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欧州の秋 (6) ライプツィヒあれこれ [世界]


2018年9月30日(日)

 ドイツのザクセン州ライプツィヒ。その中央駅から歩いて直ぐのホテルで一夜を過ごした私は、簡単に朝食を済ませて荷造りを開始。何しろ今回の行程では欧州滞在中の7泊はいずれも異なるホテルに泊まる予定なので、毎日が引越である。出張に引っ掛けた一人旅も今日までで、明日からは自分の身一つではない。貴重な自由時間を無駄にせぬよう、今日もせっせと歩き回ろう。

 今日は真昼の列車でベルリンへ移動する予定なので、ライプツィヒ滞在もあと3時間強。街の中を気の向くままに歩いてみようか。幸い空は二日続きの快晴。聖ニコラス教会の前の広場はもう賑わっていて、中央に飾られた秋の実りのディスプレイが素敵だ。
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 街の南の方へ行くために、昨日に続いてマルクト広場を通り抜ける。昨夜は気がつかなかったのだが、マルクト広場の前に建つのはライプツィヒの旧市庁舎。その全容を見るためにGoogle Earthの画像をここに貼り付けるが、解説本によれば1557年の竣工で、「ドイツ・ルネサンス建築で最も美しい建造物」なのだそうである。
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(ライプツィヒのマルクト広場と旧市庁舎)

 しかし、「ドイツ・ルネサンス建築」とは聞き慣れない言葉だ。15世紀にフィレンツェで開花したルネサンス建築がアルプス以北の国々へと展開して行ったのは16世紀になってからだそうだが、その16世紀はドイツにとっては宗教改革の混乱期。ルネサンス建築の伝播は散発的なものに留まったという。だとすれば、当時のドイツには数少ない例として、「時代の最先端」の建築様式による市庁舎がライプツィヒに建てられたということは、この街がそれだけの力を持っていたということだろう。

 ところが私たちは中世から近世にかけての、現在のドイツにあたる地域(神聖ローマ帝国)の歴史を殆ど理解していない。英仏のような絶対王政が登場せず、小さな領邦に分かれたモザイク状態がいつまでも続き、神聖ローマ帝国とは名ばかりで「神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらない」などと言われたぐらいだから、よほど好きでない限りはドイツの地域史を追ったりはしないものだ。だから私も、ライプツィヒを含むザクセン地方の歴史を通史的に眺めるなどということはしたことがない。時間がない今は、もう少し大掴みにおさらいをしてみよう。
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(聖ニコライ教会)

 私の息子が高校生だった頃の世界史の教科書を借りてきて調べてみると、こんな記述がある。

 「大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。また1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカからの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。」

 「西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。」
(『詳説 世界史B』2005/3/5発行 山川出版社)

 なるほど、大航海時代というのはスペインやポルトガルだけが好景気に沸いたのではなくて、ヨーロッパの内陸地方も含めて分業体制が出来て物流が盛んになり、インフレも起きたということか。そしてそれが封建領主の没落と商業都市の繁栄をもたらしたという訳だ。

 実は、学校では教わらないことなのだが、12~14世紀にかけて、ドイツ騎士団等によって行われた所謂「東方植民」によって、スラブ人の居住地であったエルベ川以東への植民が進むと、やがてヨーロッパを南北と東西に結ぶ二つの通商路が形成されていったという。バルト海からベルリン・アウグスブルグを経てアルプスを越えローマに至る南北の道はVia Imperii(帝国の道)、モスクワからフランクフルトやパリを経てポルトガルへと至る東西の道はVia Regia(国王の道)と、それぞれ呼ばれたそうだ。そして両者が交差する場所が、何とこのライプツィヒだったのである。
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 それゆえライプツィヒは早くから商業都市として栄え、先ほどその前を通って来た聖ニコライ教会や、「バッハの教会」聖トーマスの原型が出来上がったのが12~13世紀のことだ。1409年創設のライプツィヒ大学は、神聖ローマ帝国内では二番目に古い大学だそうである。

 やがてこの街はザクセン選帝侯(神聖ローマ帝国の国王を選ぶ権利を持つ7人の内の1人)の領地となり、15世紀末には「賢公」と呼ばれたフリードリヒ3世が登場する。カトリック教会による贖宥状の販売を厳しく批判して1521年にローマ教皇から破門を受けたマルティン・ルターをアイゼナッハのヴァルトブルク城に匿ったのが、この賢公だ。以後、ライプツィヒは強固なルター派プロテスタントの街であり続けた。なるほど、それが後にこの街でのJ.S.バッハの活躍へと繋がっていく訳だ。

 さて、マルクト広場から更に南に進むと、高い塔を持つまるで城郭のような建物が現れた。スマホのGoogle Mapを見ると、「ライプツィヒ新市庁舎」と書いてある。1905年に建てられたもので、元はザクセン侯の城があった場所だという。城にあった高い塔をそのまま活かしたというから、道理でお城のように見えるわけだ。
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 実はマルティン・ルターも1519年にこの城を訪れている。というか、ルターを破門へと導くために仕組まれた、高名な神学者ヨハン・エックとの討論がこの城の中で行われたのだ。その席でルターはとうとう「ローマ教皇権は聖書に基づくものではない」と主張したために、問題はもはや神学論争の域を超えてしまった。それが一連の「宗教改革」運動のターニング・ポイントとなったという点で、このライプツィヒ討論は大きな出来事だったのだ。なるほど、私にとっては今回の旅でまた一つルターとの縁が出来たことになる。
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(ルター(右)とエック(左)の「ライプツィヒ討論」)

 それにしてもこの新市庁舎はやけに威圧的で、ちょっと近寄りがたいなあ。地元の人々はこんな所へ住民票の写しを取りに行くんだろうか?
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 その新市庁舎の前の広い道路を渡り、更に南方向へ進んで行くと、またとんでもない建物が現れた。なにやら国会議事堂のような形をしていて、これもまた何とも近寄りがたい雰囲気だ。再びGoogle Mapを見てみると、これはドイツ連邦行政裁判所だという。
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 更に調べてみてわかったのは、この建物は1871年のドイツ帝国の成立後、1895年にドイツ帝国最高裁判所として、ベルリンの国会議事堂と並行して立てられたのだそうだ。道理で権威主義的な姿をしている訳である。その他にも、公立図書館だとか中央警察署だとか、このあたりにはやたらと人を威圧するような外観の建物が点在していた。
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(公立図書館)

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(中央警察署。東独時代は市民にとっておっかない存在だった?)

 このような建物はデュッセルドルフのようなドイツ西部の都市では見たことがない。同じドイツでも西と東では文化が大きく異なるのだろうか。

 街の南の方をだいぶ歩いたので、荷物を預けているホテルに戻る方向に更に歩いて行くと、アウグストゥス広場に出た。その広場の南側は有名なコンサート会場のゲヴァントハウスだ。

 朝からライプツィヒの街中を歩き、ザクセン選帝侯時代の建物やドイツ帝国成立後の建物を道すがら眺めて来たが、このアウグストゥス広場は第二次大戦後、それも今から30年足らず前の現代史と大きな係わりを持っている。
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(Google Earthで俯瞰したアウグストゥス広場。画面上部がゲヴァントハウス)

 1989年11月10日、いわゆる「ベルリンの壁」の撤去作業が始まり、東西の大勢のベルリン市民が壁の上で熱狂している様子を伝えた映像は、まだ私たちの記憶にも新しい。その前日に東独政府が東独国民に対する旅行の自由化を事実上認める声明を発表したのを受けてのことだが、そこに至るまでのプロセスの発火点となったのは、実はライプツィヒにおける市民の自由化要求運動だったのである。

 ソ連でミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカが始まった1985年以降、東欧諸国でも政治の自由化を求める動きが活発になっていたが、その中で最も動きが遅かったのが、「社会主義の優等生」と呼ばれた東独だった。しかし、既に民主化を始めていたハンガリーが1989年5月に国境の鉄条網を撤去すると、チェコスロヴァキア・ハンガリー経由で西側へ脱出する国民が急増。さすがの東独にも動揺が広がった。

 ハンガリーは更に9月に入ってオーストリアとの国境の開放を正式に発表。これに対して東独政府はチェコスロヴァキアとの国境を閉鎖。これが国民の更なる反発を招き、9月25日(月)にライプツィヒで8,000人のデモ行進が始まる。以前から月曜日ごとに行われて来たこのデモは、その二週間後には7万人を超え、10月に入ると10万人規模に達した。治安当局も軍も、もはや鎮圧に乗り出すことはせず、10月17日に国家評議会議長のエーリッヒ・ホーネッカーが解任。東独の民主化は一気に加速して「ベルリンの壁」崩壊に至った。そのライプツィヒの月曜デモが行われた場所が、このアウグストゥス広場だったのだ。
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(1989年10月、ライプツィヒの「月曜デモ」)

 私は今までそういう理解をしていなかったのだが、中世・近世から現代に至るまで、実は中央ヨーロッパの臍(へそ)であり続けたライプツィヒ。実際に足を運んでみると認識を新たにすることがたくさんあるものだ。やはり、旅はしてみるものなのである。
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(アウグストゥス広場の噴水。右後方はライプツィヒ大学)

 さて、予定している列車の発車時刻がだいぶ近づいてきた。ホテルに預けた荷物をピックアップして、中央駅に向かうことにしよう。
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(ライプツィヒ中央駅)
(To be continued)


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