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大津にて (3) [歴史]

 
 土曜日の夕方に京都に集まり、大学時代のゼミの同期生たちと楽しく過ごした、その翌日の日曜日。私は京都から在来線に乗って滋賀県の大津を初めて訪れ、ちょっとした一人旅を楽しんでいる。

 広い境内を持つ古刹・園城寺(三井寺)では、桜の開花を待つばかりの山の静寂さをかみしめ、更に北方向へ1キロほど歩いた弘文天皇陵新羅善神堂では、日本古代史が激動期を迎えていた壬申の乱(672年)の前後のこの国の姿に思いを馳せていた。

 新羅善神堂から緩い坂道を降りると、県道の反対側に京阪電鉄石山坂本(いしやまさかもと)線大津市役所前とい小さな駅がある。前々日の3月16日までは「別所」という名前の駅だった。「別所」というと、別の場所という一般的な意味の他に、

①(仏教関係用語で)本寺の周辺にあり、修行者が草庵などを建てて集まっている地域。平安後期から鎌倉時代にかけ浄土信仰の興隆とともに盛んになった。
②新たに開墾した土地。(以上、『三省堂スーパー大辞林』より)

という意味があるようだが、平安時代の初期に比叡山延暦寺と袂を分かつ形で智証大師円珍の門流が三井寺にやって来た、その歴史と何か関係があるのだろうか。(もっとも、昭和2年にこの鉄道路線が開業した時の駅名は「兵営前」だったようだが。)
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 その大津市役所前駅の短いホームで待つことしばし、比叡山の山並みを背後に、石山寺行きの二両連結の電車がトコトコとやって来た。そして、左右にカーブを切りながら琵琶湖疎水を渡ると三井寺駅、そこから道路の中央を走る路面電車区間になって、程なくびわ湖浜大津駅に到着する。(ここも前々日までは名前が「浜大津」だった。)ここは京都方面に向かう京阪電鉄京津線との乗換駅で、石山寺行き電車の到着に合わせて、電留線から京津線・太秦天神川行きの四両連結の電車が反対側ホームに入線して来る。今日はこの路線に乗ることを楽しみにしていた。
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(左が石山坂本線、右が京津線の電車)

 明治13年に官設鉄道の大津・京都間が開業した時、そのルートは東海道沿いに急勾配で逢坂山の斜面を登り、山科盆地を南西に横切り、更に稲荷山の南を回り込んで京都に向かう大回りのルートだったこと、そして、長大トンネルを掘れるようになった大正10年に現在の大津・京都間のルートが開業したことは、前々回にこのブログで述べた通りである。しかし、その官設鉄道の新ルート開業を待たずに、大津と京都を手っ取り早く結ぼうという鉄道業者が現れた。官鉄の京都駅は京都の伝統的な繁華街からは随分と南に外れており、官鉄はルートが大回りなだけでなく、京都駅自体が不便な場所にあったのだ。

 それが明治39年設立の京津電気軌道で、大正元年に浜大津と京都の三条大橋を結ぶ10kmの路線を開業した。たったの10km?と思ってしまうが、両者の間は遠回りをしなければそれぐらいの距離なのである。
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 この京津電気軌道を前身とする現在の京阪電鉄京津線(「きょうつせん」ではなくて「けいしんせん」が正しい読み方だそうだ)。見ての通りの四両連結の電車なのだが、これが大津市内の路面電車の区間、逢坂山を越える山登り区間、そして京都市営地下鉄に乗り入れる地下鉄区間という三つの顔を持つ、極めてユニークな鉄道なのである。

 びわ湖浜大津駅を出発した電車は、直ぐに大通りの交差点を半径43mの急カーブで左に曲がり、琵琶湖を背に、路面電車として大通りを登って行く。日本の軌道法では列車長が最大30mと定められているが、この路線では特例でこの長さを超える四両連結の電車が走ることが認められているそうだ。そして700m弱の路面電車区間が終わると、今度はこの路線で最も急な半径40mの右カーブで専用軌道に入り、上栄町駅に停車。いよいよ山岳路線が始まる。
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(路面電車区間を走る京阪京津線の電車)

 上栄町駅を出ると、そこからは急カーブで速度制限が20km/hの箇所が連続する。そして、車内にいると気がつかないのだが、人家に近い急カーブの箇所では、車輪と線路が軋む音を緩和するために水煙を上げるスプリンクラーを作動させているそうだ。

 程なくJR東海道本線の線路をオーバーパスして右カーブ。そして今度は左カーブで国道161号を横断すると、逢坂山トンネルまでの間は国道1号の下り(京都方面行き)側に沿ってゆっくりと勾配を登り続ける。最大で61‰の急勾配は箱根登山鉄道の80‰に次ぐ国内第二位、アプト式の大井川鉄道井川線の90‰を加えても第三位というから大変な難所なのである。
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(京阪京津線の山越え部分)

 そして、この区間のハイライトがいよいよやって来る。名神高速道路の下を潜って間もなく、半径45mの右急カーブで逢坂山トンネルへと入って行く箇所だ。長さ約250mのトンネルの中も上り勾配が続いていて、それを抜け出た先がピークになる。今度は線路が国道1号の上り(大津方面行)側に並行するようになり、勾配を下り始めて直ぐに大谷駅に到着する。この駅自体が40‰の急勾配の途中にあるために、私は気がつかなかったのだがホームのベンチは勾配に合わせて左右の脚の長さが異なるという。
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 大谷駅の北側には「百人一首」で有名な蝉丸(せみまる)を祀った蝉丸神社。蝉丸は生没年が共に不明で、皇族の血統を持っていたという噂があること、盲目ながら琵琶の大変な名人だったこと、そしてこの逢坂に住んでいたことぐらいしかわかっていないようだ。

 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 平安時代の昔から、この逢坂越えが東西交通の要所であったことをこの歌は示しているのだが、東京に生まれ、その後も基本的には東京で育った私には、「箱根の山は天下の険」なら肌感覚はあっても、「逢坂山」には今までどうも具体的なイメージが湧かなかった。それだけに、鉄道が大津と京都を結ぶ時代になってからも「逢坂の関」が引続き難関であったことを、今回乗ってみた京津線の電車が文字通り身をもって教えてくれたように思う。

 さて、大谷駅を出た電車は、今までの山越えの区間とは異なり、わりと直線部分が続くルートで山科盆地へと下りて行く。四宮駅からは殆ど平坦になり、JR山科駅の直ぐ南にある京阪山科駅に停車。この場所を初めて「山科」と名乗ったのは大正元年8月に開業したこの京津線の駅なのだが、後の大正10年8月に官鉄東海道本線のルート変更で山科駅がここに設置されると、京津線の方は「山科駅前」駅に変更となった。官と民との関係は常にそういうものであるようだ。

 京阪山科駅を出ると直ぐにS字カーブでJRの線路を潜り、電車は平成9年から始まった京都市営地下鉄東西線への乗り入れのために地下へと潜って行く。そして最初の停車駅が御陵(みささぎ)である。(以前のルートは京都の三条までずっと地上を走っていた。)ホームが地下2階と3階に分かれた駅で、地上に出ると幅の狭い県道が走っている。

 この駅で降りた理由は、その駅名にあった。「御陵」とは付近にある天智天皇山科陵のことだ。今朝、大津の三井寺や弘文天皇御陵、新羅善神堂を訪れ、私があれこれと想像を巡らせていた、あの天智天皇の陵墓とされている場所である。

 前回の記事で少し触れたが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に惨敗を喫した中大兄皇子は、4年後の667年に近江大津京に遷都し、翌年に即位。後に「天智」の諡号を贈られる天皇となるのだが、その即位から4年足らずの672年の年初(旧暦では671年の年末)に崩御。その事情について「宮中での病死」を示唆する日本書紀の記述に対して、「遠乗りに出たまま行方不明となり、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした」との噂を記載した文献が存在。しかも現に宮内庁が今も管轄している「天智天皇陵」が近江大津の地から山々を隔てた山科の地に存在するのだ。それならば、大津から京都へ戻る道すがら、是非立ち寄ってみようではないか。
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 電車を降りた御陵駅から県道を大津方向へ500mほど戻ると、道の左側にその陵墓の入口がある。そこからは森の中に石畳の道が真っ直ぐ続き、それを更に500mほど進むと、歴代天皇特有の形をした陵墓が現れる。背後は深い森で、訪れる人など誰もいない。まさに静寂だけが支配する空間だ。その静寂に包まれながら、私は改めて考えてみた。
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 近江大津京と天智天皇山科陵の間には、比叡山から南へと続く幾多の山々によって隔てられている。その当時、この山々に入り込んで大津京から山科へと抜けて行く山道があったとしても、「馬で遠乗りに出る」ルートとは考えにくい。天智天皇が本当に馬で遠乗りに出かけたのならば、それはやはり逢坂の関を越えて行く通常のルートだったのではないか。だとすれば、平安京はおろか平城京もまだ開かれていない時期に、山科には何の用事があって立ち寄ったのだろう。
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(再掲)

 この出来事が「遠乗りに出かけて行方不明になった」のではなく、「遠乗りの途中で暗殺された」という説を取るのなら、「沓が落ちていた」という場所は本当に暗殺現場の近辺だったのか。そうでないなら何処だったのか。そして、天智のものと伝えられる陵墓が、明らかに地縁のある近江大津ではなくてなぜ山科の地にあるのだろうか。

 いずれにせよ、山科の陵墓からは近江大津京も琵琶湖も眺めることは出来ない。にもかかわらずこの地に天智天皇の陵墓が造られたのであれば、何等かの事情があって、「霊魂を鎮めるために事故(もしくは事件)現場付近に取り急ぎ陵墓を造る」ことが優先されたということではないだろうか。そして、天智の「崩御」から幾らも経たないうちに壬申の乱が始まったことから考えると、天智が「遠乗りに出かけたまま帰還しなかった」事故または事件の背景に、天智への対抗勢力としての大海人皇子(後の天武天皇)の存在が多分にあったのではないか・・・。

 恐らくは本人にとって不本意な形で葬られたのであろう天智天皇。だが、時代が明治に入り、都としてのステータスを失って衰退を始めた京都に対する「復興プロジェクト」として琵琶湖疎水の建設が始まり、三井寺の直ぐ南を取水口として山を貫くトンネルに入ったその水路は、山科盆地で再び地上に姿を現し、この天智天皇山科陵のすぐ北側を回り込むようにして京都へと流れている。天智天皇の崩御から1200年余り。琵琶湖疎水の開通が琵琶湖と天智天皇とを再び繋ぐことになったのだから、歴史というのは何とも不思議なものである。
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 京都から立ち寄った大津への半日の旅。それは私にとって久しぶりの、足で歩く歴史旅であり、なおかつ大好きな乗り鉄の旅でもあった。京阪京津線は車両の更新時期が迫る中、赤字路線であるためにその将来が取り沙汰されているようだが、是非存続して欲しいものである。そしてそのためにも、遠からずまた乗りに出かけることにしよう。

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