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女帝の暑い夏 [歴史]


 7月10日(月)、カラ梅雨気味の首都圏は猛烈な暑さに見舞われた。太平洋高気圧が一時的に勢力を増し、あの九州北部豪雨をもたらした前線は、今は朝鮮半島の中部まで押し上げられている。首都圏は朝から真夏の干天で、最高気温のランキングには館林37.1℃、熊谷35.4℃、甲府34.4℃、東京・練馬33.8℃と、お決まりの地名が並んでいる。
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 私が子供の頃、昭和30年代の終わりから40年代の前半にかけては、いくら真夏といっても東京で気温が30℃を優に超える日が何日も続くなどということは、あまりなかったように思うのだが、古代の日本では、今頃はどれぐらい暑かったのだろうか。

 今から1372年前、すなわち645(皇極天皇4)年の7月10日というと、旧暦では6月12日にあたる。現在の奈良県高市郡明日香村では朝から大雨だったそうだ。

 この日は、新羅・百済・高句麗の三国から貢物を持参した使者を迎える「三国の調」の儀式が飛鳥板葺宮の太極殿で予定され、皇極天皇に従って大臣・蘇我入鹿も入朝することになっていた。この機を捉え、かねてより専横を極める蘇我氏の打倒を画策していた中大兄皇子・中臣鎌足らがクーデターを挙行し、宮中で入鹿を殺害。その翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷を屋敷の中での自決に追い込み、蘇我本宗家は滅亡した。言うまでもなく、これが後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革の口火を切ることになった「乙巳(いっし)の変」である。入鹿を討つために太極殿の柱に隠れていた中大兄皇子も、蒸し暑さに汗びっしょりではなかっただろうか。因みに、斬り殺された入鹿の死体は外に放り出されて雨に打たれたという。

 この時の天皇は前述の通り皇極天皇(594~661年)だ。皇室史上では推古天皇に続く二人目の女帝であり、しかもこの乙巳の変で一旦皇位を退いてから10年後に斉明天皇として再び即位、即ち重祚(ちょうそ)となった初めての天皇である。更に言えば、皇統系譜の中ではそれほど血筋が良いとも言えないのに皇位に就くことになった、ちょっと不思議な天皇なのだ。
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 第29代の欽明天皇以降、6世紀~7世紀前半に登場した歴代天皇の系図を眺めてみると、欽明天皇から敏達天皇へと世代交代が行われた後は、敏達 → 用明 → 崇峻 → 推古という兄弟間での皇位継承が続いた。(それ以前の応神王朝や継体王朝においても、兄弟間で皇位が継承された前例はある。)だが628年に推古天皇が崩御すると、敏達天皇の直系の孫にあたる舒明天皇が即位。皇位が一世代飛ぶのは異例なことだ。更に言えば、舒明の后となり、後に皇位に就く皇極の出自は歴代天皇とはいささか異なっている。

 皇極の父は、敏達の皇子(の一人)である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と、どの天皇の子孫なのかよくわからない漢王の妹・大俣王との間に生まれた茅淳王(ちぬのおおきみ)だ。そして母親は、欽明天皇の皇子(の一人)である櫻井皇子と名前も出自も未詳の女性との間に生まれた吉備姫女である。だから、皇極自身は皇統の系図の中では極めて傍流と言うべきものだ。それが、夫・舒明の崩御を受けて皇位を継承し、女帝となったのである。

 一般に家系図というものは世代間の関係を見るためには適しているが、時間軸がないので誰がいつからいつまで生きたのか、誰と誰が同時代の人間なのかといったことを読み取ることが難しい。そこで、前述の期間について歴代天皇の生存期間と在位期間を年表の中に図示し、そこに家系図的な処理を加えてみると以下のようになる。
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 敏達・用明・崇峻・推古という兄弟の中では、推古女帝の寿命の長さが突出している。何しろこの時代に74歳まで生き、在位は35年にも及んだのだ。その間に、生きていれば有力な皇位継承者だったはずの厩戸皇子(用明天皇の皇子、いわゆる「聖徳太子」)は既に病没していた。(蘇我氏も馬子から蝦夷を経て入鹿へと世代交代している。)推古の次が敏達の孫の世代に飛んだのは、そうした推古時代の長さが大きな原因であったのだろう。

 そして、敏達の孫の舒明が在位12年の後に48歳で崩御。その時点での後継者候補は、舒明と蘇我法堤郎女(ほほてのいつらめ)との間に生まれた古人大兄皇子、厩戸皇子の息子・山背大兄王(共に生年不詳)、そして舒明と皇極の間に生まれた中大兄皇子(当時15歳)だった。そうした有力候補がいる中で、皇位はなぜか后の皇極へと継承された。

 その皇極は3年半ほど皇位にあったが、645年、自分の目の前で蘇我入鹿斬殺のクーデターが起きると、たちまち降板して同母弟の軽皇子に譲位。これが第36代の孝徳天皇となる。それまでの皇位継承は前天皇の崩御を受けて行われていたから、皇極 → 孝徳は日本で初めての譲位となった。それにしても、傍流の皇極のそのまた弟が、よくぞ天皇になれたものである。

 クーデターから一週間後の7月17日(新暦)、日本史上で初めて年号が立てられ、この年が大化元年となった。孝徳は新たに造営した難波長柄豊崎宮を都とし、「大化の改新」としての諸々の制度改革が行われる。だが、それらを実質的に仕切ったのは皇太子の中大兄皇子だったのだろう。その皇太子は653年に都を飛鳥に戻すことを孝徳に建議。だが、それを退けた孝徳は一人難波宮に取り残されてしまい、失意の内に翌年病没したという。既に述べたように、その後は皇極が61歳で重祚して斉明女帝となった。
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(今は耕作地に囲まれた飛鳥の宮殿跡)

 推古天皇の在位期間である6世紀末から7世紀の初めというと、隋・唐という統一王朝が中国に現れ、その覇権が周辺地域に及んでいくという、東アジアにとっては激動の時代の始まりであった。それでも、中国から海を隔てた日本としては遣隋使を、次いで遣唐使を送り、というように「まずは中国に学ぶ」というスタンスでよかったのだろう。ところが皇極天皇以降の時代になると、唐帝国の覇権によって朝鮮半島が動乱の時代を迎える。「三韓」の中で最も劣勢に立たされていた新羅が生き残りを賭けて親唐路線に転換し、唐が進める「遠交近攻」戦略に敢えて乗っかることで、高句麗や百済への対抗を始めたのだ。

 そして、斉明天皇としての即位から5年。660年に唐と新羅が連携して百済に侵攻。百済国王が捕虜になってしまった。蘇我氏の時代から日本とは親交のあった百済は日本に救援を要請。放っておけば唐の覇権が日本に直接迫りかねない事態となった。

 これに対し、斉明女帝は直ちに百済の要請を受け入れ、中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)らを引き連れて難波から瀬戸内海を西走。伊予の熟田津(にきたつ)や博多を経由して筑紫国朝倉の朝倉橘広庭宮へと進む。661(斉明天皇7)年5月9日(新暦の6月11日)のことだった。しかし、その朝倉では宮の建築のために付近の神社の木を無断で伐採したことから、神様の怒りに触れて宮殿が倒壊。鬼火が出没し、病が流行したという。そして、既に68歳の高齢に達していた斉明は、この年の7月24日(新暦の8月24日)に朝倉宮で崩御した。それは、きっと暑い夏の日であったのだろう。唐・新羅連合軍に対して日本軍が惨敗した白村江の戦(663年)の2年前のことである。

 この朝倉橘広庭宮は、今月の九州北部豪雨で大分県日田市と共に甚大な被害を受けた福岡県朝倉市に位置している。(正確な場所はまだ比定されていないようだが。)朝倉は日田方面から西方へ流れる筑後川が形成した平野の北端にあり、標高300m前後の丘陵の南斜面を後背地とする、いかにも有史以前から人々が住みついていたであろう地形の中にある。斉明天皇も宮殿からこの肥沃な平野を眺めおろしていたことだろう。
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 その朝倉が、今年7月5日(水)に前例のないほどの豪雨に見舞われた。北上して来た梅雨前線に南からの湿った空気が吹き込み、この日一日だけで516ミリという、7月一か月の平均雨量の1.5倍近くの雨が降ったのである。(朝倉と並んで大きな被害を受けた大分県日田市ではこの日一日で336ミリ、ちょうど7月一か月の平均雨量に匹敵する量だった。)
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(2017年 九州北部豪雨 朝倉と日田の雨量)

 こうなると、北側の丘陵から筑後川の支流が幾つも流れ出るのどかな地形がかえって災いし、市内の各地で土砂崩れや河川の氾濫が相次いだ。道路の冠水で一時的に孤立した地区が幾つもあったのは、報道されている通りである。
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 今年の首都圏はカラ梅雨だが、本来ならば7月は大雨の季節。乙巳の変や斉明天皇の筑紫遷幸の経緯を紐解きながら、私たちの遥かな祖先も、この国のこうした気候の下で歴史を刻んで来たことを改めて思う。

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