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行間を埋める作業 (2) [読書]


 1926(大正15)年1月19日というと、この文章を書いている時点からちょうど91年前になる。その年の暦では大寒の二日前にあたるこの日、東京・小石川に本社・工場を構える大手出版会社の労働組合がストライキを決議し、大規模な労働争議が始まった。

 大正元年に結成された友愛会を始祖とする日本の労働組合の全国組織は、次第に社会主義の色彩を帯びて大正12年には日本労働総同盟に改称。その後は更に社会主義者と共産主義者の対立が激化し、同14年には二つに分裂した。その内、共産党系の一派は日本労働組合評議会(略して「評議会」と呼ばれた)を名乗り、数多くの労働争議を指導。前述の出版会社の労組はこの評議会加入労組であり、それとの鮮明な対決姿勢をとった会社側は、操業の短縮と短縮分の賃金カットを発表。これに反発した労組側がストを決議して、総勢2,300人がストに入った。世に云う共同印刷労働争議である。

 会社側は警察を利用して検挙者を出させ、暴力団に組合を襲撃させ、そしてスト破りまで雇ったのに対して、評議会を通じて全国から支援を受けた労組も必死に抵抗。しかし、3月18日までの丸二ヶ月に及んだこの争議は、労働者の大半が解雇され、会社側に有利な形で終結するという、労組の完敗に終わった。後にこの労働争議を題材にしたプロレタリア小説『太陽のない街』を世に出した徳永直は、この時に解雇された労働者の一人だった。

 この共同印刷労働争議が始まった9日後に、憲政会単独内閣を率いていた加藤高明が現役の首相のまま病没。内務大臣・若槻禮次郎が後を継ぐ。第一次大戦の終結後、日本経済が反動不況に苦しんでいたところに関東大震災が追い討ちをかけてから、まだ満3年も経っていない。この時期の日本で労働争議が頻発し、各種の社会運動が勃興したのは、ロシア革命の影響を受けた共産主義思想の高まりが背景にあったのは事実だが、基本的には不況が続いていたからなのだろう。
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 その年の暮の大正天皇崩御によって元号が改まり、明けて1927(昭和2)年3月14日。つまり共同印刷労働争議が労組側の全面敗北で終結する4日前に、衆議院予算委員会における蔵相の失言から銀行の取り付け騒ぎが始まり、いわゆる昭和金融恐慌の契機となった。そして、台湾銀行救済のための緊急勅令案が枢密院で否決されて、第一次若槻内閣は4月20日に総辞職。代わって政友会総裁の田中義一に組閣の大命が下る。

 そう、この時代は経済の面では不況が続いていたのに、政治の面では憲政会(後に民政党)と政友会が交互に政権を担う時代が1932(昭和7)年まで続いたのだ。施行から間もなく70周年を迎える戦後の新憲法下ですら、殆ど実現したことがない二大政党時代。それが不況と恐慌の時代になぜ可能であったのだろう。そして、昭和7年に五・一五事件で現役の首相・犬養毅が殺害され、斉藤実の「挙国一致内閣」が登場して以降は、なぜ二大政党時代が復活することはなかったのだろう。

 歴史教科書の記述の行間を埋める好著『教養としての「昭和史」集中講義』(井上寿一 著、SB新書)を読んで、特に私が思ったのは、私たちは1925(大正14)年の普通選挙法成立という事柄を知識として持ってはいても、それに基づいて実施された旧憲法下での計7回の男子普通選挙によってそれぞれどのような民意が示されたのか、それを必ずしも理解していないということだ。
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 もちろん、旧憲法下では首相・大臣の任免権は天皇にあり、新憲法下のような国会での首班指名はなかったから、衆議院議員の総選挙があったからといって、その結果が直ちに新内閣の組成に結びついた訳ではないが、それでも男子普通選挙によってどんな民意が示されたのかは、(それを「キングメーカー」西園寺公望がどう受け止めたのかも含めて)その時代を理解するための手掛かりになる筈である。

 昭和2年の春に起きた前述の金融恐慌は、成立したばかりの田中義一内閣の蔵相・高橋是清による三週間のモラトリアム(支払猶予令)の実施や、片面だけの印刷ながら紙幣が銀行の店頭に高く積まれたことにより、5月には沈静化。他方、中国大陸では蒋介石の北伐が始まり、居留民保護のための第一次山東出兵がこの内閣で行われている。

 明けて1928(昭和3)年2月20日、第一回の普通選挙がいよいよ実施される。その結果は、総議席数466の内、政友会218、民政党216、その他32(内、無産政党8)というものであった。

「(中略)たしかに社会主義運動の弾圧はあったものの、(中略)第1回普通選挙の結果、無産政党の獲得議席はほんの数%しかなく、新たな有権者の大半は当時の二大政党であった政友会か民政党のいずれかに入れているのです。」

「無産政党に対する弾圧の結果、投票すべき政党を失った無産者たちが仕方なく政友会か民政党に票を投じたのではありません。新たな有権者の人たちにとっても、いわば泡沫政党の無産政党よりも、より政権に近い既存の二大政党のほうが自分たちの望む政策を実現してくれそうだと考えたからこそ、政友会か民政党のいずれかに投票したのです。」

「(中略)要するに、無産者も含めて、当時の国民の大半は政友会と民政党による政権交代可能な二大政党制が望ましく、それによって日本の政治は良くなると考えていたのです。」
(以上、引用前掲書)

 こうして議会で政友会・民政党がほぼ同数となった田中義一内閣。だが、満州の権益を守るために日本が支援していた満州軍閥・張作霖が蒋介石の北伐軍に敗れると、関東軍がその張作霖を爆殺する事件が発生。その真相究明と処分をウヤムヤにした田中が昭和天皇から強い叱責を受けて辞任すると、「憲政の常道」として、今度は民政党の濱口雄幸に組閣の大命が下る。1929(昭和4)年の夏のことである。
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 その濱口内閣が不況克服のために敢えて金解禁と緊縮財政を掲げ、軍事費も聖域扱いせずにロンドン海軍軍縮条約に調印したことは良く知られている通りだ。しかも、政権発足から半年も経たない内にニューヨークを震源地とする世界大恐慌が発生。景気が一段と悪化していく中で、翌1930(昭和5)年2月に第2回の衆議院普通選挙が行われる。それはまさに濱口と民政党の経済政策の信を問う選挙となった。

「(中略)たいていの政治家は票集めのために甘言を弄するのが常です。ところが濱口の民政党はそれと正反対のことをしています。つまり、有権者に対して『当面、景気はもっと悪くなる』と宣言しているのです。」
(引用前掲書)

 さて、その選挙の結果はどうだったのか。学校の教科書にはその記述はないが、実は戦前の昭和史を学ぶ上でここがまさにポイントの一つなのではないか。

「(中略)驚くべきことに、この1930(昭和5)年2月20日の衆議院選挙で、濱口の民政党は圧勝するのです。具体的には、民政党は衆議院の466議席中、過半数を大きく上回る273議席を獲得します。対する政友会は改選前から99議席減らして174議席です。
 この結果は、財界人や富裕層が民政党に投票したから、という理由では説明がつきません。まさに娘を売る決断を迫られたり、労働争議や小作争議に参加したりしかねないような人たちが民政党に投票しなければ、ここまで大勝できるはずはありません。」
(同上)

 現代の私たちは、その濱口と民政党の経済政策が結果的に大失敗であったことを知っている。世界大恐慌の発生以降各国が通貨安を競い合っているような時に金解禁を断行し、不況の中で財政緊縮政策を進めたことは明らかに逆効果だった。けれども、この時の総選挙において有権者は濱口の政策を支持し、敢えて苦い薬を飲むことを選んだのである。
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「この選挙結果は、当時はもちろん、現在の政党政治を考えるうえでも非常に重要です。要は、有権者が常に景気対策を望んでいることは確かですが、だからといって有権者もそう単純ではないのです。」
(同上)

 ところが、私の高校時代の日本史の教科書では、この時期に関する記述は以下のようなものだ。

「軍部・右翼および浜口内閣の協調外交に不満の諸勢力は、この条約(=ロンドン海軍軍縮条約)が統帥権干犯であるとして、はげしく政府を攻撃した。そして経済政策の失敗とともに、この内閣にたいする不信は政党政治にたいする不信となり、急進的右翼の台頭のきっかけとなった。そして同年暮、濱口首相は右翼の一青年に狙撃されて重傷を負い、翌年死亡した。」
(『詳説日本史(新版)』 昭和49年3月5日発行、山川出版社)

 昭和5年の普通選挙で有権者が苦い薬を飲む意思を示したことが全く割愛され、民政党の政策の失敗が(軍縮条約に調印したことも含めて)政党政治への不信に繋がったという風に読めるのだが、これはいかがなものだろうか。
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(狙撃された濱口首相)

 今の世界を見渡してみれば、世界中どこを見ても経済政策は「緩和頼み」だ。痛みを伴う改革が受け入れられることは滅多にあるものではない。それだけに、普通選挙法が制定されて2回目の総選挙となった昭和5年の衆院選において、我が国の有権者が打ち続く不況の中で敢えて苦い薬に一票を投じた姿に、私などはどこか瑞々しさを感じてしまう。更には、「政党政治への不信」を言うのなら、自分が与党の時代にはパリ不戦条約(昭和3年)に調印していた政友会が、野党になるとロンドン海軍軍縮条約の調印に反対したという事実、それも反対の理由として「統帥権干犯」という理屈を政党の側から持ち出したという事実、すなわち政友会側により大きな問題があったのではないか。

「有権者は本来、“政治の生産者”として民主主義を担う主権者であるはずです。受身の姿勢で自分たちに都合のよい政策を選り好みするのではなく、自ら政治に関わり、その投票行動に応分の責任や負担が生じることを自覚しなければなりません。
 同様に政治家も、ただ有権者の要求を聞き入れる、あるいは甘口の政策を弄するのではなく、日本社会の持続的な発展を見据えた上で、ときには痛みを伴う政策の有効性を訴える必要があるのではないかと思います。
 そういう意味では、濱口雄幸は、昭和恐慌の只中で『いまは耐えてください』ときちんといえる政治家であり、国民に対して誠実だったといえます。
 そのような濱口に共鳴し、彼の民政党に273議席を与えた当時の国民もまた立派でした。1930(昭和5)年の総選挙は、首相と国民が一体感を持って経済危機を乗り越えようとした事例として思い出されるべきです。」
(『教養としての「昭和史」集中講義』)

 教科書にあったように、濱口首相は昭和5年の暮に東京駅ホームで凶弾に倒れ、翌年(昭和6年)4月から若槻禮次郎が二度目の政権を担うのだが、その年の9月に満州事変が勃発。それへの対応方針を巡って閣内不一致が起きたために同内閣は同年12月に総辞職し、犬養毅の政友会に政権が戻った。民政党とは正反対に政友会は積極財政政策を掲げ、翌年(昭和7年)2月の総選挙で圧勝。だがそれも束の間、同年5月15日にその犬養は海軍青年将校の一団によって射殺されてしまう。
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 以後、戦前の昭和史において二大政党政治が復活することはなかったのだが、それはなぜなのか。多くの人々にとって、学生時代の授業では、特にここから先の昭和史は時間切れで全く教わらないか、或いは超駆け足になるか、その何れかではなかったか。だが、『教養としての「昭和史」集中講義』を読むと、ここからが本当の肝なのだと思う。
(To be continued)

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