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欧州の秋 (3) ルターと新教 [世界]


 ドイツのテューリンゲン州アイゼナッハ。「音楽の父」ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の生地として知られるこの街の旧市街に向かって、鉄道の駅から一本道を歩き、石造りの門を潜ってカールス広場に出ると、その中心に立派な銅像が立っている。

 誰かと思って近づいてみると、それはあの「宗教改革」で有名なマルティン・ルター(1483~1546)の像だ。体の左に抱えている大きな書籍は聖書なのだろうか。肩をいからせ、空の一点を睨む堂々たる姿。ルターといえばこんな風に、いつも何かに怒っているようなイメージがあるのだが、それにしても「バッハの街」アイゼナッハになぜルターの像が?
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 1483年にルターが生まれたのは、アイゼナッハから北東方向に100kmほど離れたザクセン・アンハルト州のアイスレーベンという村だ。農民の出身だったルターの父は、その当時鉱山の仕事に就いていたが、勤勉な男で家庭では厳格な「教育パパ」であったらしい。そんな父の期待を背負ったルターは、法律家への道を進むべくエアフルト大学を目指し、そのための準備として1498年から3年間、アイゼナッハの聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだという。それは、ちょうどその200年後に8歳のヨハン・セバスティアン・バッハが入学したのと同じ学校なのだ。

 そしてその3年間にルターが寄宿したという、聖ゲオルグ教会を間近に望む場所に建つ家が、今はルターハウスという記念館になっている。16世紀当時の姿そのままのような建物で、その右隣に建てられた新館から入場することになる。館内にはルターが学んだ頃の机が残されていた。
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(アイゼナッハのルターハウス。右のガラス張りの建物が新館)

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(ルターが学んだ机)

 ここに学んだ後、1501年にルターは望み通りエアフルト大学に入学。哲学を学び、成績は優秀であったそうだ。そして更に法学の道へと進むのだが、1505年の或る日、大学へ向かう途中、エアフルト近郊の草原で激しい雷雨に遭遇。落雷死寸前の体験をする中で信仰に目覚め、父にも無断で大学を離れてしまい、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入門したという。そして早くも翌年には司祭になっている。
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 修道会で祈りと研究の日々を過ごすルターは、やがて新設のヴィッテンベルク大学で神学の博士号を取り、聖書の注解を受け持つのだが、その過程において、簡単に言えば「人間が罪を許され、神との霊的な交わりに入れるのは、善行によってではなく、ただ神への信仰によるのみである」という理解に達したという。「信仰あるのみ」という言葉はここから来ているようだ。
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(マルティン・ルター関連地図)

 その立場からすると、当時ドイツで盛んに販売されていた贖宥状(昔の言葉でいう「免罪符」)の存在-しかもそれは、或る人物が複数の大司教の地位を得ようとしてローマ教皇庁に多額の献金を行うための手段だった-はルターにとって看過し得ないものとなる。このあたりから、学生時代の世界史の授業に出て来たルターの姿がいよいよ登場する訳だ。

 1517年10月31日、当時33歳のルターは、マインツ大司教アルブレヒトが発布した贖宥状販売の「指導要綱」に疑問を投げかけた書簡、いわゆる「95ヶ条の論題」を送る。ヴィッテンベルクの教会の扉に釘でこの書簡を打ち付けた、という風によく語られるが、実際にはそういう事実は確認されていないそうである。
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 ともあれ、かかる書簡を突き付けられたローマ教会側は、1518年にアウグスブルクでルターに対する審問を行うが、彼が自説を曲げなかったために対立は決定的となり、1521年にローマ教皇レオ10世によってルターは遂に破門を宣告される。更には法律の保護の外に置かれたため、身の危険を感じたルターはザクセン選帝侯フリードリヒを頼り、アイゼナッハのヴァルトブルク城で2年間の隠遁生活を送ることになった。その間にルターはラテン語で書かれていた新約聖書のドイツ語訳を行い、当時既に普及していた活版印刷のおかげもあって、聖職者ではない一般の人々でも直接聖書を読む時代を切り開いていくことになる。
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(アイゼナッハ駅付近から眺めるヴァルトブルク城)

 そんな訳で、聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだことと、ヴァルトブルク城に隠れ住んだことの二つにおいてルターはアイゼナッハとの縁があり、それゆえにルターはJ.S.バッハと並ぶこの街の誇りなのである。

 アイゼナッハのルターハウスを一通り見学してロビーに戻って来ると、反対側の新館では特別展として「異端・分派活動家・宗教指導者 - カトリックから見たルター」という展示が行われていた。覗いてみると、ルターの言動がカトリック側からどのような偏見を持って見られていたかということを説明しているコーナーだ。面白いのは、カトリック側から言い立てられたことを記したものを青メガネをかけてから眺めると、違ったように見えるようになっている。例えばこんな具合だ。
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 ルターは贖宥状を販売する教会に対して論戦を挑み、審問の際にも決して自説を曲げなかった。加えて、従来カトリック教会では聖職者の独身が守られて来たが、ルターは結婚が必ずしも信仰を妨げるものではないとして、修道者に対して結婚を斡旋することも多かったという。そればかりか、彼自身も女性たちが修道院から脱する手助けをして、その中の一人であった15歳年下の元修道女と結婚をして6人の子をもうけている。だから、彼のそうした言動に対してカトリック側から激しい誹謗中傷の数々があったことは想像に難くない。この展示はその中の典型的な中傷に対するルター派の立場からの反論だから、そう思って眺める必要があるのだろうけれど、何だか笑えてしまうものもあって、私には興味深かった。
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(特別展の入口)

 アイゼナッハを実際に訪れる機会がやって来るなどとは想像もしていなかった今年の初め、私は『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』(深井 智朗 著、中公新書)という新刊書を読んでいた。
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★ 1517年に始まったルターの「宗教改革」。それはカトリック教会の権威を大きく揺るがす結果となったけれど、ルター自身はあくまでもカトリックの信者として活動をしただけで、決してキリスト教界に「革命」を起こそうとは思っていなかった。

★ むしろルター以降の人々によって、彼の主張はカトリックと対立する「新教」となり、ルター本人の意志とは異なる方向へと進んでいった。

★ ルター派のプロテスタンティズムは、19世紀のドイツ統一の過程でナショナリズムを鼓舞するものとして利用され、ドイツの政治的・宗教的保守主義の源流であり続けた。

★ 現代の「リベラリズム」に繋がる(とりわけ米国の)プロテスタンティズムは、いわゆる「宗教改革」で主流の座に上ったルター派からは排斥された人々によって始められたものだった・・・。

 受験の世界史でルターやカルヴァンの名前を暗記し、大学時代にマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ、そのあたりでいわゆる「宗教改革」についての私たちの理解は止まっている。そういう点では、従来私たちが抱えて来た「新教」のイメージとは異なるプロテスタンティズムの実像を、幅広い観点から描き出したこの新書本はなかなかの好著だと、今改めて思う。
(To be continued)

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