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再会 (3) [自分史]


 日曜日の朝、ホテルの部屋で目が覚めたのは5時半を少し回った頃だった。

 今からちょうど35年前、社会人一年生の私にとって最初の任地となった北陸の富山。そこで約3年間の支店生活を共にした先輩方と計8組の夫婦で懐かしい富山に集まった昨夜の会合は、二次会も大いに盛り上がり、ホテルに帰り着いたのは夜の11時少し前。それから大浴場で汗を流し、部屋に戻った後は家内も私も当然のことながらバタンキューだった。

 朝食までにはまだ時間がある。家内には朝風呂を楽しんでもらうことにして、私は懐かしい富山の街中へ30~40分ほど散歩に出ることにした。金曜・土曜と二日続いた晴天。今日はそれがゆっくりと下り坂になる予報だ。雨になる心配はないようだが、雲量は時間と共に増えていくようである。

 ホテルを出ると、小ぶりな富山城が昔と変わらぬ姿を見せている。
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 今は富山市の西部を南から北へ真っ直ぐに流れて海に出る神通川。けれどもそれは、昭和の初めまでは富山市内で大きく東へ蛇行し、それから半円を描くようにして現在の富山駅の北側へと流れていた。つまり、現在の松川という小さな川の流れが昔の神通川の蛇行の名残で、あの戦国の武将・佐々成政が居住した富山城は、蛇行する神通川の右岸に接して築城されていたのである。
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(松川が昔の神通川のルートだった)

 蛇行する神通川は氾濫を繰り返し、常設の橋を架けるのも難しいため、64艘の舟を鎖でつなぎ、中央に板を渡した「舟橋」が設けられた。慶長年間に加賀前田家の二代目・前田利長が造らせたのがその始まりだそうで、以後、日本一の舟橋として全国に知られるようになる。

 今月の初めに東京のサントリー美術館で「原安三郎コレクション 広重ビビッド」という美術展を開催していて、家内と二人でゆっくりと鑑賞する機会があったのだが、その際に展示されていた歌川広重の『六十余州名所図会』の中にも、この日本一の舟橋が描かれていた。水流によって舟が川下側に弧を描くから、この絵は蛇行する神通川の北側、つまり現在の富山駅のあたりから南方向を眺めた絵であることになる。
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 富山城の前から路面電車の通る道を西方向に歩き続けると、現在の神通川に架かる富山大橋の近くにやって来る。歩いてきた方向をふり返ると、今朝は立山・剣岳の山頂は雲の中だが、北方の毛勝三山が市街の彼方によく見えている。やっぱり富山は北アルプスが近いなと改めて思う。
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 そして脇道に入ると、今朝の散歩の目的地であった、かつて私が3年弱を過ごした独身寮が、ほぼそのままの姿で残っていた。私の社会人生活の第一歩がここから始まった。そう思うと、やはり胸が熱くなってしまう。
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 学生上がりで世間知らずの生意気な若者であったに違いない私を、あたたかく迎えてくれた独身寮の緒先輩方。あの時代の寮生の声が今でも聞こえて来そうだ。昨夜の会合でも話題に上った私たちの「武勇伝」の数々も、今となっては笑い話だが、若気の至りとはいえ、今から思えば随分ととんでもないことをしていたものである。

 あれから30年以上もの歳月が過ぎたというのに、思い出は尽きない。それは先輩方も同じで、だからこそ昨夜は8組の夫妻が集まることが出来たのだ。そんな風にして心の故郷を先輩方と今も共有できるとは、何と幸せなことだろう。

 昔の自分に戻ったような気分に半ば囚われながらホテルに帰り、家内と朝食をとる。そして送迎バスで富山駅に向かい、予定通り08:31発の金沢行き新幹線「つるぎ709号」に乗車。乗ってしまえば金沢までたったの22分なのだから驚きである。

 土曜日を富山で過ごすのであれば、日曜日は金沢を半日歩こうか。家内とはそんな約束をしていて、訪れるスポットも家内が行きたい場所を選んでもらった。かつての富山時代に私は何度か金沢にも遊びに行ったが、いわゆる観光スポットはあまり訪れていない。家内は学生時代に一度行ったきりだというから、どちらにとっても遠い昔のことだ。そして、若い頃と今とでは嗜好も変わる。見違えるほど近代的になった金沢駅から路線バスに乗り、私たちが最初に降り立ったのは東山ひがし茶屋街と呼ばれるエリアだった。
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 第二次大戦で米軍による空襲を受けなかった金沢は、古い町並みを至る所に残しているのだが、この茶屋街は特に伝統的な木造家屋の街並みを残している。それを目当てに、梅雨の最中の今日も、朝の10時前だというのに数多くの観光客が訪れている。その中で国指定重要文化財のお茶屋さんの中を見学させていただいたが、外国人の観光客も多く、大盛況というほどの混雑ぶりだった。

 江戸末期の文政時代から明治期にかけての木造の街並みがそのまま残るこの地区は確かに魅力的なのだが、金沢の伝統工芸を売りに観光客をあて込んだ土産物屋やカフェなども多く、私たちも最初はしげしげと眺めていたものの、次第に飽和感に囚われるようになった。一時間ほどで、もういいかなという気分になってきたのである。

 たまたまその地区の中に、家内の大学時代の先輩であるUさんが外国人観光客向けの簡易宿泊施設をこの4月に開いたというので、少しだけお邪魔して様子を拝見することにした。茶屋街の中心地から徒歩5分程度。一人幾らではなく一部屋幾らの料金体系で、食事は提供せず、トイレ、シャワー、キッチンなどは共同という、外国人が比較的安価で滞在する時に利用するタイプの宿である。
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 部屋の様子も見せていただけるというのでお言葉に甘えてしまったが、小さな個室あり、二段ベッドの大部屋あり、畳敷きの和室に二段ベッドの部屋ありと、旅行者の様々なニーズに合わせた部屋が幾つか用意されていた。
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 共同のキッチンの壁には世界地図が貼ってあり、これまでに滞在した旅行者の母国がマークされている。既に30ヶ国を超えたそうで、中国や東南アジアが中心のようだが、最近では東欧や中東からの旅行者も増えて来ているという。旅の宿はいわゆるホテルだけではなく、こうした宿泊施設で安価に、その代わりじっくりと滞在するニーズは確かにあるのだろう。そして評判が良ければインターネットを通じて世界中から予約が入る。面白い世の中になったものだ。

 最新の金沢旅行事情を拝見させていただいた私たちはUさんとお別れをして、再び路線バスを利用。金沢城址と兼六園の間を抜けて、広坂に出た。そして、金沢能楽美術館をゆっくりと見学し、すぐ隣の加賀友禅のショップを眺める。富山と同様、金沢も昨日の晴天が今日はゆっくりと曇っていくお天気なのだが、お昼に近くなり、外はだいぶ蒸し暑くなってきた。

 たまたま金沢能楽美術館の隣の二階に小さなカフェがあり、和風のケーキやアイスクリームを楽しめるようなので、そこで一休みしようと、階段を上がる。本当に行き当たりばったりで入ったカフェだったのだが、これが大正解で、広々とした間取りに席が用意され、窓から見下ろす外の緑の眺めが実に心地よい。そしてお茶のテイストのケーキやアイスクリーム・パフェのあっさりとした甘味が何とも美味であった。特に旅を急ぐ訳でもなく、伝統美術を楽しんだ後にこうしたカフェでゆったりとした一時を過ごす。家内も私も、いつの間にか大人の旅をするようになったものである。
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 カフェで緑を眺めながらしばし涼を取った後、私たちは徒歩で香林坊経由、武家屋敷街へ。その中でも、ミシュランの観光地格付けで2つ星を得たという野村家では、その縁側に腰掛けて、心落ち着く庭園をじっくりと眺めることができた。
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 武家屋敷街からは近江町市場を経由して、私たちは結局金沢駅まで歩いてしまった。午後2時を回り、駅ビルの中はお土産品の買物客で混雑。そして、東京行きの新幹線「568号」の指定席は満席だった。乗車1ヶ月前に指定券を買っておいたからよかったが、梅雨の時期ながらも北陸旅行はなかなかの盛況ぶりである。
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 昨年の北陸新幹線開業を受け、今年になって実現した「富山会」。30年以上も前に富山支店勤務でお世話になった先輩方と夫婦単位で再会することが出来た今回の集まりは、私の人生の中でも思い出に残るイベントであった。そして、4年後に再び集まることを皆で約束した以上は、お互いに今まで以上に健康に気をつけて、それぞれに夫婦仲良く暮らして行こう。

 砺波平野の水田風景が、新幹線の窓の外を流れていく。

 さらば、富山。また4年後に!

再会 (2) [自分史]


 北陸新幹線の富山駅ホームから階下に降りて南口から外に出ると、駅ビルも駅前広場も35年前からは一変していて驚いた。何ともスマートな景観になったものである。
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 市内を走る路面電車は、昔は駅前広場の片隅に電停があって駅ビルからは結構離れていたのだが、今は駅ビルを南北に縦断するような形に線路が延伸され、新幹線や在来線からの乗り換えがしやすいようになっている。しかも、市の中心部を周回運転する「環状線」が新設されたのだ。セントラムという愛称を付けられた欧州スタイルの路面電車に家内と私は早速乗り込み、街中へと向かう。ほどなく、トラムは富山城址公園の南西側を回りこむようにして、国際会議場前の電停に到着。私たちはその近くに予約しておいたホテルに手荷物を預け、直ぐに昼食の場所へと出かけることにした。
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 今から30年以上も前、大学を卒業して社会に出たばかりの私が最初の任地としてこの富山で過ごしたのは、1981年の4月から84年の2月まで、3年にちょっと欠ける期間であった。それから東京に戻り、2年後の5月に結婚。だから、家内は私の富山生活を知らない。当時の富山支店のメンバーの中から8組の夫妻が懐かしい富山に集まろうという今回の企画。皆が集合する夕方までの間、家内には富山の街中を見てもらうことにしよう。

富山の寿司

 目当てにしていた寿司屋は、そのホテルからは目と鼻の距離だ。総曲輪という昔の繁華街の一角である。今から35年前に私が新人として富山に赴任し、3年足らずの生活をエンジョイしていた間、同僚たちとこの店にはよく足を運んだものだ。その当時から店内は禁酒・禁煙。純粋に寿司を楽しむ人々だけが行列を作る店だった。

 11:30の開店なのだが、11:25に行ってみると既にカウンターは埋まり、更に順番待ちの4組ほどが背後の腰掛に座っていた。私たちはそこに辛うじて座れたのだが、直後には次の客が現れ、そこから先は立ったまま待たねばならない。危ないところだった。

 美味しいお店では順番を待つのも楽しみの一つ。東京の寿司屋ではお目にかかれないようなお品書きの数々を眺めながら待つこと45分。ようやくカウンターに案内され、私たちは「富山の味握り」というコースに味噌汁を付けてもらうことにした。

 シマアジ、イカ、焼きアナゴ、バイ貝、タイ、甘エビ、マグロ、白エビ、カニ・・・。寒流と暖流が流れ込み、水深が深く、日本海に生息する魚介類800種のうちの500種が棲むという富山湾ならではの素晴らしい食材の数々。富山にいた間は毎日のようにこんな美食に囲まれていたのだから、今から思えば贅沢な独身時代だったというべきだろう。日頃の罪滅ぼしも兼ねて、この店にはいつか家内を連れて来たいと思っていた。

 私たちのような遠来の観光客だけでなく、カウンター越しのやりとりを見ていると地元の常連さんも多いようだ。握る方もいただく方も寿司に集中しているから、スマホで写真を撮ったりするような人は皆無で、お店の中の良い意味での緊張感が素晴らしい。そんなお店に敬意を表して、外観だけを写真に残しておくことにしよう。
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富山の売薬

 美味しい寿司を堪能した後、総曲輪のアーケードを抜けて堤町通りへ。広い道路を隔てて北陸銀行本店の向かいに老舗の薬屋さんがある。その白壁土蔵造りのレトロな建物は改修中で建築資材に覆われていたのは残念だったが、中は普通に営業中である。富山の代表的な胃腸薬「越中反魂丹」のメーカーとしても有名な老舗だ。
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 江戸時代の初期から財政難に苦しんでいた富山藩が、収入を得るための産業振興の一環として奨励されたという製薬業。家庭用の置き薬を背に全国を回った「越中富山の薬売り」の姿と、まず先に使ってもらい、後からお代をいただくという「先用後利」のシステムが有名だが、それを可能にしたのが、製薬業が実は利益率の極めて高いビジネスであったことなのだそうだ。(確かに昔も薬の製造原価は不透明なところがあったのだろう。)

 店頭に並ぶ昔懐かしいデザインの薬の数々。これが昔の薬のコレクションではなくて今も商品として売っている物だというのは驚きだ。大手チェーンのドラッグストアなどではついぞお目にかかったことがない。どこかユーモラスなパッケージを眺めていると、それだけで気分が少し楽になりそうである。
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呉羽山公園

 薬屋さんを見た後は、タクシーで富山市西部の呉羽山公園へ。そこは小高い丘で、富山の市街を眺め下ろすことができる。また、春は桜の名所だ。よく晴れていれば彼方に立山や剱岳をはじめとする北アルプス北部の山々が屏風のように並ぶ。そんな場所なのだが、梅雨の晴れ間とはいえ、今日はだいぶ気温が上がったから、昼過ぎともなれば高い山々は雲の中である。
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 30年以上前にここから眺めた時と比べると、当時はなかった高層ビルが幾つか見えることに加えて、北陸新幹線の高架がやはり目新しい。

 展望台の先をもう少し歩いていくと、長慶寺という寺の境内へと下りていく階段があり、五百羅漢と呼ばれる石仏群を間近に見ることができる。ここは独特の趣がある静かな場所で、私は好きだった。雪が降り積もった時期に来たこともあったのだが、今日のように鮮やかな新緑に囲まれた時期もなかなかいい。あれから30年以上が経って、今はこうして家内と二人でこの場所を歩いていることが、何だかとても不思議に思えて来る。
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岩瀬の町並

 長慶寺の五百羅漢から富山民族民芸村に出て、幾つかの展示物を見ているうちに、30分に1本の路線バスがやって来た。それに乗ってしまえば富山駅までは10分ほどである。だいぶ暑くなったので駅で冷たい飲み物を買い求め、私たちは駅の北口からポートラムと呼ばれる路面電車で岩瀬に向かった。かつて国鉄の富山港線というローカル線だったのを路面電車用の軌道に改編し、駅の数とダイヤを増やし、欧州スタイルの車両を投入した結果、利便性が増えたので利用者が増加し、地域の足として復活している。今や「富山のライトレール」といえば、路面電車が復権した代表的な成功例だ。

 富山駅北口から20分ほどで東岩瀬に到着。国鉄時代のホームと駅舎が残されていて、ちょっと懐かしい雰囲気だ。
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 駅から岩瀬地区の街中へと入っていくと、旧北国街道だった道路の両側に木造の昔ながらの建物が並んでいる。岩瀬は江戸時代の初期から北前船が出入りする港町として栄え、街道に廻船問屋が軒を並べていた町である。現在残っている家屋の多くは明治時代に建てられたものだそうだが、今も営業している酒屋も銀行もその景観にマッチした造りになっているのが素晴らしい。(天気の良い土曜日の午後なのに人通りが殆どないのは残念だったが。)
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(「満寿泉」で有名な桝田酒造店)
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(銀行の店舗)

 そうした廻船問屋の中で栄華を極めた森家の屋敷は国指定の重要文化財になっていて、中を見学させてもらえる。30年以上前に私が富山にいた頃にはついぞ訪れたことなどなかったのだが、今はこうして家内と二人で大人の旅をするようになったか・・・。
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(廻船問屋森家)
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 森家の屋敷のすぐ近くには富山港展望台という素朴な施設があって、地上20mほどの高さから富山港一帯を眺めることができる。6月上旬だから夕方5時に近いといっても陽はまだ高く、海の向こうに能登半島の付け根の部分が見えていた。
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そして、再会

 展望台を下りてもう少しだけ岩瀬の街中を歩くと、時計は5時を回っている。スマホのGoogle Mapで現在地を確認しながら、私たちは今日最後の目的地に向かった。1911(明治44)年創業のこの街一番の老舗の料亭である。その当時から残る建物は重厚で、北前船の船底の板を使ったという看板が歴史を感じさせる。
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 家内と私がその看板を眺めていたまさにその時、一台のタクシーが店の前に停まり、中から見覚えのある二組のご夫婦が降りてきた。

 「どうも、しばらくでした!」
 「いやあ、お久しぶり!」
 「車の中から見ていてすぐにわかりましたよ。本当にご無沙汰してました!」

 かつて私の上司だったKさんは13年先輩だから既に喜寿を超えておられるのだが、同乗されていた4年先輩のIさん共々、本当にお変わりがない。考えてみれば、このお二人にお目にかかるのも20年ぶり以上のことだ。奥様方とは、もちろん富山を卒業して以来の再会である。

 挨拶もそこそこに皆で料亭の中に入り、奥の部屋に通されると、既に二組の先輩夫婦が来ておられた。ここでも同じように肩を叩いて再会を喜び合う。残りの三組も三々五々到着して、定刻の5時半を待たずに全員が揃った。皆、今日のこの場を楽しみにしていたのだ。テーブルには、今が最盛期の富山湾の白エビが運ばれてきた。
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 それから始まった「富山会」。お会いする方々の殆どにこれだけ長い間ご無沙汰をしていると、何から話を始めて良いのやら普通なら迷うところだが、お互いに富山に来ていることも手伝ってか、私たちはあっという間に30数年前の昔に舞い戻り、色々な話に一気に花を咲かせた。8組の夫妻の内の2組は富山の職場の中で成立したカップルだったから、奥様方のことも私はよく知っている。向こうもそうだから、私がもうすっかり忘れてしまったことなども話題にのぼる。初めて聞く私の若い頃の「武勇伝」に、家内は目を丸くしていた・・・。

 当時の私たちの会社は、元々が上下の分け隔ての少ないリベラルな雰囲気を伝統的に持っていた。事業の規模に比して随分と少ない人数でやっていたから、形式ばったことをしていたら仕事が回らない。社内の主だった人の顔と名前は知っているのが当たり前だったし、相手が役員だろうが部長だろうが役職名では呼ばず、「○○さん」で済ませていた。

 それに加えて、仕事を通じて後進を育てるというカルチャーが社内には明確にあった。私たちのような駆け出しは叱られながら仕事の進め方を覚え、先輩方は忙しい中も時間を割いて私たちと向き合ってくれた。そんなことを通じて、仕事の能力の面でも人格・教養の面でも尊敬できる先輩方が大勢おられたのだ。今から思えば、本当に恵まれた職場だった。

 そんなカルチャーの中で、今から30数年前の一時期を富山の店で一緒に過ごしたメンバー8組が、それぞれに夫婦仲良く富山に集まって、再会を心から喜び合うことが出来たのだ。社会人としての自分の人生の中で、これほどの幸せはないだろう。
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 岩瀬の料亭から富山駅前のスポーツ・バーに場所を変えて、「富山会」は夜更けまで続くことになった。

(To be continued)

再会 (1) [自分史]


 6月11日(土)の午前8時半過ぎ。東京駅の21番ホームから、紙コップのコーヒーを片手に家内と私は新幹線車両に乗り込む。8時36分発の「かがやき505号」。昨年3月14日の開業以来、北陸新幹線E7系の車両に乗るのは私たちにとって初めてのことになる。
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 「乗り鉄」という言葉が登場する遥かに前から、私はその言葉によって括られるべき種族の一人であったと自認している。今までに乗ったことのない鉄道路線に乗ってみたい、或いは乗ったことのある路線でも新型車両が登場したらそれに乗ってみたい、或る路線の全ての駅で乗降してみたい・・・そんな思いを幾つになっても抱えている奇妙な人種なのである。

 だから、初めてE7系に乗ることになる今日のことはずっと楽しみしていたし、そういう時の高揚感は子供の頃と少しも変わっていないと、自分でも思う。しかしこの日の朝の気分の高まりは、単なる「乗り鉄」だけによるものではなかった。私にとっては、人生の中でも特別な日であったといっていいだろう。
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 定刻にゆっくりとホームを離れる「かがやき505号」。普通車でも座席の間隔は広々としていて、座席のリクライニングを倒すと実に快適だ。これから上野、大宮、長野に停まると、その次はもう富山。そこまでの所要時間が2時間14分というのは、昔を知る私にとっては夢のようなことである。

 今から35年前の1981年4月15日、社会人になってから二週間の集合研修が終わったばかりの私は、会社の同期生のM君と二人で北陸の富山に新入社員として赴任した。上越新幹線もまだ開業していなかったその当時、私たちが揺られていったのは列車番号3011M、上野駅を午前9時16分に出る信越本線経由の特急『白山1号』だった。

 途中、横川で二両の電気機関車(EF62+EF63)を上野方に連結し、後ろから押し上げてもらう形で碓氷峠を超え、長野から黒姫への上り勾配に喘ぎ、直江津では列車の進行方向がスイッチバックするなどして、富山まで410kmの行程に何と6時間8分を要していたのである。単純に割り算すれば表定速度は66.8kmだから、特急といっても当時は実にのんびりしたものだったのだ。
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(1981年当時の特急『白山1号』の列車ダイヤ

 私はその富山で約3年を暮らすことになった。東京に生まれ、その後も基本的には東京で育った私は大学卒業まで親元を離れたことがなかったので、社会人になったら遠隔地で一人頑張りたいと思っていて、その願いがかなったのである。もっとも、富山という場所は想像もしていなかったのだが、学生時代から山登りに親しんで来た私にとって、山が近く自然が豊かな富山は何とも居心地がよく、楽しかったことしか覚えていない、実に愛すべき土地であった。

 日本海側というと冬場の気候に陰鬱さを感じてしまいがちだが、私はそれが嫌だと思うこともなく、特に雪の季節は東京では経験できないことが沢山あって、本当に楽しく過ごさせていただいた。だから、そこでの生活ももうすぐ丸3年というところで東京への帰任の辞令が出て、2月の下旬に雪の降りしきる富山駅のホームで多くの同僚たちに見送られた時には、何とも心残りだったことを今でもよく覚えている。

 その富山を「卒業」して以来、なかなか再訪する機会もなく時は流れ、気がつけば私はもう還暦になった。当時の職場のメンバーは、私も含めて皆がとっくにセカンド・キャリアに入っており、異なる会社でそれぞれに活躍している。

 そんな中、昨年の秋口に、かつて富山の独身寮で一緒だった、私と入社年次の近い先輩二人と久しぶりに飲む機会があった。お互いに歳が平行移動しているだけで、私たち三人の間では当時の先輩・後輩の関係に何ら変わりはなく、いつものようにタイム・スリップして富山にいた頃の話に花が咲く。そして半分は酔った勢いながら、当時の職場のメンバーに声をかけて皆で富山に集まらないか、という話になった。北陸新幹線が出来たおかげで、富山は今や東京から2時間ちょっとの距離なのだ。

 話は今年に入ってから具体的に進み始め、6月11日(土)の夕刻に8組の夫妻が本当に富山に集合することになった。冒頭に今日が「私にとっては、人生の中でも特別な日」と書いたのはそのことである。それにしても、あの当時から30数年の時を経て、それだけのメンバーが是非現地で集まろうというのだ。やはり富山には、今でも私たちを強く引きつける何かがあるのだろう。
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 朝食代わりのフルーツ・ケーキを食べながら紙コップのコーヒーをすすり、新聞に目を通しているうちに、列車はもう高崎を通過。そして軽井沢を過ぎると右手に浅間山が綺麗に見えていた。

 10:00ちょうどに長野に到着。そこから富山まで50分足らずという列車ダイヤに私は半信半疑のままだ。だが、飯山を過ぎて長いトンネルを抜け、里の風景が続くようになると、右の車窓の遠くに海が見え始める。35年前の4月に白山1号の車窓に広がった寒々とした海とは違って、梅雨の晴れ間の今日は日本海も明るく輝いている。糸魚川を通過するあたりからはその海も更に車窓に近づいて、早速車内アナウンスも始まった。さあ、いよいよ富山県に入る。

 県境のトンネルを抜け、平野部を横切るように走る新幹線は間もなく黒部川を渡り、黒部宇奈月温泉駅を通過。左の車窓には雪を抱く立山連峰が姿を見せた。(私たちは進行右側の席だったので、その様子は遠目にチラッとしか見えなかったのだが。) 富山平野では北陸新幹線は在来線よりも内陸側を走っているので、海岸線からは少し遠いのだが、逆に山には少し近い。しかも基本的には高架の上を走るので、立山・剱岳を眺めるにはいいかもしれない。(もっとも、防音壁で視界を遮られる箇所も多いのだが。)

 そして、列車は少しずつ速度を落とし、最後はS字を描くようにカーブして富山駅へ。定刻の10時48分に到着し、ホームに降り立つと、35年前の記憶からは想像も出来ない最新の駅の姿がそこにあった。
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(To be continued)

神仏のご加護 - 箱根・明神ヶ岳 [山歩き]


 6月4日(土)の朝8時過ぎ。小田原で特急ロマンスカーを降りる。

 エスカレーターを上がって改札を出ると、駅の南口へと向かう広い通路があり、土曜日の朝も案外と人通りが多い。そしてJR東海道線の改札を過ぎるあたりまでは、どこのターミナル駅とも同じような現代風の造りなのだが、一番南の地上階にある伊豆箱根鉄道・大雄山線の乗り場に向かうと、一転してそこには昭和の匂いが残っていた。
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 天狗のお面を象った大きなディスプレイと、クラシックなホームに佇む三両連結の電車。自動改札にこそなっているが、この駅の様子は大正時代の終わりに開業した時とさほど変わっていないのではないだろうか。

 そんなレトロな空間に私たち5人の山仲間が集合。8時48分発の電車に乗ると、9時過ぎには終点の大雄山駅に到着。ちょうどいいタイミングで駅前から路線バスが出たので、9時半前には大雄山最乗寺の入口に着いた。このお寺の境内の奥にある登山口から歩き始めて明神ヶ岳(1169m)に登り、箱根の宮城野へと下るコースは、私にとっては3回目。だが、過去2回はそれぞれ1月中旬と3月中旬という時期で、幹の太い老杉に囲まれた最乗寺もまだ冬の装いだったから、今回初めて眺めることになった初夏の境内は若い緑に溢れ、厳かな雰囲気の中にも杉の森は実に明るい。
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 大雄山最乗寺は天狗信仰の山である。天狗というのは、元々は中国で凶事の予兆である流星のことを意味するものだったそうだ。天を駆ける狗(いぬ)というぐらいだから、流星といってもそれは火球のまま大地に衝突して大音響を発する隕石のことだったのだろう。日本でも舒明天皇の時代の出来事として、そういう隕石を天狗と呼んだ旨の記載が日本書紀に残されているそうである。

 ところが、そういう意味での「天狗」はその後の日本には定着せず、長いブランクを経て平安時代の末期になると、いつの間にか妖怪として登場するようになった。山伏の装束で赤い顔と長い鼻の異形という、私たちが普段イメージするあの天狗の姿である。それには中国伝来の密教や、日本古来の山岳信仰などの影響があるのだろう。しかも単なる妖怪としてだけではなく、天狗は山の神様の一種として崇められることにもなった。

 そもそも山は霊的な場所で、そこに入ると起きる不思議なことの数々は神仏の成せる業だ、というのが私たちの祖先の素朴な考え方だったようだ。だから、神社でもないのに、大雄山最乗寺の境内に入ると大きな杉の木に注連縄が張られている。ここから先の山の中は神域ということなのだろうか。
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 ともかくも私たちは拝殿の前に立ち、賽銭を投げて今日の登山の無事をお願いする。曹洞宗の寺だからご本尊は釈迦牟尼仏のはずなのだが、私たちが頭を下げた相手は山の神様の方であったに違いない。
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09:45 明神ヶ岳登山道入口 → 10:35 見晴小屋(10分休憩) → 11:08 神明水

 境内の南の端に大きな赤い下駄のディスプレイがあり、明神ヶ岳への登山道がその奥から始まる。今日の5人パーティーの先頭を歩くことになった私にとって、三週間半ほど前に突然の激しい目眩に襲われ、救急車で病院に搬送されて以来、今日が初回の山歩きである。あれから幸いにして目眩の再発はなく、普段通りに暮らしているが、果たして今日の山歩きにも神仏のご加護があるだろうか。
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 今週は木曜日と金曜日が快晴で、湿度が低くて風が爽やかな、本当に素晴らしい天気が丸二日続いた。その好天をもたらした高気圧が東に去り、今日は西からゆっくり天気は下り坂。関東地方が雨になることはないはずだが、朝の青空は次第に高曇りとなり、やがて低い雲が山々を覆っていくことになるだろう。確かに早朝の新宿は抜けるような青空だったが、午前10時近くになると、頭の上の空には薄雲が広がり始めている。

 日本の南岸には停滞前線が長々と横たわっており、今朝の天気予報によれば明日の日曜日には関東甲信地方も梅雨入りになりそうだという。とすれば、今日は梅雨入り前の最後の山歩きということになる。
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 深い杉の森の中を登り続け、登山口から約50分で見晴小屋に到着。丹沢の蛭ヶ岳周辺の山々が木々の間から見えている。そこで小休止を取った後、もう一登りで右手の森の中にリフトの設備が朽ち果てている場所に到着。かつて、或る観光会社が最乗寺から明神ヶ岳を経て箱根の宮城野まで、我々がまさに今日歩こうとしているルートに観光リフトを建設する構想があったそうだ。そして、途中まで建設されたところで計画が頓挫。そのまま放置された設備は赤錆だらけの姿を今も晒している。

 不思議なのは、打ち捨てられたリフト設備のワイヤーが木の幹を貫通している、そんな木があることだ。ワイヤーが貫通しているというよりも、後から生育してきた木がワイヤーにぶつかるようになり、やがてそれを呑み込んで成長を続けたというべきなのだろう。樹木の生命力は何とも逞しいものである。
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 そこから先は山道が森の中を出て一旦傾斜が緩くなり、見晴らしが良くなる。そのあたりの地形が冬の間は草木もなく広々としていて、まるで防火帯のようだったのだが、今回は鬱蒼と草木が茂り、だいぶ異なる様相だ。それがまた、この時期の山の味わいでもあるのだろう。

 緩やかな登りを続けて11:08に「神明水」という湧水に到着。ここも冬と違って深い緑の中だ。湧水には適度な冷たさがあった。
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11:10 神明水 → 12:20 明神ヶ岳

 神明水からは一旦登りが急になるが、その分だけ遠くの展望が開ける。このあたりの眺めはいつも楽しみなのだが、今回も相模湾の海岸線や丹沢の大山がよく見えていた。
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 防火帯のような地形はなおも続き、右手にはマメザクラの木が並ぶ。よく見るとマメザクラなりのサクランボが実っている。どれも直径が5~6ミリの小さなものだが、口に入れてみると渋みはなく、とても爽やかな酸味が広がった。
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 ここまでの山道、緑は豊かでも、花といえばごく僅かにアザミが咲いている程度だったが、ある程度の標高になるとヤマツツジが山麓に彩りを添えるようになった。
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 基本的には南西方向に山の尾根を登って来た登山道が、南に山を回りこむようになると、明神ヶ岳のピークも近い。最後の短い急登を頑張ると、俄かに風が強くなり、箱根外輪山の尾根に飛び出す。そして、目の前には箱根の神山(1438m)と大涌谷の展望が一気に広がる。このコースのまさにハイライト部分である。
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 天気はゆっくりと下り坂。標高1169mの明神ヶ岳はまだ雲の下だが、もっと高い神山の頂上は雲の中。不思議なことに、明神ヶ岳とあまり標高が変わらない金時山(1212m)もピークはガスに覆われている。本来ならばその金時山の後方に見えているはずの富士山の眺めは残念ながらないが、今日のような気圧配置ではそれは仕方のないことだろう。
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 いつ訪れても風の強い明神ヶ岳の山頂。私たちは生い茂るササを風除けにして昼食をとることにした。

13:00 明神ヶ岳 → 13:30 宮城野への分岐 → 14:30 勘太郎の湯

 明神ヶ岳からの下りは、右手に神山と強羅あたりの町並みを眺めながらの楽しい山道である。そして、左手の展望が広がる所では、相模湾の海岸線を眺め下ろすことができる。天気は下り坂といいながらも海がちゃんと見えているのだから、今日の私たちは恵まれているというべきだろう。
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 明星ヶ岳の方に向かって降りていくこの稜線上で、この季節らしい彩りを見せてくれるのがニシキウツギだ。ハコネウツギという名前の方をよく聞くが、植物図鑑によると、ハコネウツギは関東~東海地方の沿海地に自生するが箱根には少なく、山地に自生するのはニシキ(二色)ウツギなのだそうだ。確かに白と赤紫の二色の花を楽しませてくれている。
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 両側の展望と花を眺めながらの稜線歩きも30分ほど。明星ヶ岳から先の山々が見えるようになると、宮城野への下山道との分岐も近い。
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 分岐を過ぎると、山道はトントン拍子に高度を下げていく。下界が近くなる分、蒸し暑さも増して来る。頭の中は下山後の温泉とビールのことばかりが占めるようになるのがこのあたりだ。そして、分岐から30分も下れば別荘地の最上部に出るのだが、そこから別荘地の南端を下りていく山道が結構辛い。これなら、多少遠回りでも別荘地の中に入ってしまって、舗装された道を歩いた方がよっぽど楽かとも思う。

 その辛い山道も終わり、舗装道路に出ると、後は道標に従って近道を選んで行けば宮城野の日帰り温泉「勘太郎の湯」まで15分ほどだ。先ほど明神ヶ岳の山頂からほぼ真横に眺めていた箱根の神山は、もう随分上に仰ぐようになった。
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 既に記したように、三週間半前に急病を発した後、再開第一号となった今回の山歩き。幸いにして目眩の症状が再発することもなく、梅雨入り直前の山を楽しむことができた。それはきっと、山の神様のおかげなのだ。その意味では、パワースポットの大雄山最乗寺を登山口とする今回のコースを選んだのは正解であったのかもしれない。そして、T君をはじめ私の体調を気遣ってくれた山仲間の皆にも、もう一度お礼を申し上げたい。

 宮ノ下駅から乗った登山電車の両側に咲き乱れるアジサイの花を眺めながら、春夏秋冬があり山には神々がおわすこの国の風土と共にに生まれ育ったことの幸せを、改めて思っていた。


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