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二神の山 - 筑波山 [山歩き]


 画面上部に大胆に描かれた、翼を広げる大鷲。その鋭い眼が見下ろすのは江戸の雪景色。「深川洲崎十万坪」と題された何ともダイナミックな構図のこの錦絵は、言うまでもなく歌川広重の『名所江戸百景』を代表する作品だ。
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 洲崎は現在の東京メトロ東西線・木場駅の南東側で、江戸時代は海岸線だった場所だ。この絵は海側から洲崎を眺め下ろしているから、背後に描かれた雪の山はどこかといえば、この方角に見えるのは一つしかない。言わずと知れた筑波山である。男体山(871m)と女体山(877m)の二つのピークがあり、東京の都心から眺めると、確かにこの絵の通り双耳峰のように見えている。

 日本百名山に選ばれた山の中では最も標高の低い山で、ケーブルカーもロープウェイもあるから、筑波山へ行こうと思えばいつでも行ける。そう思うと、実はなかなか行かないものだ。私の山仲間たちもそうだったはずである。

 しかし、大海原のような関東平野の中にそこだけ900m近くも隆起した異様な姿を持ち、だからこそ古来人々に崇められ、その山域全体がイザナギ・イザナミの神を祀る筑波山神社の境内になっているこの山には、いつかは登ってみたいと思っていた。更に言えば、私たちが卒業した中学・高校は、卒業のずっと後になって「筑波」という地名と縁が出来ることになった。その点からも、筑波山にはどこかで一度、それも出来れば同期生の山仲間たちと行ってみたいと思っていたのである。
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 12月11日(日)の朝7時に秋葉原駅を出る「つくばエクスプレス」(TX)に乗車。これから山へ出かけるというのに、山仲間たちとの集合場所が秋葉原というのも何だか不思議な気分だ。

 初めて乗るTX。北千住までは各駅停車だが、そこから先の快速区間はぐんぐんと加速し、八潮の手前で地上に出ると、あっという間に中川や江戸川を越えて埼玉県最初の駅・南流山に到着。ここで武蔵野線と、そして次の流山おおたかの森で東武野田線(アーバンパークライン)とそれぞれ交差した後、利根川を渡って茨城県の守谷駅へ。関東では稀有な非電化の私鉄・関東鉄道常総線の線路を見下ろしながら、更に北上を続ける。直流で走ってきたTXはここから交流に切り替わるのだが、デッドセクションの通過時に車内灯が消えることもなく、実に滑らかに交流区間へと入った。窓の外では、筑波山の姿がさすがに大きい。
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 秋葉原から僅か45分でつくば駅に到着。そこから筑波山シャトルバスに40分ほど揺られると、筑波山神社前のバス停に着く。そこからは関東平野の彼方に朝の富士山が姿を見せていた。
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 山の方を眺めると、赤い大鳥居の向こうに筑波山の西側のピーク(男体山)が思っていたよりも高く聳えている。
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08:45 筑波山神社 → (御幸ヶ原コース) → 10:20 御幸ヶ原 → 10:35 男体山頂上

 いよいよ出発。まずは筑波山神社の参道を上がり、拝殿で二礼二拍手一礼を済ませてからケーブルカーの乗り場方向へと進む。その先が登山道の入口だ。辺りには、もう終わったかと思っていた紅葉がまだ残っていた。
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 登山道は基本的にケーブルカーのルートに沿った道で、常緑樹の森の中を登っていく。筑波山は火山ではない筈なのだが、それにしては大きな岩がゴロゴロした山道だ。時にケーブルカーの線路がすぐ隣に迫ると、それが案外急傾斜なことに気づく。いったい何パーミルあるのだろう。風情はだいぶ異なるが、私が香港に駐在していた頃、ヴィクトリア・ピークに上がるケーブルカー(ピーク・トラム)に沿った急階段の道をよく歩いたことを思い出した。
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 それにしても、登山道は案外としっかりした登りが続く。標高1,000mに満たない低山といえども侮れないものだ。傾斜の一番きつい箇所では時代劇に出て来る砦のような土留めが施されている。気分は楠木正成の千早城か、或いは赤坂城か。
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 そんな中、私たちは殆ど休憩も取らずに登り続け、概ねコースタイム通りの1時間35分ほどで御幸ヶ原に着いた。あたりは展望台のようになっていて、筑波山よりも北側の山と平地の眺めが広がっている。一番目立つ山が加波山(709m)である。
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 御幸ヶ原からは西側にこんもりとした男体山のピークが見えている。そこまでは10分足らずの登りである。
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 そのピークはとても狭く、筑波山神社の男体山御本殿が占めているので、木々に遮られることなく下界を眺められるのは一人か二人分ぐらいのスペースしかない。しかし、眼下に広がる関東平野の眺めは何とも広大だ。矢印の位置に見えている富士山から右へ、大菩薩や奥多摩、奥秩父など、いつもは通勤電車の窓から手に取るように眺めている山々が、ここでは遥かな彼方に連なっている。
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10:40 男体山頂上 → 11:07 女体山頂上(10分休憩) → (白雲橋コース) → 11:50 弁慶岩(20分休憩) → 12:55 筑波山神社

 男体山から再び御幸ヶ原へ降りる、その名前からはもう少し草原のような地形を想像していたのだが、地面は舗装され、ケーブルカーの駅や展望台、土産物屋、軽食屋などが並んでいる。いささか風情に欠けるが、昔からの観光地とはそういうものだろう。その一帯を過ぎて再び始まった山道をしばらく進むと、筑波山名物「ガマの油」の売り口上がこの前で考案されたというガマ石があった。
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 やがて山道は狭くなり、そして岩が多くなり、女体山御本殿の建物を囲むようにして山頂へと向かう。そのピークは男体山よりずっと広く、登山者たちが大きな岩の上に立って下界の眺めを楽しんでいた。私たちもその一員となって最前列に出ると、南東方向には霞ヶ浦が輝いている。
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 富士山は辛うじてその姿をまだ残しているが、丹沢方面から盛んに沸き上がる雲に、間もなく隠れてしまうことだろう。
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 歩いて来た方角をふり返ると、男体山が火山でもないのにきれいな円錐形の山体を見せている。なるほど、歌川広重もこのピークを少しデフォルメして描いていた訳だ。
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 女体山から白雲橋コースと名付けられた山道を下る。時刻が11時を過ぎ、お昼までに山頂を目指すパターンが多いのか、この山道を登って来る人々が案外多く、岩場が続く所では結構な列が出来ている。老若男女、年齢層も様々で、やはり筑波山は人気があるようだ。

 眺めてみればその名の通りの大仏石。大きな岩と地面との間がトンネルのようになった弁慶七戻りなど、このコースは奇岩が色々とあり、変化に富んでいて面白い。大きな岩がゴロゴロした道を下るので膝が痛くなるが、低山ながらもなかなか手応えのある山である。私たちはその弁慶七戻りのすぐ先にちょっとした休憩場所を見つけ、昼食を取ることにした。真っ青な冬空と、いかにも神社の奥山の独特な雰囲気。木漏れ日を浴びながら、私たちは筑波山の持ち味を噛み締めていた。
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(その名の通りの大仏石)

 筑波山といえば、ずっと不思議に思っていたことが私にはあった。1864(元治元)年にここで尊皇攘夷の兵を挙げたという水戸天狗党のことである。

 元治元年というと、その前年には長州による攘夷決行、生野の乱、天誅組など尊攘派による激発事件が相次いだが、京都では「八月十八日の政変」で公武合体派の巻き返しを喰らい、尊王攘夷運動は早くも転機を迎えていた。明けて元治元年、水戸藩内で保守派と激しい対立を続けていた藤田小四郎ら尊攘派の急進グループ(人の意見を聞かず偉ぶっているので「天狗党」と呼ばれた)が藩を脱し、攘夷の実行を幕府に迫るとして3月27日(太陽暦では5月2日)に筑波山で挙兵に及んだ。当初は60数名でスタートしたものが、最盛期には1,400人にも膨れ上がったという。

 前年に京都で一敗地に塗れた尊攘派の長州がこの年の7月に蛤御門の変を起こしたのも、この天狗党の挙兵に意を強くしたためだったそうだが、やがて幕府は天狗党への追討令を出し、那珂湊で幕府軍に敗れた天狗党は11月から京都に向けて西走を開始。頼みの綱は京都にいた水戸藩出身の一橋慶喜だったが、慶喜はむしろ自らその追討に向かう。12月17日、天狗党は敦賀で遂に投降し、800人超が捕らえられ、その内の352人が処刑されたという。

 その天狗党が挙兵の場所に筑波山を選んだのはなぜなのだろう。確かに現代のように公共の広場などはない時代のことだから、多くの人数が集まれる場所といえば寺社の境内ぐらいだった筈だ(一揆の集合場所も大抵はそうだった)。だがそれにしても、筑波山頂とは言わないまでも筑波山神社だって標高は二百数十メートルあり、麓の平地からはそれなりに坂道を登り続けなければならない。それなのに、挙兵の地としてなぜここを選んだのだろう。

 昼食の時にそんなことを考えながら、もう一度山の中を見渡してみると、広い関東平野の中で突如として隆起したこの山の中には、何か独特の雰囲気があり、山全体が神社の境内であることにも、自然と頷けるものがある。まして、この山に祀られているのはこの国の開祖であるイザナギ・イザナミの二神だ。そうだとすると、この山で挙兵に及んだ天狗党の志士たちには、筑波山の神威にあやかりたいという思いがあったのではないだろうか。
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(天狗党を描いた『武田耕雲斎筑波山之図』)

 私たちが昼食を楽しんだ場所から筑波山神社までは、距離にして2kmほどの下りなので、歩き始めれば直ぐに着いてしまう。実際にこの日の私たちは、上りこそコースタイムとほぼ同じだったのだが、下りはかなり快調で、13時前、つまり予定より30分ほど早く降りて来てしまった。山道が終わった所でふり返ると、鳥居の彼方に男体山のピークが見えている。ケーブルカーやロープウェイがある山とは思えないほど、その佇まいが厳かだ。やはり神様の山なのだろう。
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 行けそうで行けなかった筑波山。やっとその機会を作ることが出来た。そして実際に自分の足で歩いてみて、やはり行ってみて良かったと思っている。同行してくれた同期生たちにはただただ感謝である。

 おそらくこれが、年内最後の山歩きになることだろう。来年もまた、元気に山へ出かけたいものだ。

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