますね。後は今後の経過観察のタイミングについて、A.S.先生からお話があるでしょう。」

 「食事については、今後も脂質の多い物や甘い物(果物を含む)を摂り過ぎないよう注意することと、消化器の動きを活発にする意味で、適度な運動には積極的に取り組んで下さい。」

 今年の7月以降、三週間毎に経過観察の診断を受けて来たから、T.S.先生も私たち二人の様子はよくわかっておられる。

 「まあ奥様の前ですから、アルコールは一応その・・・、飲まないに越したことはないですが・・・、お屠蘇ぐらいなら・・・。」

と、ニコニコしながら慎重に言葉を選び、「まあ、上手くやって下さい。」ということを言外に匂わせていた。

 こういう内容だったので、T.S.先生の診察は10分ほどで終了。この夏以来お世話になったことへの心からの謝礼を述べて、私たちは診察室を出る。それから15分ぐらいして再び呼び出し器が震え、今度は消化器外科で私の手術をして下さったA.S.先生の診察室へ。膵臓がんの手術では日本で最も多くの数をこなしておられる外科医のお一人である。

 検査結果の説明内容はT.S.先生と同じで、今後は4~6ヶ月毎に経過観察を行う旨のお話があり、次回は来年6月21日に決まった。血液検査とMRI検査を行い、検査に続いてA.S.先生の診察を直ぐに受けられるそうだ。今回の件で文字通り私の命を救って下さった先生に深々と頭を下げて、私たちは病院を後にした。
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 現時点でがんの転移はみられず、抗がん剤治療がひとまず終わった。今後は4~6ヶ月毎の経過観察。朗報である。それを聞いて確かにホッとしたことは事実だ。けれども、そのことに飛び上がって喜ぶというよりも、寧ろかえって身の引き締まる思いがした、というのが私の偽らざる心境だった。

 私が膵臓がんの宣告を受けて以来、本当に多くの方々に助けられ、支えられて、ここまで来ることが出来た。何といっても、病変の早期発見とその後の処置に尽力してくれた旧友S君、入院の前後から幾多の心遣いをしてくれた山仲間のH氏とT君、日曜日の礼拝のたびに私の回復を神に祈ってくれたという旧友Y君をはじめ、私のことを心配していただいた全ての皆さん。そのご厚意の数々があらためて胸に沁みる。仕事を通じて親しくなったドイツの設備メーカーの機械技師のPさんは、クリスマスイブの日曜日にわざわざメールを送ってくれた。
 We wish you for the next year all the best and especially the most important “health”.
そして、きっと大きな不安を抱えていたに違いないのに、常に明るく振る舞ってくれた私の家族・・・。私は何と幸せな環境にあるのだろう。

 これらの御恩に報いるために私がこれから行うべきことは、自分に与えられた命が続く限り、曲がったことをせずにしっかりと生きて行くことだろう。目先の検査結果はともかく、大事なのはこれから先のことである。多くの皆さんに支えられて来たことを背広の内ポケットに大切にしのばせて、前を向いて行こう。

 病院の外に出ると、15:30の太陽はもうだいぶ傾いていたが、鮮やかな冬晴れは続いている。この春以来何度も通った駅までの道を、もちろん家内と手を繋いで歩いた。

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コメント 2

TT

お元気になられて本当によかったです。でも、くれぐれもご無理なきように。歴史と鉄道と山ともっともっと追いかけていただければと思います。


by TT (2018-01-06 20:06) 

RK

ありがとうございます。「ぼちぼちでんなあ。」で行きます。
by RK (2018-01-06 20:45) 

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