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欧州の秋 (4) ローカルとグローバル [世界]


2018年9月29日(土)

 J.S.バッハ(1685~1750)が生まれた街、ドイツ・テューリンゲン州のアイゼナッハを朝から訪れていた私は、昼を過ぎてから駅に戻り、ライプツィヒを目指して再び列車の旅に発つ。引続きよく晴れた午後、ハンブルグ行きの特急ICE690は定刻通り14:01にアイゼナッハ駅を出て、平坦な地形の中を東に向かって走り始めた。
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(ICEハンブルグ行。日本ではもう見られない食堂車がドイツのICEにはまだ残っている。)

 今朝ミュンヘン中央駅を発って、アウグスブルグ、シュトゥットガルト、フランクフルトを経由してやって来たこの列車、この後はベルリン経由で終点のハンブルグに向かうのだが、そのベルリンへ行く途上でライプツィヒは通らないから、途中のハレという駅で乗り換えが必要だ。従ってこのICEにはちょうど1時間ほどの乗車になる。

 アイゼナッハの旧市街の中を結構歩き回った後だけに、ともかくもこの1時間は指定席でゆっくり出来るのがありがたい。車窓を眺めているうちにトロッとしてしまったようで、ハレ到着前の車内放送で目が覚めた。
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 15:04 ハレ到着。地下道に降りて二つ南側のホームに上がると、Sバーンと呼ばれる都市近郊型の電車が待っていた。日本の電車に比べると厳(いか)つい面構えだ。元々ハレとライプツィヒでは個々にSバーンの運行が行われていたのだが、今世紀に入ってから両者が中部ドイツSバーン(S-Bahn Mitteldeutschland)として統合されたという。従ってSバーンの路線図も一つのもので、路線番号も両者間で統一されている。
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 ドイツ出張の機会を利用して、本来のビジネスの日程よりも早めにドイツ入りし、敬愛するJ.S.バッハゆかりの街を訪ねることにした一人旅。実は、私が列車を乗り換えたハレ(Halle)という街も、バッハとの縁がない訳ではない。

 バッハと同じ1685年にこのハレで生まれた音楽家がいた。管弦楽組曲「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」で有名なゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(~1759)である。音楽家一族に生まれたバッハとは異なり、ヘンデルの父は宮廷に召し抱えられた医者であり、幼い頃から音楽への才能を見せていたヘンデルがその道に進むことを、父は望んでいなかったという。17歳でハレ大学に進んだが直ぐにハンブルグに移り、4年間のイタリア滞在を経て25歳でロンドンに渡り、そこで作曲したオペラが大成功。2年後の1707年には英国に帰化を申請。以後もロンドンに住み続け、オペラやオラトリオの数々で名声を上げ、没後はウェストミンスター教会に埋葬されるという栄誉を得ている。

 そのヘンデルに一度会ってみようと、バッハが面会を申し入れたことが二度あったそうだ。初回は1719年というから二人が共に34歳の年である。当時バッハはハレから6kmほど北へ行ったケーテン(Köthen)という小さな街で宮廷音楽家を務めていた。彼が室内楽曲や器楽曲の分野で粒ぞろいの名曲の数々を生み出していた頃だが、遠くロンドンで名声を上げたヘンデルがハレに帰郷しているとの話を聞きつけて、実際にハレまで会いに行ったのである。ところがヘンデルはその日には既にハレを離れていて、残念ながら面会は叶わなかった。

 二度目の機会はそれから10年後の1729年。バッハは既にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に就任しており、ハレ滞在中のヘンデルに対して息子のフリーデマン・バッハを通じてライプツィヒへの招待状を届けたのだが、ヘンデル側の都合により断られたという。

 という訳で二人の面会は遂に実現しなかったのだが、それにしても同じ年に中部ドイツで生まれながら、色々な意味で対照的な人生を歩んだ二人であったことは興味深い。

 既に述べたようにヘンデルは個人の才能によって音楽家となり、作品はオペラやオラトリオが中心で、故郷のハレから遠く離れたロンドンで成功を収めて広く世界にその名を知られた、言わばグローバルに活動する音楽家としてその人生を歩んだ。他方、生涯を通じて独身であった。

 これに対して、バッハはアイゼナッハの音楽家一族に生まれ、その後もテューリンゲンやザクセン一帯から外に出ることはなく、ローカルな音楽家に徹する人生であった。しかし、その作品群は宗教曲から世俗曲まで、そしてソロの器楽曲から協奏曲まで幅広く(但しオペラは作曲していない)、死別した先妻と16歳年下の後妻との間に計20人の子をもうけている(但し成人したのは10人だった)。
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 こんな風に対照的な二人だが、後世に至るまでの存在感を比べてしまうと、それはもう圧倒的にバッハの方が大きいと言える。二人の没後から既に250年以上が経過した今もなお、様々な演奏スタイルや編曲によってその音楽が人々に親しまれているのは、やはりバッハの作品なのである。

 「バッハ以前のあらゆる音楽はバッハに集約され、バッハ以後のあらゆる音楽はバッハに遡ることが出来る、西洋の音楽史上において余人を寄せ付けない一つの分水嶺である。」

 だいぶ以前に読んだことのある本の中で、或る学者がこんな風なことを書いていたが、それは決して大袈裟な表現ではないだろう。

 ハレで乗り換えた近郊型電車は平地の中を20分足らず突っ走り、Leipzig Messeという駅に到着。ここで降りてそのまま待っていればライプツィヒ中央駅行の別の電車がやって来ると思っていたのだが、降車した人々は皆がホームの階段を降りて行く。そこには乗って来た近郊型電車のガードと直角に交わる形で路面電車の線路があり、もしかしたら東独時代のものをまだ使っているのかな?と思ってしまうぐらいにレトロなデザインの三両連結のトラムがやって来た。
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(Leipzig Messe駅でトラムに乗り換え)
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 係員が誘導していて、Central station方面行きの電車だと英語でも叫んでいる。私はそれなりに大荷物を持ってはいたのだが、混雑したそのトラムに乗車。約20分でライプツィヒ中央駅前の電停に到着することになった。
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 時刻はちょうど午後4時。日没までにはまだ3時間弱あるのだが、太陽の輝きに少し赤みが増していた。
(To be continued)

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