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備忘録 (2) [自分史]


 諸般の事情で今年(2018年)の4月15日以降6ヶ月にわたって中断していたこのブログ。前回記事にて予告した通り、その間の出来事をごく簡単なダイジェストの形にして、備忘録の代わりとしたい。

4月22日(日) 奥多摩・浅間嶺

 中学・高校時代の同級生たちをはじめとする総勢6名で奥多摩の浅間嶺(せんげんれい、903m)へ。この山には何度も登ったが、新緑の季節は特に素晴らしい。
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 それぞれのメンバーにとっても久しぶりの山歩きだったので、武蔵五日市駅からタクシーで峠の茶屋まで上がり、浅間嶺のピークから浅間尾根を経て数馬の湯までののんびりハイキング。穏やかに晴れ渡った春の一日、奥多摩の山の良さを改めて満喫。還暦から2年を過ぎた私たちには、だんだんとこうした山が身の丈に合って行くのだろう。
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5月2日(水) 変わり続ける渋谷

 連休の間の工事で東京メトロ銀座線・渋谷駅手前のガードで線路の付け替えが行われるというので、風景が変わってしまう前に現地を撮影。
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(工事の後は、左に用意された線路を走るんだろう。) 

 渋谷駅前というと、長い工事が昔からつきものだったが、今もまた大規模な工事が続いている。私が子供の頃、1964(昭和39)年のオリンピックで渋谷の街はその様相が大きく変わったが、2020年の次回オリンピックを前に、またその姿を変えようとしている。まあ、この独特のカオスが渋谷の魅力の一つでもあるのだけれど。
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5月5日(土) 都留市・高川山

 四連休後半の土曜日。あまりに天気がいいので、富士山の眺めを目当てに山梨県都留市の高川山(976m)へ単独行で出かけることにした。
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 昨年の4月25日に膵臓がんの手術を受けてから1年。高尾山へのリハビリ登山も含めて、日帰りの山歩きはこれで5回目だが、ソロで行くのは初回。そのことには家内も相応に心配していたのだが、今までに何度も歩いたことのある山で、転がり落ちるような箇所もなく、登山者も相応にいる山だからと説明。私自身もここで事故を起こして人様に迷惑をかける訳にはいかないので、低山といえども慎重に歩いた。
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 楽しみにしていた富士の眺めは申し分なく、緑のシャワーを浴びているかのような爽やかな登山道が、強く印象に残った。
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5月20日(日) 初夏の都心

 実家の母親が5月の初めに骨盤を骨折。連休が明けてからようやく入院する病院が決まり、暫くは母の見舞いが続く。風薫る5月。病院は麻布十番からほど近く、週末の見舞いの帰りに家内とグラス一杯のスパークリング・ワインを楽しむ機会も出来た。
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 母もこの秋には87歳。実家での一人暮らしはさすがにもう無理だ。妹の一家とも話し合いながら、その後の週末は老人ホームを見て回ることが続いた。春先から気温が高めの今年。街中では例年より早くツツジが咲き終わり、いつの間にか紫陽花の季節になっていた。
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6月2日(土) 戦艦三笠

 海軍記念日から一週間遅れで横須賀の戦艦三笠を見学。朝から天気晴朗にして波穏やかな、見事な五月晴れで、三笠の威容と海軍旗の鮮やかな紅白が青空によく映えていた。
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 日清戦争の後、来るべきロシアとの対決を念頭に艦隊の近代化を図るべく、1898(明治32)年9月に英国ヴィッカース社に発注された三笠。それは建造に2年半を要し、1902(明治35)年3月に英サウザンプトン港で日本海軍に引き渡された。アマゾンで物を買うのとは訳が違い、完成した戦艦を日本に送り届けてくれたりはしない。海軍は自分で取りに行く必要があったのだ。

 だから、将官から水兵に至るまでが英国へ行き、自分で操舵して、スエズ運河経由2ヶ月の期間をかけて日本に帰還した。あの時期、水兵に至るまでが自分の目で外国を見て来たというのは、実に貴重な体験であったことだろう。
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 三笠はその翌年に連合艦隊の旗艦となり、更にその翌年の1904(明治27)年2月には、遂に口火を切った日露戦争において旅順口攻撃に出動している。バルチック艦隊を撃破したあの日本海海戦がその翌年の5月27日であったことは言うまでもない。つまり、戦艦三笠は日本に運ばれてからこんなスピード感を持って実戦で活躍するまでになったのである。
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 三笠の艦内を見て歩き、艦橋に立ってみると、「坂の上の雲」ではないけれど、明治維新からまだ40年も経っていない小さな日本がこのような戦艦を駆使してロシアと対決したことに、改めて大きな感慨を持たざるを得ない。明治の人は、やはり偉かった。
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 それに引き換え、戦艦三笠を見学した今年の6月2日というと、国内では例の「モリカケ問題」の追求に野党もマスコミも血眼になっていた。海の向こうでは米朝開戦も止む無しかと言われるほど北朝鮮問題がエスカレートする中、シンガポールでの米朝首脳会談がセットされ始めた、ちょうどそんな頃だったというのに。

 世界の情勢がこんな時に、国会で延々と時間を使うべきことは「モリカケ」なんかじゃないだろう。戦艦三笠の艦橋の上で、私は心の底からそう思ったけれど、少し冷静になって考えてみると、日露戦争の「成功体験」が全てではないし、むしろそれに対する過度な礼賛がその後の日本の進路を誤らせたことも事実。現代の我々はその歴史を踏まえ、なおかつ現代の視点もしっかりと持って、この国の将来のことをもっと真面目に考えよう!
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7月7日(土) 三線軌条

 品川から金沢八景を経由して新逗子まで京急を利用する機会があり、京急逗子線の「三線軌条」を初めて見学。要するに標準軌(1435mm)と狭軌(1067mm)の各電車を相乗りさせるために、片方のレールを共用にして計3本のレールが敷かれた区間のことだ。
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(神武寺駅の品川方。分岐器から向こうが三線軌条)

 昭和23年、戦時統制下の産物だった「大東急」から小田急・京王・京急が分離するのと前後して、横浜市金沢区の旧海軍工廠の跡地に東急が車両工場(現・総合車両製作所)を建設。東急は狭軌だが工場の目の前の京急は標準軌であるために、そこから京急新逗子線を経由し、神武寺駅の手前で分かれてJR横須賀線(狭軌)の逗子駅に至る専用線を敷設するという事情があった。その専用線と京急新逗子線が重なる区間が三線軌条なのである。
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 金沢八景駅のホームから眺めてみると、新逗子線から京急本線へと至る標準軌の線路と、三線軌条のまま車両工場へと至る線路とを切り分ける分岐器が複雑な構造をしていることがわかる。
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 更には、途中の六浦駅で標準軌の京急の車輛が停車した時にホームとの間隔が空き過ぎないよう、それまでは一番ホーム寄りのレールを狭軌と標準軌の共用レールにしていたのを、六浦駅の前後だけはホームから一番遠い線路が共用レールになるように狭軌の電車を誘導する装置が設置されている。
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(六浦駅の品川方。狭軌の電車を線路の左寄りから右寄りに誘導する装置)

 こんな風に工夫が必要な三線軌条。それは首都圏では京急逗子線だけでしか見られない。何につけても実物を見るというのは興味深いものである。
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