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大津にて (1) [歴史]


 3月18日(日)午前8時過ぎ、私はJR京都駅2番線ホームに停車していた東海道本線の上り列車に飛び乗った。8時7分発の快速米原行き。スマホで時刻表を調べてみたら、兵庫県と岡山県の県境に近い上郡駅を今朝の5時10分に出て、山陽本線と東海道本線をもう3時間近くも走り続けて来た列車だ。

 程なく発車時刻を迎え、列車はゆっくりと京都駅を離れていく。その時、私の中にはまだ昨夜の余韻が少なからず残っていた。大学時代のゼミの同期生たちと8人で京都に集まり、楽しく過ごしていたのである。

 私たちの母校は東京にあるのだが、ゼミの同期生のK君が今では京都で会社の社長を務めている。彼自身、西陣で生まれ育った生粋の京都人なのだ。私たちが大学を出たのはもう37年も前のことだが、ゼミの同期生たちとは今でも年に2回ぐらいは集まっている。京都で仕事をしているK君には、そのたびに用事を作って東京へ出て来てもらっていた。そうであれば、たまには我々が京都へ足を運んでみよう。そんな話が出たのが昨年の秋。それから話はどんどん具体化していって昨夜の集まりになった。
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 もっとも、実際に京都に集まるとなれば、場所のセッティングや宿の手配などは現地にいるK君に全てをお願いせざるを得ない。結果的に彼には大きな手間をかけることになってしまったのだが、もうあと一週間もすれば桜も開花という季節に、西陣の老舗料亭での一次会、そして祇園のバーでの二次会を私たちは大いに楽しむことが出来た。京都の夜に、女性が隣に座る訳でもなく、カラオケもなく、男8人がひたすら語り合うというのはいささか硬派な過ごし方なのかもしれないが、これもまた私たちのグループの持ち味なのだろう。

 大学を出た頃には、それから37年後に同じメンバーでこんな機会を持つことになるなんて想像も出来なかった。それから皆が社会に出て、メンバーの大半が海外赴任を経験し、それぞれの人生を精一杯生きて来た。そして全員が還暦を過ぎた今、こうして昔と同じように様々なことを語り合える。長い年月を経た今もなお、お互いにそんな間柄でいられるというのは何と幸せなことだろう。
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 そんな余韻をまだ半ば引きずったままの私を乗せた米原行き快速電車は、間もなく闇の中へと吸い込まれた。京都の清水寺の1kmほど南で東西に山を貫く、長さ1865mの東山トンネルである。それを抜けると窓の外には山科盆地の眺めが広がり、程なく山科駅に到着。再び出発して左カーブを切り、湖西線と別れると直ぐにまた次のトンネルに入る。これが長さ2325mの新逢坂山トンネルだ。それを抜けると軽い右カーブになり、列車は直ぐに大津駅ホームに滑り込むことになる。

 ホームに降り立つと、その京都寄りの先端部からは先ほどの新逢坂山トンネルの大津側出口が直ぐ近くに見え、その上に逢坂山の東面が立ちはだかっている。その時に一つのシンプルな疑問が湧き起った。

 自分が知る限り、新橋・横浜間の鉄道開通は明治5年、京都・神戸間は明治10年だ。そして東海道本線の全通は明治22年だから、大津・京都間もそれ以前に開通していた筈である。しかし、そんなに早い時期に長さが2km前後にもなる鉄道トンネルの建設が出来たのだろうか?
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(大津駅ホームから眺める逢坂山とトンネル)

 これは後で調べてみて知ったことなのだが、大津・京都間の開業は明治13年だった。当然、そんな時期に長大トンネルを掘る技術はない。だから京都・大津間の鉄道は今とは別ルートだったのである。

 急勾配が苦手という宿命を背負ってきた鉄道。全国いたる所に山あり谷あり急流ありの日本でその鉄道を建設するためには、様々な工夫を凝らしつつ現実の地形と折り合って行かねばならない。「逢坂越え」もその典型で、大津側からの当初のルートは今よりも南側、旧東海道に沿って25‰の急勾配を登り、長さ665mのトンネルで逢坂山を越え(旧逢坂山隧道)、その後は山科盆地を南西に横切った上で、伏見稲荷大社のある稲荷山の南を回り込み、現在のJR奈良線・稲荷駅から京都を目指すというものだったのだ。大津・京都間を結ぶものとしてはいかにも大回りだが、難関の逢坂越えに加えて、地盤が軟弱とされた東山を避けるという意図もあったようである。
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 なお、このルートを建設する過程で、665mの逢坂山トンネルは、外国人技師の力に頼らずに日本人だけで完成させた日本初の山岳トンネルとなったという。明治13年といえば西南戦争の後だ。深刻な財政難に陥っていたはずの明治新政府も、よく頑張ったものだと思う。そして、新逢坂トンネルと東山トンネルを伴う現在のルートに変更となったのは大正10年。勾配も緩和されてスピードアップに大きく貢献したことだろう。現代の私たちは、この新ルートよりも南側を走る東海道新幹線で通過してしまうことが多いから、かつての逢坂越えの苦労を想像する暇もなく京都に着いてしまう。やはりたまには在来線で旅をしてみるものである。

 さて、大津駅で降りた私は駅前ロータリーに出た。考えてみれば、私が物心ついてから滋賀県に足を踏み入れるのはこれが初めてのことである。観光案内の地図を見ていたら、駅から歩いて直ぐのところに露国皇太子遭難の碑があるという。おお、明治24年のあの大津事件の現場なのか。それは是非とも見てみよう。

 駅前から琵琶湖に向かって大通りを下って行くと、大きな交差点の先の路地に、あまり目立たない石碑が一つ。「比附近露国皇太子遭難之地」とある。その前の道は旧東海道だそうだ。
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 日露戦争の時にはロシア皇帝だったニコライ二世が、まだ皇太子の時代に日本を訪れたことがあった。シベリア鉄道の東側起工式に出席するために軍艦ではるばるやって来た皇太子は、その途中に九州経由で神戸に寄港。京都を訪れ、そこからの日帰り観光で琵琶湖にも足を延ばしていた。その途上で、沿道の警備をしていた津田三蔵巡査が突然サーベルを抜いて皇太子に襲いかかり、頭部を負傷させるという事件が起きたのだ。津田は日頃から日本に対するロシアの行動に不快感を募らせており、ニコライの訪日も敵情視察が目的だという思いがあったそうだが、外国の皇族に対してテロ行為を起こしたこの津田への刑事罰は、死刑なのか無期懲役であるべきか、政界と司法界を巻き込む大論争となったのがこの大津事件である。

 東海道沿いの現場付近は、当時は人通りで賑わっていたのだろうが、日曜日の朝ともあって今はひっそりとしている。

 その旧東海道をそのまま西に進み、だいぶ行ったところで右に折れて琵琶湖に近づくように歩いていくと、やがて琵琶湖疎水の取水口が現れる。琵琶湖の水を京都まで引いて京都市民の水道用水とする他、水運や水力発電によって新たな産業を興すために建設された水路。それは、明治になって首都機能が東京に移り、衰退を続けていた京都の復興プロジェクトでもあった。
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(琵琶湖疎水の取水口。前方が琵琶湖の方向)

 琵琶湖側の取水口から水路を作り、長いトンネルで山を貫いて、明治23年に第一疎水が完成。更には京都の蹴上(けあげ)で大きな落差を利用して水力発電を行い、その電力を利用して舟を京都側から琵琶湖側に持ち上げるために長さ640mのインクライン(傾斜鉄道)を建設。それらの運転開始は翌明治24年というから、まさにニコライが大津を訪れた年のことである。(もう一つ言えば、この蹴上で発電した電力を利用して、明治28年に京都電気鉄道が京都・伏見間で営業を開始。日本で初めて電車を走らせたのである。)これに続いて第二疎水の建設も行われ、それが完成したのは明治45年のことであった。
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(京都市上下水道局のHPより拝借)

 先人たちは偉かった! 取水口から山へと向かっていく琵琶湖疎水を眺めながら、そう思う他はない。
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 疎水を渡って更に歩いて行くと、道はやがて大きな参道と交差する。そこを左に向かえば有名な園城寺(三井寺)の入口が待っている。

 長等山園城寺。言うまでもなく天台寺門宗の総本山である。平安時代の初期、第五代天台座主・智証大師円珍(814~891、空海の甥にあたるそうだ)によって天台別院として中興された。

 開祖・伝教大師最澄(766~822)亡き後、日本天台宗では第三代天台座主・慈覚大師円仁(794~864)と円珍の二人が抜きんでた存在となるのだが、その二人の間での仏教解釈の違いから後の世代の中で争いが起こり、比叡山延暦寺は円仁門流が多数派を占めたため、円珍派は山を下りることになる。その時に彼らが拠ったのがこの園城寺だった。
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(園城寺の入口に立つ仁王門)

 以来、山門派(延暦寺)と寺門宗(園城寺)は対立を続けることになる。四宗(円・密・禅・戒)兼学を旨とする山門派に対して寺門宗は四宗+修験の五法門を唱えるというが、両者の対立の原因がそれだけのことなのかどうか、私にはわからない。

 仁王門の横から境内に入り、石段を登ると国宝の金堂が正面に聳えている。延暦寺との対立の中で園城寺は焼き討ちに遭うことも数多く、この金堂も16世紀末に秀吉の遺志を継いで再建されたものだそうだ。
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 山の東斜面全体が寺域であるような園城寺。広々とした境内を歩き回るには相応の時間が必要だ。重要文化財の三重塔、同じく重文の釈迦堂、毘沙門堂などを見て歩くと、それぞれに山の自然と一体化したような落ち着いた佇まいが立派である。明治の初めに来日し、この国の自然と伝統美術をこよなく愛して岡倉天心(1863~1913)を支援した米国人アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853~1908)やウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926)が眠る墓も、この境内にあるそうだ。
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 それにしても、昨日の土曜日の京都の大混雑とは対照的に、園城寺の境内は何と静かなことか。
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 琵琶湖を望む観音堂からは、甍の向こうに比叡山の山並みが見えている。山門派・寺門宗の争いといっても、この距離の中でのことだったのだ。箱庭の中での争いごとのようで、何だか微笑ましくもなってしまう。辺りの桜の木では蕾が大きくなっていて、あと一週間もすればこの山でも開花が始まりそうだが、その時に訪れたならば、どんなに素晴らしい眺めが待っていることだろう。
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 さて、この園城寺は平安時代初期の智証大師・円珍が中興の祖であることについて先に触れたが、それ以降の寺門宗としての歴史もさることながら、私にとってより興味が湧くのは円珍の時代以前の、この寺の創建に係わることである。

(to be continued)

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