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百年前の国際都市 [読書]


 中国・浙江省の杭州で開かれていたG20の会合が終わった。

 「中華民族の偉大なる復興」を掲げ、領海問題で周辺諸国と摩擦を起こしている中国の習近平政権は、G20の場で南シナ海問題が取り上げられることの回避に全力を挙げる一方、国内向けのポーズも必死に作らなければならなかったようだ。オバマ米大統領の到着時にタラップを用意しなかったり、日中首脳会談の時だけ会場に国旗を用意しなかったり。自称「大国」が何とも大人気ないじゃないかと我々は思ってしまうが、そうでもしないと国の中で生き残って行けないのが中国社会の辛さなのだろう。

 それにもかかわらず、街に出れば相変わらず訪日中国人の数は多い。そしてリピート率も高いという。彼らにとって、両国の政府レベルの対立と個人が訪日旅行を楽しむこととは明らかに別物なのだろう。そして、多くの中国人が個人レベルで日本の実像への理解を深めていくことは、わが国にとっても悪いことではないはずだ。
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 今から100年ほど前にも、中国人の訪日ブームがあった。但しそれは、今日のような庶民レベルのものでは勿論なかった。

 「辛亥革命前後の1900年代初頭から20年代にかけて、日本の年号でいえば明治から大正初めの頃、日本には中国人の留学生があふれていた。明治維新を成し遂げた日本はアジアでいち早く近代化を実現した国であり、清国で「日本ブーム」が巻き起こったからである。日本の成功に学ぼうとやってきた留学生は、最も多い時期には一万人近く日本に滞在し、その九割が帝都東京に住んでいたという。」
 (引用書後述)
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(清国からの留学生のための教育機関だった弘文学院)

 20世紀の初めのこの「日本ブーム」。それには日露講和と同じ年に中国で科挙が廃止になったことも大きく影響していたという。これからは四書ではなくて日本に学べ、という訳だが、何と言っても激動の時代。日本にやって来たのは決して留学生だけではなかった。

 「その一方、清朝の若き皇帝・光緒帝を戴いて、衰退の一途をたどる国政を改革しようと試みて失敗した「改良派」の知識人も亡命してきた。
 (中略)
 やがて孫文や梁啓超の次の時代を担う者たち――中国共産党を作った陳独秀や李大釗、それに周恩来、李漢俊、董必武といった中国共産党の主要メンバー、魯迅、郭沫若、郁達夫ら文学青年たちも留学生活を送るようになった。
 つまり、二十世紀前半の帝都東京には、多種多様な中国人が集まっていたのである。革命家は日本を出たり入ったり、知識人や学生は最新流行の社会主義思想に関する書物を読みふけり、翻訳や雑誌作りに熱中し、談論風発した。無論、遊びほうけていた学生も少なくない。」
 (引用書後述)

 そんな中国人たちが巣食い、蠢いていた早稲田、本郷、そして神田神保町。そうしたエリアにスポットを当て、東京に身を置きながら20世紀初頭の中国革命に係わった中国人たちのエピソードの数々を紹介した新刊書が、『帝都東京を中国革命で歩く』(譚璐美 著、白水社)である。
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 「かつて、早稲田界隈にはチャイナタウンがあって、旅館や料理店、床屋の店先に清朝の国旗・黄流旗が翻っていたという。神田には清国留学生のための日本語学校や留学生クラブがあり、郷土料理を出す食堂があった。神楽坂や飯田橋界隈には、革命家たちが密談を交わした料亭があり、中国同盟会が生まれたのは虎ノ門のホテル・オークラ本館がある場所である。」
 (引用前掲書)

 ここに挙げられたエリアは、私にとってはいずれも若い頃から馴染みのある街ばかりだ。そんなことも手伝って、本書を興味深く読むことになった。

 この時代に日本から中国革命に係わった先駆者かつ最大の有名人は、何といっても孫文(1866~1925)だ。1895(明治28)年に広東省・広州で反清朝の最初の武装蜂起を企てるも失敗。早くも日本に亡命している。以後はロンドンに渡り、再来日して宮崎滔天や犬養毅らと交流。更に何度も中国で武装蜂起を企てるがいずれも失敗。しかしそれにも決して挫けず、1905(明治37)年に東京で革命諸派が合同して中国同盟会が結成されると、孫文は総理に就任。そして、1911年に辛亥革命が勃発すると、滞在していた米国から急ぎ帰国し、翌年には中華民国臨時政府の臨時大総統に就任。だがその直後に袁世凱との駆け引きに敗れ、再度日本に亡命することになる。
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 「『三民主義』を説いても周囲に理解されず、革命を鼓舞しても盛り上がらず、テロリスト扱いされて世界中を逃げ回った。頼みにした華僑からは『孫大砲』(ほら吹き)だと笑われた。」
 (引用前掲書)

 それでもめげず、「世界中を巡って遊説し、日本に都合十数回訪れ、通算すると九年以上滞在したことになる」孫文。「カリスマ性があり、人望があり、なにより金集めができた」この男が最も高い知名度を持つのは当然なのだが、本書はこの孫文については最終章でサラッと扱うだけで、その他の人物たちの様々な生き方に寧ろスポットライトを当てている。

 日清戦争に敗れた後、清朝の光緒帝が進めようとした変法自強運動が西太后の軍事クーデター「戊戌の政変」で潰され、失意のどん底のまま日本に亡命した梁啓超(1873~1929)。(彼は革命家ではなく、旧体制の下での改革派だったのだ。) 軍人になりたくてなりたくて、後先のことをよく考えずに日本に来てしまったという蒋介石(1887~1975)。湖南省出身の革命家で、孫文と共に東京で中国同盟会を結成、辛亥革命が成ると中華民国の陸軍を統率、その風貌から「中国の西郷隆盛」と呼ばれた黄興(1874~1916)。日本語の学力が足りなかったために高等師範や一高に入れず、日本滞在中は屈折した思いを抱え続けた周恩来(1898~1976)・・・。
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(「変法自強」の夢破れた梁啓超)

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(「中国の西郷隆盛」 黄興)

 そんな多士済々の中で、本書を通じて私が最も興味を持ったのは、あまり知られていないが中国初の憲法である「臨時約法」の原案を作成したという「埋もれた天才」・宋教仁(1882~1913)のことである。前述の黄興らと共に武装蜂起を企てて失敗して上海に逃亡し、ついでに日本へやって来た。彼が22歳の年である。

 「早稲田大学清国留学生部予科に入学した宋教仁は、下宿先を早稲田大学の裏手にある「瀛州筱処(いんしゅうゆうしょ)」に定めた。(中略)早稲田大学中央図書館前のグランド坂通りを下り、新目白通りの信号を渡って、向かい側の道を一本裏通りに入ったところで、ちょうどローガロイヤルホテル東京のはす向かいに位置する。早稲田大学から徒歩で四、五分といったところだから、おそらく湖南省出身の留学生たちが集う学生寮か下宿だったのだろう。」
 (引用前掲書)
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(宋教仁の下宿があった場所。左は1909(明治42)年当時の地図)

 その翌年(1905年)に孫文・黄興らの中国同盟会が東京で結成され、宋教仁は機関誌の執筆・編集を担当。だが、孫文とはどうしても馬が合わず、翌年には神経衰弱に陥ってしまう。そして、1910年に孫文が九度目の武装蜂起に失敗すると、宋教仁は遂に孫文と決別して「中部同盟会」を組織。外国勢力に頼らず、揚子江流域で革命勢力のネットワークを広げ、翌1911年に武昌蜂起が起こると、雪崩をうつようにして辛亥革命が成功した。要するに革命の成就は宋教仁の戦略が当たったからなのだが、世間では孫文の名声だけが響きわたり、米国から「凱旋」のように帰国して中華民国臨時政府の臨時大総統に就任してしまった。

 実務能力は孫文よりも遥かに高いのに、神経質過ぎて他人と折り合えず、人望を集められない宋教仁。それでも彼は新生中華民国の骨格作りに邁進し、憲法の原案作りや二院制議会の制定に尽力。初の議会が開かれれば首相への指名は確実と見られていた。
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(「埋もれた天才」 宋教仁)

 だが、宋教仁の内閣が大総統の権限を大幅に狭めることを嫌った袁世凱が刺客を放つ。1913年3月20日の夜、宋教仁は上海駅の改札口で凶弾に倒れ、その二日後に息を引き取った。享年31歳。適切な喩えかどうかわからないが、明治新政府における江藤新平のような悲運の人物と言ったらいいだろうか。

 そんな宋教仁は大変な勉強家で、並み外れた読書家でもあったという。北京・南京と東京に大量の蔵書を持ち、それが彼自身の「知の宝庫」であり、「東京は蔵書を通じて近代科学を授けてくれた『母なる場所』だったのである。」と、著者はその章を結んでいる。

 本書が描き出した時代から一世紀が経過して、日中間の力関係は大きく変わった。最近の“嫌中”や“嫌韓”の世論の中には、「相手が怪しからんから今直ぐ国交断絶!」という声もよくあるのだが、国と国との関係というのはそこまで単純なものではないのだろう。それよりも、中国の改革を目指す留学生たち、もっと先鋭に中国革命を夢見る革命家たち、著作を世界に向けて発信する文化人たちを100年前の東京が受け入れたような懐の深さが、今こそ必要なのではないだろうか。少なくとも、20世紀初頭という東アジアの激動の時代に東京の街が果たしていた役割を、私たちはもっと認識しておく必要があるのだろう。現代史は今の私たち一人一人に直接繋がるものなのだから。
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 100年前に日本にやって来た数多くの中国人たち。勉学や政治活動に勤しむ一方、未知の東京で安くて美味しい中華料理を如何にして食べるかは、彼らにとって切実な問題であったようだ。本書に取り上げられている、1899(明治32)年に神田・神保町に開店した小さな雑貨屋のことを、最後に記しておこう。

 「最初は名前もない小さな店だった。留学生が足しげく通って中国食材や雑貨品を買ううちに、求められて簡易食堂も兼ねるようになった。ピータン、塩卵、焼き飯、肉入り麺、豆腐料理、豚肉野菜炒めなど、ごく簡単な料理を出すだけだったが、下宿先で油物を口にできない留学生たちは喜び、評判になって繁盛した。
(中略)
 開店当時、留学生たちは店に集まって中国料理を食べながら、祖国の未来について話し合った。そして日本が明治維新で近代化を成し遂げたように、祖国の未来もそうであってほしいと願い、我が家同然のこの店に『維新號』と名づけたのである。」
 (引用前掲書)

 今は都心に4店舗を構える高級レストランも、元々はこんな風にして始まったのだ。その当時、『維新號』の小さなテーブルを賑やかに囲んでいたであろう清国からの留学生たちは、冥界から今の中国と日本をどのように眺めているのだろうか。

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