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「逆さに見る」歴史 [読書]


 富山県庁の刊行物の中に、350万分の1 環日本海諸国図という、B1サイズの一風変わった地図がある。もう20年以上前の1995年から販売されているというから、今更ニュースでも何でもないのだが、これは目の付けどころが面白い地図である。

 普通の地図の上下をひっくり返したもので、上が凡そ南西方向になっている。要するに中国東北部から日本列島の方向を眺めた時の見え方を表したものなのだ。従って、地図の上部に日本列島が横たわり、その下にまるで大きな湖のような日本海がある。
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 地図には富山県庁の位置を中心点とした同心円が描かれていて、半径1,000kmの円の中に日本の四島がほぼスッポリと収まっている。何だか日本の重心が富山湾にあるかのように思えてしまうから不思議なものだ。そして、この「逆さ地図」を眺めていると、日本列島とユーラシア大陸との大きさのバランス、相互の距離感といったものも、いつも見慣れた地図とはどこか違うような印象を受けてしまうのだが、それは今年(2016年)のイグノーベル賞(「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞)の受賞で注目を集めた『股のぞき』と似たようなことなのだろうか。

 考えてみれば、私たち北半球に住む人間にとって、南は自然と視野の中心になる。住宅は南向きに建てるものだし、「日当たり」というものを常に考える。一般には寒い所より暖かい所が好きな人の方がずっと多いだろうから、人々が指向するのは自ずと太陽が空高い方角である。それは日本列島でも、それよりも北のユーラシア大陸や朝鮮半島でも同じはずである。

 それゆえ、半島の人々がこの「逆さ地図」を見ると、太陽が輝く暖かい南の行く手に長々と横たわる他国・日本は、もしかしたら鬱陶しい存在であるかもしれない。中国の人々にとっては、九州の南から台湾までの海上に円弧を描く南西諸島が東シナ海の出口を塞いでいて、これは何とかしたいと思うかもしれない。更に言えば、19世紀末から20世紀初頭にかけて猛烈な勢いで極東へ進出したロシア帝国の指導者たちは、この「逆さ地図」そのものが頭の中にあったのではないか。

 この「逆さ地図」と同じ要領でユーラシア大陸の東半分をひっくり返してみると、こんな風になる。
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 朝鮮半島や現在の中国の背後にある乾燥地帯・草原地帯を舞台に、遥かな古代から近代の手前までの長い期間にわたってユーラシア大陸の歴史を動かし続けてきた遊牧民族の数々。その彼らから見た「太陽の輝く方向」がこれである。眺めてみると、モンゴル、シベリア南部、中央アジアといった地域は誠に広大で、現在の中国がいかに広いといえども、遊牧民族のフィールドと比べれば「中原(ちゅうげん)」などは小さなものだと思わざるを得ない。

 私たちは歴史を考える時も頭の中は北が上で南が下だが、まるでそれを逆さにするように、遊牧民族の目から中国史を紐解くユニークな本が、『逆転の大中国史』(楊海英 著、文芸春秋)である。著者は1964年の内モンゴル生まれの学者で2000年に日本に帰化。普段私たちが無意識のうちに持っている中国史のイメージを覆す様々な論点を提供してくれる。
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 「曰く、古代より広大なアジア大陸に、ほかと隔絶した高い文明をきずきあげてきた『漢民族』。(中略) その豊かさゆえに、しばし北方から、戦争はつよいが、『野蛮な』遊牧騎馬民族が襲来し、一時的にはかれらが支配者となるが、圧倒的な漢文明によって『漢化=文明化』されると、アイデンティティをうしなっていく。かくして王朝の主はかわりはするが、偉大な中華文明のかがやきは普遍的かつ不変のものとしてうけつがれてきた。ざっとこんなストーリーだ。中国人ばかりか、日本人のあいだでも、大枠でこうした『中国史』をまなんできた人は少なくないのではないだろうか。」
(本書 序章より)

 中国史について、確かに学校ではそんな風に教わったように思うし、かつて読んだ歴史本もそのようなトーンであったと思う。けれども、
「そもそも黄河文明がシナ中心地域(現在の河南省周辺)でおこったのは事実だが、考古学による研究がすすむにつれ、その古代文明と現在の『中国人』とでは、文化的にも、人種的にも断絶している事実が明らかになっている。」
(同上)
というように、まず「漢民族」という既成概念からして疑ってかかる必要が私たちにはあるようだ。

 その上で、
 「『ユーラシア史』という観点からすると、『中国史』が蛮族と位置づけてきた遊牧民が、東はシベリアから西はヨーロッパ世界にまでひろがり、文化的・人種的にも混じりあい、世界史を動かしてきたのに対し、『漢文明』がひろがりえたところは、華北と華中のいわゆる中原を中心としたローカルな地域にとどまっていた。(中略) 『漢(シナ)文明』は普遍的な世界文明のひとつというよりも、ローカルな地域文明だと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。」
(同上)
として、著者はスキタイ、匈奴、テュルク(突厥)、鮮卑、モンゴル、女真などの遊牧民族がユーラシア大陸に残したダイナミックな歴史の足跡を多数紹介している。内モンゴルのオルドスに生まれ育った著者ならではの現地の写真も豊富に掲載されており、私にとっては認識を新たにすることばかりであった。

 「歴史以前の中国」と「歴史としての中国」を区切るものとされる、秦の始皇帝による天下統一(前221年)。それ以前の中国では「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸民族が中原をめぐって興亡を繰り返したとされるが、それでは中国人そのものはどこから来たのか。

 「中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成された都市の住民のことであり、文化上の概念であった。(中略) それ(=秦の始皇帝による都市国家群の征服)以前の中原には、それぞれ生活形態のちがう『蛮、夷、戎、狄』の人々がいりまじって住んでいたので、のちの中国人は、人種としてはこの『四夷』の子孫であり、これら異種族が混血した雑種である。」
(『読む年表 中国の歴史』 岡田英弘 著、WAC)
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 本書にても度々引用されている岡田英弘氏の著書を私はだいぶ以前に読む機会があったので、紀元前3,000年に遡るともいわれる黄河文明に直結する「漢民族」という種族は存在しなかったことや、「中国五千年の歴史」というのは嘘で、広い領域を伴った「中国」としての歴史は始皇帝以後の2,200年であること等の史観には既に触れていた。その意味では、本書は岡田氏に代表される中国史観を遊牧民族の視点からも裏付けたものともいえるだろう。

 2世紀末に起きた黄巾の乱とその後の混乱から全土が内戦状態になった後漢王朝は、220年に滅亡。中国は三国志の時代に突入するのだが、相次ぐ戦乱の結果、黄巾の乱以前には5千万人ほどあった後漢王朝の人口が、魏・呉・蜀の三国を合計しても約5百万人、つまり十分の一に激減。それ以前の歴史によって形成された「中国人」はここで事実上絶滅したという。そして、次の統一王朝である隋が登場するまでの約300年間は、五胡十六国時代南北朝時代を通じて北方の遊牧民であるアルタイ系、もしくはチベット系の種族が華北を支配。その結果、「中国語」がアルタイ系の言語に変質していったという。
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(高校時代の世界史の副教材にはこんな図があった。)

 そして、黄巾の乱から400年ぶりに中国を統一したとその後釜のは、言うまでもなく当時の日本が律令国家の統治のお手本とした王朝で、とりわけ盛唐時代は「偉大なる中華文明」の代表例だというイメージを私たちは持っている。けれども、隋・唐の王朝はいずれも五胡十六国時代の五胡、即ち遊牧民族・鮮卑の出自であったというのは、学校では決して教わらなかったことだ。

 しかも、中国史上で「ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた」王朝、「まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい」王朝を挙げれば、隋・唐(鮮卑)、元(モンゴル)、清(女真)となり、「いずれも非漢民族による征服王朝、端的に言えば遊牧民が建立した王朝」なのである。そしてそうした遊牧民を出自とする王朝が大帝国たり得たのは、「中原で栄えた偉大な中華文明」を継承したからではなく、「実力があれば、民族や宗教などに関係なく登用するという寛容さ」が原因のひとつであり、「漢民族中心主義ではなく、異民族による国際主義によって統治された時代こそ、『中国』がもっとも栄えた時代だという事実がわかるだろう」と、著者は強調している。

 それに対して、北方の遊牧民族の出自ではない、著者のいう「シナ人」による統一王朝はだ。そして、宋の時代には世界の三大発明とされる火薬・羅針盤・活版印刷が発明され、有名な景徳鎮の陶磁器が生み出されるなど、独自の文化が花開いたのに対して、異民族の反乱をおそれて抑圧的な政策をとった明代は総じて暗黒時代であったことの理由を、著者は以下のように述べている。

 「宋はもともと北部を北方民族のキタイや金人に押さえられていたため、東南沿海部を中心とした『小さなシナ』だったのである。この小さな規模で、シナ人のみの『民族国家』をつくることが、『漢民族』にはもっとも適していると断じていい。明のように宋よりも広い国土をえて、おおくの他民族を統治しなくてはならなくなると、他の文化、文明をみとめない『漢民族』ではうまくいかないのである。その点は、現代の中国共産党による政権運営とも通ずる。」
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(「小さなシナ」だった宋)

 既に記したように、著者は内モンゴル(中華人民共和国 内モンゴル自治区)のオルドスに生まれ育った。彼の幼少時代は中国全土で文化大革命が荒れ狂った時期で、彼の一家も大いなる恐怖を体験したそうだ。その文革は彼が13歳の年に終了が宣言され、中国は改革開放へと舵を切る。中国が市場経済へと足を踏み入れていった80年代の後半に筆者は北京で日本語を学び、そして中国を離れた。

 「古代のシナ地域、ことに中原とよばれた華北の高原地域では、農耕を基盤として、四囲を高い城壁で囲いこみ、外敵の侵入を阻む都市国家が成立した。 (中略) ここで重要なのは、こうした都市国家には、国境という概念が存在しなかったことだ。 (中略) 都市国家の人口や富が増加し、つよい権力や高い軍事力をもつ指導者が出現すると、『国土開拓』と称して、壁をどんどん外側へと拡張していく。 (中略) かれらシナ人、中国人にとって、国境とは国力が高まれば自由に変更可能なものなのである。北方民族に侵略されたという意識はもつが、自分たちがモンゴル平原や新疆(東トルキスタン)に侵入しても、『侵略した』という意識は皆無である。 」

 「『中華思想』が厄介なのは、それが他の民族との接触によっておおきく歪んでしまったことだ。端的にいえば、遊牧民族とのあいだでの戦いでのたびかさなる敗北のなかで、現実を否認して、『自分たちは敗れたが、野蛮な敵よりも、文明的であり優っている。』、これがさらに嵩じて『自分たちは文明的で優った民族だから、野蛮人に負けるはずがない。現実の方がまちがっている』という虚構をつくりあげてしまったのである。そして近代以降は、その『敵』が西洋列強ならびに日本におきかえられた。」

 「それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく。そればかりか、『チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ』と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。」

 こうした記述だけをピックアップすると、いわゆる「嫌中本」と混同されてしまいそうだが、中国国内にいては決して発することは出来ないであろうこうした言論の中に、内モンゴル出身の著者が中国籍を離れた理由が滲み出ているようだ。

佐藤: ISの影響が中央アジアに浸透しつつある中で懸念されるのが、この影響が新疆ウイグル自治区に及ぶ危険性ではないでしょうか。(中略)

宮家: ウイグル族に対する共産党政権の厳しい取り締まりはイスラム過激派だけでなく、いまや一般イスラム教徒の信仰活動にまで及んでいる。しかし、中東を「後背地」とするウイグル・イスラム教は、チベット仏教のように中国国内で「封じ込め」ることが絶対にできません。中国政府指導部がイスラムをより正しく理解し、真の共存の道を見出さないかぎり、ウイグルは中国のアキレス腱でありつづけるしかないでしょう。(中略)

佐藤: ほんとうに中国はイスラム教、イスラム教徒との付き合い方がわかっていませんね。

宮家: そう思います。(中略) 中国のアキレス腱は台湾や朝鮮半島だけではありません。今後の中央アジア情勢次第では、新疆ウイグル自治区の動向も中国の安全保障にとって、重大事項となるでしょう。
(『世界史の大転換:常識が通じない時代の読み方』 佐藤優・宮家邦彦 著、PHP新書)
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 こうした事態について、『逆転の大中国史』の筆者・楊海英は終章で、「現在の中国は歴史に復讐される」と表現している。中国史ならぬユーラシア史は、21世紀の前半に、また新たな局面を迎えるのであろうか。

会津・上越 各駅停車 (4) [鉄道]


 2016年10月1日(土)、出張の帰りの日。会津若松を朝6時に出て足掛け4時間43分の「只見線の旅」を楽しんだ私は、上越線・小出駅のベンチに座り、上りの普通列車を待っていた。未明から続いていた小雨が上がったばかりで、遠くの高い山々にまだ雲がかかっている。上越線のこの区間は1時間に1本のダイヤ。駅構内はいたって閑散としている。

1732M (11:10 小出 → 12:43 水上)

 11時9分、長岡発・水上行きの普通列車が定刻に到着。二両連結の電車の座席は7割ほどが埋まっている。数えるほどの乗降客が入れ替わり、11時10分に発車。非電化の只見線を走ってきたキハ48に比べれば、VVVFインバータ制御のE129系電車の走りはさすがに軽快だ。

 小出を出発して二つ目の駅が浦佐。東京へ早く帰るならここで(或いは越後湯沢で)上越新幹線に乗り換えればいいのだが、私はそのまま普通列車に乗り続ける。それには理由があった。(そもそも会津若松から東京に早く帰りたいのであれば、只見線経由などにはしないものだ。)

 「長岡発・水上行きの普通列車」とサラッと書いたが、それは上越国境の山々を清水トンネルで越えて行く列車である。そして、上越新幹線が間もなく開業33周年を迎える中、戦前に建設された清水トンネル(下り線は昭和42年開通の新清水トンネル)を走る在来線の定期列車は、今や1日5往復しか設定されていない。その「希少」というべき列車に27分の接続で小出駅から乗れたのだ。今日は土曜日。急いで東京に帰るニーズも特にないならば、この電車を途中で降りてしまう手はない。私自身にとっても、在来線で上越国境を越えるのは33年ぶりのことになる。
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 その浦佐駅では、雨上がりの雲が八海山や越後駒ヶ岳をまだ隠している。よく晴れていれば、進行左手の窓の外にその姿が大きく見えていた筈だ。
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(浦佐駅付近からの眺め。左が越後駒ヶ岳、右が八海山)

 東西に迫る山々の間に形成された平地を辿りながら、列車は魚野川を遡るようにして走る。その平地の幅は一駅ごとに狭くなり、一段と山が迫るようになった所が越後湯沢だ。列車はここで9分間の停車。かなりの乗客が降り、これから始まる山越えの区間を乗り続ける人々は1両あたり20人程度になった。
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(越後湯沢駅に到着したE129系)

 私が中学・高校を過ごした1970年代に、上越線には「新潟色」という塗装を施された電車が走っていたものだった。朱色と山吹色のツートンカラーに塗られた旧型国電で、車体も塗装も首都圏では見かけない物珍しい存在だったのだが、現在のE129系電車に施された二色のラインが、その伝統をさりげなく引き継いでいる。
http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/2011/10/70.html

 ホームの南端に立つと、いよいよこれから越えていく上越国境方面の山々が行く手に続いている。もっとも今見えているのは、本当の上越国境(谷川岳や茂倉岳など)から見てまだ前衛の山々に過ぎないのだが。
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 越後湯沢を出た普通列車が関越自動車道を潜るあたりが岩原スキー場前駅。その直ぐ先に、線路がかなり急な右カーブで綺麗な半円を描いて行く場所がある。
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 一見すると、田んぼの中をわざわざ遠回りしているようなのだが、地図ソフトで調べてみると、この半円形の始めと終わりの標高は後者が30mほど高い。それを直径約800mの半円形で上るのだから、計算してみると23‰ほどの急勾配である。この区間の開業は清水トンネルと同じ昭和6年だが、上越国境に向かって標高を上げて行くためにはこうしたループが必要だったのだ。

 越後中里を過ぎて再び関越自動車道の下を潜ると、下り線の線路が右手に分かれて行く。下り線は戦後に作られたルートで、私が乗っている上り線が昭和6年開業時のルートだ。それは右回りのループ・トンネルで標高を稼ぐ「松川ループ」と呼ばれるもので、列車に乗っていてもそれがループ・トンネルであるかどうかは実感しにくいのだが、地図を調べてみると、二つのトンネルの入口と出口では70m強の標高差がある。
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(松川ループ)

 その松川ループを過ぎて土樽駅に到着。新潟県最南端の駅で、その先にはいよいよ国境の清水トンネルが待っている。

 12:10 土樽駅を発車。速度を上げて列車は清水トンネルに進入。それまでの急カーブの箇所とは違って、真っ直ぐに掘られたトンネルの中を列車はぐんぐんと加速して走っていく。1922(大正11)年に着工し、9年の歳月をかけて1931(昭和6)年に開通した全長9,702mの清水トンネル。前後の土樽駅も土合(どあい)駅もトンネルの入口の直ぐ近く。列車はちょうど10分間でこの区間を走り抜けた。
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(清水トンネルの断面図)

 12:30 群馬県側の土合駅に到着。ここは上り線だけが地上ホームで、下り線のホームは戦後に建設された新清水トンネルの中の地下ホームになっている。谷川岳を目指す登山者たちが、この地下ホームから500段近い階段を上る姿がかつては有名だったのだが、土合駅を通る列車の数が激減した今は、この駅を利用する登山者も少ないようだ。
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(土合駅上り線ホーム)

 私も高校時代に冬の谷川岳へ行った時、夜行列車を降りて延々とこの階段を上った経験があるのだが、その時以来の土合駅。今日の上り線ホームでは一日5本の希少な列車を目当てに、鉄ちゃん達がカメラを構えていた。
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(谷川岳の東の麓にある土合駅)

 土合駅を過ぎて、まだもう一つ見どころが残っている。次の湯檜曽(ゆびそ)駅へと降りて行く際に通る「湯檜曽ループ」だ。土合駅を出て直ぐにトンネルがあり、その次のトンネルを出ると、進行右下に湯檜曽川の深い谷がかなり低い位置に見える。そのまま注目しよう。しばらくするとその谷底に、私たちが乗っている電車とは直角方向に谷を渡る線路が見える。実はそれがこの先の私たちのルートで、谷を渡ったところが湯檜曽駅なのだ。
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(土合から湯檜曽へ)

 列車はほどなく第二湯檜曽トンネルに入り、一度外に出た後、直ぐに第一湯檜曽トンネルに進入。この区間が一体となってループ線を形成し、先ほど見たように、このループ線に入る前の場所の真下に、それまでの進行方向とは直角に出るのである。ループの前後の標高差は凡そ46m。そうやって到着した湯檜曽駅のホームから線路の方向を見上げると、先ほど通って来たループ線の直前の地上部分が見えるのではないだろうか。(そんな暇もなく列車は直ぐに出発してしまうのだが。) なお、下り線の湯檜曽駅は、土合駅と同様に新清水トンネルの中に設けられた地下ホームになっているため、こうしたループ線を楽しむことは出来ない。
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(湯檜曽ループ)

 「国境のトンネルを越えると雪国であった。」という小説の書き出しとは逆方向に上越国境を越えて来た今日の乗り鉄。山の向こうとこちらで劇的に天候が変わることもなく、群馬県側も曇り空で高い山は雲に隠れている。そして、定刻の12:43に終点の水上に到着。反対側のホームには15分で接続する高崎行きの電車が待っていた。
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(水上駅)

740M (12:58 水上 → 14:01 高崎)
4835Y (14:14 高崎 → 15:53 池袋)

 水上から先は、山の中から関東平野へと降りて行くルートである。晴れていれば車窓から武尊山、赤城山、榛名山などの山々の姿を楽しめたのかもしれないが、今日は曇り空で、渋川の近くの子持山(1296m)の一角が辛うじて見えた程度だ。今日の乗り鉄のハイライト部分が終わってしまったことや、朝6時から列車を乗り継いで7時間を超えたことから、高崎行きの電車の中で、私は少しウトウトしてしまった。座席に座り続けてさすがにお尻も痛い。高崎で湘南新宿ラインの特別快速に乗り換えた時には、グリーン車に席を取ることにした。
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 会津若松から只見線・上越線を経由して池袋まで、6本の普通列車(含:只見線の代行バス)を乗り継ぎ、9時間と53分をかけた今日の乗り鉄の旅。いや、正確にいえば前日も郡山から会津若松までは磐越西線の普通列車に乗って来た。我ながら、「各駅停車」と名付けたこのブログの本領発揮といったところだろうか。

 子供の頃から列車の車窓を眺めるのが好きだった私の人生。還暦を過ぎた今も、「三つ子の魂」はなかなか抜けそうにない。

会津・上越 各駅停車 (3) [鉄道]


 会津若松を朝6時に出る只見線の始発列車に乗り、2時間と4分をかけて会津川口までやって来た、今日の乗り鉄の旅。ここからいよいよ核心部へと入って行く。会津盆地で降っていた軽い雨はいつしか止んで、只見川の深い渓谷の中にある会津川口では、曇り空ではあるものの薄日も射してきた。

代行バス423便 (08:15 会津川口 → 09:05 只見)

 会津川口駅の小さな駅舎の改札を出ると、駅前に一台のマイクロバスが待っていた。
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 只見線の会津川口・只見間は田子倉ダムの建設のために敷設され、1957(昭和32)年から1961(昭和36)年までの間、電源開発㈱専用の貨物線として使われていた。そしてダムの完成後に路線の改良工事が行われ、1963(昭和38)年から国鉄・会津線の一部になったという戦後の歴史を持っている。

 ところが、2011(平成23)年7月の新潟・福島豪雨では、特にこの区間が甚大な被害を受けて今もなお不通が続いており、マイクロバスが同区間の旅客輸送を代行しているのだ。今朝の乗客は地元のお年寄りが一人の他は、私ともう一人の乗り鉄の計3名だけ。結構しっかりとしていて綺麗な車両で、何だか申し訳ない感じだ。しかも、そのお年寄りはわりと直ぐに降りてしまった。

 女性ドライバーの運転で、只見線に並行する国道252号線を走り出した代行バス。会津川口を出てわりと直ぐに、鉄橋の一部が落ちたままの只見線・第5只見川橋梁が右手の窓の外に見えた。続いて本名ダムを渡るところで、同様に第6只見川橋梁が途中から崩落している姿が左下に現われる。
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 東北の大震災があった年の7月下旬、例年なら梅雨明けの声も聞こえてくる頃に梅雨前線が新潟県付近に停滞し、日本海から雨雲が次々に流れ込んで、新潟・福島両県の境になる山間部では記録的な大雨となった。7月28日には只見で一日に134ミリ、会津川口を含む金山で204ミリ、続く29日には只見で実に439ミリの雨が降ったのだ。只見川の最も上流でこれだけの豪雨になれば、下流に大きな影響が出るのは必然というものだろう。只見線では3つの橋梁が流失し、多くの箇所で路盤が流出することになった。
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 「河川法で川砂利の採取が厳しくなってから、只見川の川底が浅くなり、大雨が降ると川の水位が上がりやすくなっていました。そこへあの豪雨ですからねえ。」
 「あの時は上流のダムが満水になってしまい、それでなくても水位が上がっていた川に放水せざるを得なくなりました。他にどうしようもなかったんでしょうけれど、それが水害の一因になったという思いが、地元にはありますね。」

 ドライバーが語ってくれる当事の様子は、目の前の車窓風景からはなかなか想像がつかない。
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(第8只見川橋梁。川を渡るのではなく川と平行に架けられた珍しい橋梁だ。)

 JR東日本はこれまでの復旧費用と崩落した橋桁の撤去に28億円を既に投じたとしており、不通区間27.6kmを「仮に復旧するならば更に85億円の費用と約4年の工期が必要」との数字を2016年6月に示している。しかも、そうした費用を投じて鉄道を復旧させたとしても、列車運行のための直接的な経費が年間2.8億円、固定資産税や減価償却費を加えると年間3.35億円の経費になるのに対して、この区間で得られる運賃収入は年間僅か5百万円に過ぎず、毎年3.3億円の赤字が積み上がって行くという。

 従って同社は、復旧費とその後の運営費について、「鉄道復旧のためには、『上下分離方式』も含めた負担のあり方の検討が必要」という論旨のペーパーを、福島県主催の「只見線復興推進会議検討会」に提出している。とはいうものの、今後一層の過疎化と高齢化が目に見えている中で、地元自治体としてもこんな金額規模の復旧費と毎年の運営費を負担していくことは現実的ではないだろう。
http://www.jreast.co.jp/railway/pdf/20160618tadami-1.pdf

 それでも、JRが赤字ローカル線を存続させることの大義名分として、「冬場の積雪で代替の交通手段がない場合」という理屈がこれまでにはあった。豪雪地帯の道路の除雪は大変だが、ラッセル車などの設備を持つ鉄道は比較的雪に強いとされていたのだった。

 「今は真逆なんですよ。道路は昔より整備されてトンネルもあり、除雪車も頻繁に来るようになりました。大雪になると、今は只見線が運休になることの方が多いんです。」

 ドライバーの話を聞きながら、国道252号線の沿線風景と、その中に細々と残る、列車が走らなくなって久しい只見線の築堤や高架橋などを眺めていると、この区間の鉄道の復活には限りなく高いハードルがあると考えざるを得ない。現に今日だって、この代行バスに終点まで乗っているのは私も含めて二人の物好きだけなのだ。
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 会津川口から30km弱の道程を走り、9時過ぎに只見駅前に到着。ここで9:30発の小出行きの列車を待つ。それが出てしまうと次は6時間後というのもなかなかのものだ。何しろ一日3往復の列車しかない只見・小出間。浅田次郎の小説『鉄道員(ぽっぽや)』に出て来る「幌舞線」が、確か一日3往復という設定だった。北海道・石勝線の夕張支線(南夕張⇔夕張)だって一日5往復なのだ。これは「超」が二つぐらい付くローカル線という他はない。
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(只見駅の時刻表。上りはなく、下り列車が一日3本だけ。)

2423D (09:30 只見 → 10:43 小出)

 町の北側に迫る山の縁(へり)に設けられた只見駅のホーム。一本だけの島式で簡素なことこの上ない。いかにも秘境という感じの駅だ。
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(信号機の向こうは草が生い茂る不通区間)

 二両連結のキハには、合わせて10人ほども乗っていただろうか。定刻にホームを離れると、程なく田子倉トンネルに入った。

 これから列車が走るルートは、ここまでの会津側とは全く別の歴史を持って建設されて来た。まず、1942(昭和17)年に小出・大白川間が只見線として開業。これは軍事上の要請で、耐火煉瓦の原料となる硅石を大白川から運ぶための鉄道であったそうだ。それが、戦後になって田子倉ダムの完成後に只見と大白川を結ぶ約6.4kmの長大な六十里越トンネルが建設され、1971(昭和46)年に会津側の会津線と鉄路が繋がることになる。その時から会津若松・小出間の全線が只見線と呼ばれるようになった。
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 列車が田子倉トンネルを出て六十里越トンネルに入るまでのごく短い時間だが、左側の窓から田子倉ダムを眺めることが出来る。
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 そしてまた直ぐに闇の中へ。六十里越トンネルが貫く山の尾根は福島・新潟両県の県境であり、阿賀野川水系と信濃川水系との分水嶺にもなっている。その長い闇を抜けると、左の窓の下を流れる沢は列車の進行方向、即ち越後側に流れていて、分水嶺を越えたことを実感する。

 それにしても・・・と改めて考える。1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法において、「福島県会津柳津ヨリ只見ヲ経テ新潟県小出ニ至ル鉄道」が確かに予定線の一つに定められていた。けれども、長さ6.4kmに及ぶ六十里越トンネルを建設しない限り、これは実現しなかったルートだ。この新潟・福島県境の山を越える交通ルートを作ることは、実際にどれほどのニーズに基づくものだったのだろう。「六十里越」という言葉の通りに、人々は昔から長い山道を越えて行き交っていたのだろうか。

 それぞれ別々の目的と歴史を持って建設されてきた会津若松・只見間と小出・大白川間の鉄道。長大な六十里越トンネルの完成によって1971(昭和46)年に両者が繋がった時、皮肉なことに福島県側でも新潟県側でも人や物資の輸送ニーズはピークを過ぎていた。既に1966(昭和41)年から赤字決算を続けていた国鉄にとって、全線開通の時から只見線はお荷物になり続けたのである。

 新潟県側に出てみると、窓から外を眺めた印象だけだが、トンネルの向こうの只見や会津とは少し風土が違うのかなと思う。深い谷の中の風景ではなく、それなりの平地の向こうに高い山が見えている。入広瀬の駅からは、町並みの背後に守門岳(すもんだけ、1537m)が聳えていた。
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 列車が進むにつれて平地は広くなり、今度は南の方角に高い山々の姿がある。越後駒ケ岳(2003m)は残念ながら雲の中だが、八海山(1778m)のピークはしっかりと見えていた。
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 やがて列車は関越自動車道をくぐり、ゆっくりとした左回りで魚野川を渡って、定刻通り小出駅に到着。会津若松から4時間43分をかけて、遂に只見線を走破することが出来た。

 上越線との乗換駅だというのに、小出は何とも寂しい駅だ。町の中心部とは川を隔てているからか、駅前には何もなくて、構内にも飲み物の自販機とトイレぐらいしかない。ホームで上越線の列車を待っているのも、ほんの数人だ。もっとも、こんな風に閑散とした風景に出会えるのが乗り鉄の妙味ではあるのだが。
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(小出駅に到着した只見線のキハ)

 ともかくも、只見線の旅は無事に終わった。しかし、ここまで乗り鉄をしてきた今日の私には、まだもう一つ目的が残っている。
(To be continued)


会津・上越 各駅停車 (2) [鉄道]


 10月1日(土)午前5:50、会津若松駅の4番ホームはひっそりと朝を迎えていた。

 まだ薄暗いホームを照らす寂しげな灯り。そのホームの向こうへと真っ直ぐに伸びていく単線鉄道のレールと、そこから分岐していく支線の数々。そして彼方に黒々と続く見知らぬ形の山並み・・・。一人旅にはこんな光景が似合っている。
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 ホームにはディーゼル・エンジンを重々しく響かせる二両連結のキハ。只見線の会津川口行き始発列車で、乗客は一両に4~5名。私は先頭車両中ほどの右側のボックス席に居場所を定める。前の座席に足を投げ出し、カメラを点検。デイパックに入れて来た「鉄道地図」を膝の上に。窓側の席から外を眺め続ける「乗り鉄」の長い一日が始まろうとしている。
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423D (06:00 会津若松 → 08:04 会津川口)

 定刻の午前6時。ディーゼル・エンジンが一段と唸りを上げて、ゆっくりと動き出す。爽やかな青空の下、秋の陽がたっぷりと降り注いだ昨日からは天気が変わり、今朝は会津若松の町並みが軽い雨に煙っている。

 昨日の午後は会津若松で仕事上の用事をこなし、夜はその流れで大宴会。殆どの人たちとは初対面だったのだが、最初からうちとけてしまい、地元企業から差し入れていただいた会津の銘酒の数々が片っ端から空瓶に。今朝はその酒が若干残っていなくもないのだが、これから「乗り鉄」をするんだと思えば大丈夫。週初から仕事の忙しい日々が続いたことも忘れて、今日は列車の旅を楽しむことにしよう。
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(会津盆地を大きく南へ迂回する只見線)

 会津若松を出た後、只見線はしばらく南下を続け、会津盆地を右回りでほぼ半周するようなルートを走る。只見方面を目指すにはずいぶんと遠回りで、どうしてこんなルートになったのか。一級河川の阿賀川を渡り、只見線の駅としては会津盆地の一番南に位置する会津本郷駅付近では、天気が良ければ北方に磐梯山や飯豊山を眺めることが出来るはずである。
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(只見線・会津本郷駅付近からの展望を再現)

 会津盆地を半周し、途中8つの駅で地元の高校生たちを少しずつ乗せて、8:36に会津坂下(あいづばんげ)駅に到着。7分停車の間に上り列車と交換する。ここが只見線のルート上では会津盆地の北西の端になり、あたり一面の田の風景ともここでお別れだ。昨日の午後から楽しんできた、秋の実りの美しい風景。その会津が戊辰戦争ではなぜあのような悲惨な目に遭わねばならなかったのか。歴史は時として理不尽なことがあるものだ。

 会津坂下を出た列車は進路を西に変え、ちょっとした山の尾根をトラバース状に左カーブで越えていく。それなりの勾配があるようで、キハはゆっくりと走るのだが、そのトラバースで尾根の反対側に出たあたりの森の中にあるのが、塔寺(とうでら)という無人駅だ。
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(会津坂下を出て只見川の渓谷に近づいていく只見線)

 一見したところ、近辺に民家は全く見当たらず、いったいどんな人が利用する前提でこの駅が設けられたのだろう。更には、列車が動き出してから気がついたのだが、ホーム上の小さな待合室に「熊出没注意」という貼紙が。それも、
 「ホーム付近にも出没しています。見かけたら躊躇なく待合室に避難してください。」
などと恐ろしげなことが書いてある。私はこの貼紙を写真に残すことは出来なかったが、ネット上にはこんな記事もあるので、ご参考まで。
http://photozou.jp/photo/show/1162398/184122913

 次の会津坂本駅も人っ子一人いない無人駅だが、右側の窓のすぐ側にまで栗の木が迫っていて、実に見事な栗の実を枝にたくさんつけている。これならやっぱり熊は出るんだろうな。
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 このあたりで只見川の流れが右から近づいて来て、只見線はその渓谷を遡るようになる。次の駅が会津柳津(あいづやないづ)で、温泉町のある所だ。只見線は会津若松からここまでが会津線と呼ばれる軽便鉄道として1928(昭和3)年までに開通し、ガソリン・カーが走っていたという。

 只見線のルートはいよいよ只見川の渓谷に近づいて行く。二回ほど鉄橋で川を渡り、7:29に会津宮下駅に到着。ここで再び上り列車と交換するため8分間の停車だ。只見線全線の内、戦前に開通したのは会津若松からここまでの区間である。
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(ローカル線色たっぷりの会津宮下駅)

 会津宮下から先は只見線の核心部に入ったといっていいだろう。一度鉄橋を渡ってトンネルに入り、それを出たところが早戸駅。そこからしばらくは只見川の渓谷を左手に見るようになり、会津水沼で再び右岸へと渡る。確かにこれが紅葉の時期だったなら、素晴らしい渓谷美を楽しむことが出来るだろう。
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 こんなに険しい地形の中でよくぞ鉄道を通したものだと感心してしまうが、先ほどの会津宮下からこの列車の終点の会津川口までは、戦後になって田子倉ダムの建設のために建設された区間なのである。開業は1956(昭和31)年9月だから、私と同様、今年で還暦ということになる。
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(第4只見川橋梁を渡る)

 会津若松を出てから既に2時間。飽きもせず窓の外を眺め続けて来たが、終点は近い。

 8:04 ついに会津川口駅に到着。列車から島式の一本のホームに降りたのは、地元の高校生たちが10人ちょっとと、他には私を含めて乗り鉄が2人だけ。ホームからは只見川の流れも見えている。
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(会津川口駅)

 列車はここが終点なのだが、レールはここで行き止まりになっている訳ではない。ここから先も只見川の上流に向かって鉄路が続いているのだが、今は列車が走ることはない。5年前の夏の豪雨による洪水で、この先は3箇所の鉄橋が落ちたままになっているのだ。
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 只見線の旅も、いよいよその最深部へと入ることになる。この先にはどんな景色が待っていてくれるだろうか。
(To be continued)

会津・上越 各駅停車 (1) [鉄道]


Prelude (1227M 11:40 郡山 → 12:59 会津若松)

 郡山で新幹線を降り、連絡口を通って在来線のホームに降りると、磐越西線の会津若松行き電車が既に入線していた。会津地方の郷土玩具「赤べこ」から生まれたマスコット・キャラクターが車体に描かれた「赤べぇ塗色」の719系交流電車。一時間に一本のダイヤながら、平日の昼間に6両編成とは立派である。
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 9月30日(金)の11時40分、今週初めて見る青い空の下、電車はゆっくりと郡山のホームを離れ、新幹線の高架を右に見送って会津盆地へと向かう鉄路を走り始めた。乗客の人数はというと、3両連結の電車でも十分な程度と言えばいいだろうか。今日は私の会社が所属する業界団体の活動の関係で、会津若松へ出張する用事が出来た。そんなことでもなければ、平日の昼間にこんなにのんびりした普通列車に乗ることもなかなかないものだ。右の車窓には安達太良山(1718m)がよく見えている。
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(磐越西線・喜久田駅付近からの安達太良山の眺めを再現)

 よく考えてみれば、磐越西線に乗るのは生涯で二度目のことになる、初回は大学に入った年の夏に旧友のT君と飯豊連峰へと登山に出かけた時だったから、今から39年も前のことだ。当時は上野から455系電車の夜行の急行「ばんだい」に乗って朝の5時半頃に会津若松に着き、そこでディーゼル列車に乗り換えて喜多方の一つ先の山都まで行き、更に路線バスに揺られて飯豊連峰の南側の登山口へと辿り着いた。そういう時間帯だったから、天気は悪くなかったはずなのに磐越西線の沿線風景は全く覚えていない。

 この時の飯豊連峰が私にとっては初めての東北の山だったのだが、山の深さと雄大さ、そして標高2,000mに満たない山の尾根がハイマツに覆われていることに驚いたものだった。(信州の北アルプスだったら森林限界は標高2,500m程度なのだから。) いい山だった、という思い出が今も残っている。

 この路線は郡山・喜多方間が1967(昭和42)年に交流電化している。その時からほぼ半世紀が経過しているのに、沿線の駅の様子は何だかつい最近まで非電化だったかのような雰囲気だ。それは昔の時代の低いホームが残されているからだろうか。何せ郡山を起点に1898(明治31)年から部分開業していった岩越鉄道という私鉄がオリジンになる、歴史のある路線なのだ。
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(磐越西線 郡山・会津若松間)

 山越えの区間の途中にあり昔はスイッチバックの駅だった中山宿を出て、分水嶺の山を中山トンネルで越えて上戸(じょうこ)駅に着くと、かつての貨物ホームが赤錆びた線路と共に残されていた。
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 その上戸駅を過ぎると鉄路は猪苗代湖に近づき、川桁駅を過ぎるといよいよ右の車窓に磐梯山(1819m)が大きな姿を現した。爽やかな秋空とまさに収穫期を迎えた田んぼの黄色が鮮やかなコントラストを見せている。それにしても、今日は久しぶりに良い天気だ。背広なんか着ているのが勿体ない。
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 翁島駅を過ぎると、磐越西線は勾配緩和のための大きなループを繰り返すようになる。磐梯山の裾野を会津盆地に向けて下っていくのだが、当然のことながら逆方向の列車にとっては上り勾配の連続である。

 2011年3月11日の東日本大震災の直後、磐越西線は一躍注目を集めることになった。震災で東北地方太平洋側の鉄道や道路が寸断されて被災地が燃料不足に陥ったため、郡山の石油ターミナルに石油を運ぶべく、震災発生から二週間後の3月25日を初回とする臨時の石油輸送列車が仕立てられ、この路線を通ったのである。そのルートは、横浜の根岸駅から出発して高崎線、上越線、信越本線を経由して新津から磐越西線に入るというものだった。貨物列車が通らなくなって久しい磐越西線の急勾配を、DD51型ディーゼル機関車が重連で10両のタンク貨車を牽き、最後部からDE10型機関車が押し上げる姿は、大震災の最中の東北地方にあって、希望の光のように眩しかったのだ。
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 列車が会津盆地の入口にさしかかった頃、右の車窓の遠くには平坦な山容ながら頂上付近の一部にうっすらと雪が積もった山の姿が現れた。これが飯豊山(2105m)だ。北アルプスの初冠雪の話はまだ聞こえて来ないのに、やはり東北の秋は早いな。
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(磐越西線・広田駅付近からの展望を再現。左が大日岳、右が飯豊山)

 鉄路はなおも左カーブで会津盆地へと入り込む。あたり一面が黄金色に輝く秋の実りの風景の彼方には、会津と越後を隔てる山々が続いている。
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 今日はこの後、会津若松で工場見学などを含めた業界団体の用事が夕方まであり、夜は宴会だ。一泊して明日の土曜日は東京に帰るだけなのだが、行きと同じルートで郡山から新幹線に乗るのもつまらない。こんな機会も滅多にないからと私は一計を案じていた。せっかく会津に来たからには、只見線に乗ってみようという計画である。秋の紅葉の美しさで知られる只見線は、会津盆地の北西から只見川の渓谷を遡り、田子倉ダムの北辺を長いトンネルで越えて上越線の小出まで、深い山のなかを細々と走る典型的なローカル線だ。
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(JR只見線)

 その只見線は、東北の大震災の年の7月に発生した「新潟・福島豪雨」で甚大な被害を受け、途中の区間が寸断されてしまった。現在は会津若松・会津川口間が一日6往復、そして只見・小出間が3往復しか走っておらず、両者の間の不通区間である会津川口・只見間を上り7便・下り6便の代行バスが結んでいる。ダイヤが何とも限られているのだが、会津若松を朝6時ちょうどに出る列車に乗ると比較的乗り継ぎ時間が短く、10:43には小出に辿り着くことが出来るのだ。これは行かない手はない。明日は早起きをして、只見線の全ルートを是非とも走破してみよう。
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(只見線 下りの時刻表)

 11時06分、定刻から7分遅れで列車は会津若松駅に到着。出口には今日の会合に出席するメンバーが三々五々集まっている。ともかくも、これから始まる仕事の日程を無事にこなすことにしよう。

(To be continued)

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