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空虚な祝日 [季節]


 1969(昭和44)年7月20日というと、私が中学1年の夏の或る一日だった。私が通った中学の伝統行事であった「夏の海浜生活」、要するに臨海学校があり、私はこの日を挟む一週間を内房の富浦町で過ごしていた。この年は7月14日に関東甲信地方が梅雨明けを迎えており、とにかく毎日が真夏のカンカン照りだった、というのが私の記憶に残る冨浦での一週間である。

 この臨海学校にはとても長い伝統があって、私たちを指導してくれた先輩方(水泳部のOBが中心)はみんな褌(ふんどし)姿だった。海上に櫓(やぐら)を立てて飛び込みを教わり、日本の古式泳法を教わり、そして最後には生徒全員で4kmの遠泳。梅雨明け後の夏空の下でこんな毎日を過ごしたことは、もう半世紀近くも前のことなのに、今もどこかわくわくする思い出になっている。
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 さて、この年の7月20日は日曜日だった。臨海学校の真っ最中だったから当時の私たちに曜日の感覚はなかったが、実はこの日は、これから空の彼方で始まろうとしていることに世界中の人々が固唾を飲んでいた日曜日だった。サターンⅤ型ロケットで打ち上げられた米国の宇宙船コロンビア号が有人の月探査船イーグル号を切り離し、人類が史上初めて月面に降り立つという、いわゆる「アポロ11号計画」がそのクライマックスを迎えようとしていたのである。
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 イーグル号の月面着陸時刻は協定世界時の7月20日20時17分40秒。日本時間では翌21日の午前5時17分40秒である。当時としては当たり前のことながら臨海学校はテレビのない生活だったから、私たちはリアルタイムではこのニュースに接していない。しかしそれは引率の先生方から口頭で伝わり、当然私たち生徒の間でも話題になった。

 櫓の上から海に飛び込んで、しばし海の深さを全身に感じた後、再び海面に浮かび上がって息を大きく吸い込むと同時に視界に飛び込んで来る真っ青な夏空と白い雲。私たちがそんな日々を過ごしていた時に、その夏空の彼方では人類の新たな歴史が始まっていた訳だが、ともかくも7月20日といえば「夏の海」というのが、この時以来私にとって一種の刷り込みのようになった。そしてこの日は、関東甲信地方における梅雨明けの平年値でもある。

 それから四半世紀が過ぎて、1995(平成7)年の法改正で7月20日は国民の祝日になった。言うまでもなく「海の日」である。「国民の祝日に関する法律」によれば、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことが祝日制定の趣旨なのだそうだ。然らば、それが何故7月20日なのか。それは、この日が戦前から「海の記念日」に定められていたことに基づくものだ。

 今ではあまり語られることもないが、明治5年から18年にかけて計6回にわたり、明治天皇による地方巡幸が行われた。その内訳は以下の通りである。
  第1回: 大阪・中国・西国巡幸(明治5年5月23日~7月12日)
  第2回: 奥羽・函館巡幸(明治9年6月2日~7月21日)   
  第3回: 北陸・東海道巡幸(明治11年8月30日~11月9日)
  第4回: 山梨・三重・京都巡幸(明治13年6月16日~7月23日)
  第5回: 山形・秋田・北海道巡幸(明治14年7月30日~10月11日)
  第6回: 山口・広島・岡山巡幸(明治18年7月26日~8月12日)

 この内、明治9年に行われた第2回の奥羽・函館巡幸は、とりわけ大きな意味を持っていたのではないだろうか。何しろ、東北各地と道南が戦場になった戊辰戦争の終結からまだ7年、廃藩置県の断行からは5年しか経っていなかったのだ。

 西南雄藩の出身者ばかりが光を浴びる新国家の中で、ひとえに損な役割を負わされることになった東北地方。とりわけ旧会津藩の人々は、移住の地としてあてがわれた陸奥・下北の地で大変な苦労を背負って来た。他方、新国家といってもまだ憲法もない頃だから、この段階の日本は「立憲君主制」とも言えず、ひとまず「王政復古」をしただけの状態だ。まずは明治天皇自らが東北各地を訪れ、その存在を民に知らしめること、そして戊辰の戦役以来の怨念が残る地において民を慰撫するというプロセスが、どうしても必要であったのだろう。この巡幸が東北地方と函館をセットにしていることが、何よりも戊辰戦争を強く意識したものであったことを示している。
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(福島県下桑野村の開墾地に到着した明治天皇)

 巡幸に先立って、まずは先発隊が行先の調査を入念に行っており、この奥羽・函館巡幸では参議・大久保利通が自らこの先発隊の指揮を執った。大久保はその調査結果を本隊並びに留守を預かる三条実美に報告し、巡幸の本隊は皇族をはじめ、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった面々によって構成されたという。明治9年といえば西南日本で不平士族が不穏な動きを見せていた頃で、実際に10月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが起きている。そんな情勢の中、天皇巡幸のお供とはいえ新政府の高官たちが二ヶ月近くの間、よく政府を留守に出来たものだと思ってしまう。

 東北地方にはまだ鉄道がなかった時代。巡幸は基本的には馬車による移動だった。明治天皇御一行は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県の各地を巡った後、用意されたお召し船で函館へ渡り、帰路は三陸経由で横浜へ。この函館からの航海は三日連続の荒天だったそうだが、明治帝は最後まで泰然としていたとされる。

 この時のお召し船は明治丸と名付けられた鉄製汽船だった。明治の初年に各地に建設された洋式灯台のメンテナンスのため、灯台巡視船として新政府が英国に発注した船で、この巡幸の前年に日本に到着したばかり。要するに当時の日本にあった汽船としては最新鋭のものだった訳で、明治天皇を乗せたこの船が横浜港に無事到着したのが、明治9年の7月20日だった。これを踏まえ、昭和16年になって当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱によって7月20日が「海の記念日」に制定されたのである。(と言っても祝日ではなく、国民を挙げてお祝いするような日ではなかったようだ。)
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(東京海洋大学に保存されている明治丸)

 「明治天皇が船で横浜に着いた、それだけのことでなぜ記念日に?」と言うなかれ。そこは私たちなりに当時の日本の姿を想像してみるべきだろう。

 武家諸法度によって大型船の建造が禁じられてから200有余年。明治の日本はともかくも必要な汽船を外国に発注せざるを得なかった。優先順位としては軍艦、次いで物資を運ぶための輸送船だった筈だ。明治天皇が明治丸に乗船した明治9年というと、洋式の汽船で人を運ぶというのはまだ極めて珍しかった頃で、事実明治丸は客船ではなく、前述のように灯台巡視船だった。そして、明治天皇が軍艦以外に乗船した初めての船だったのである。しかも、函館からの帰路は三日続きの荒天だった。「よくぞご無事にご帰還あそばされた」というのが、新政府の高官たちの心境ではなかっただろうか。

 そして、明治天皇が明治丸に乗船したそもそもの理由であるところの奥羽・函館巡幸。そのことの重さを、私たちは理解する必要があるだろう。

 伝統的に天皇は京都御所の外には滅多に出ず、御所の中でも御簾の向こうで姿の見えない存在だった。明治帝の先代・孝明天皇まではそうだったのだ。それが明治維新で日本が王政復古を迎えたために、天皇は俄かに近代国家の君主として洋装になり、必要な場合には民の前に姿を現すことが求められるようになった。しかも、今回の訪問地は戊辰の戦の怨念が残る奥羽・函館である。途中から軍艦ではない船に乗り、帰路は三陸沖の荒波を越えていく三日間の旅だ。この巡幸の実施に踏み切ることは、明治天皇にとっても大きな決断だったのではないか。その大きな使命を無事に終えて、明治天皇は7月20日に横浜港に降り立ち、帝都に戻ることが出来たのである。

 「市民革命」の本家本元のフランスでは、フランス革命とナポレオン戦争で5百万人近くの死者を出したと言われ、その後も王政と共和制とを行き来したために争乱が相次いだ。それに対して、日本の戊辰戦争による死者は約1万5千人だったそうである。そして、日本が1871(明治4)年に廃藩置県という「ただ一つの勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一」し、駐日英国公使ハリー・パークスをして「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。」と驚嘆せしめた、その同じ年にフランスではパリ・コミューンの蜂起があり、一週間で2万人以上の犠牲者を出している。明治維新の少し前、米国では議会制民主主義の下で南北戦争(1861~64)が起こり、4年間で60万人超の死者を出した。更に同時期の中国は何をかいわんやで、太平天国の乱(1851~64)の死者数は2千万人を超えたとされている。

 明治天皇は奥羽・函館巡幸の道中において、沿道各県の県庁・裁判所・学校・工業関係施設・神社・墳墓など予め手配されていた箇所の視察に留まらず、農民の田植えの様子を見るために馬車を止め、田畑の開墾に関する農民の苦労話に耳を傾け、といったことにも意を用いたそうだ(無論、この機を捉えた天皇への直訴は固く禁じられていたが)。「中央集権国家」とか「近代天皇制」といったことをそもそも快く思わない人々には違う意見があるかもしれないが、生まれたばかりの明治国家が、ともかくもこうしたプロセスを経ることで地域間の確執を乗り越え、世界レベルで見れば極めて穏和に初期の地固めを進めて行ったことを、私たちは改めて認識すべきではないだろうか。天変地異が起きた場合も含めて、動乱期にあっても総じて日本の社会が安定していることは、今でも諸外国からの評価が極めて高いポイントの一つなのである。
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(田植えの様子を視察する明治天皇)

 この「海の記念日」がベースになった「海の日」は1996(平成8)年に施行された。(私自身はその年から海外赴任となったので、7月20日が休みになったという実感はなかった。)ところが、2003年に日本に帰任してみると、「ハッピーマンデー制度」とやらの法改正で、「海の日」は7月の第3月曜日になっていた。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という極めて漠然としたお題目だけが残ったまま、7月20日の「海の記念日」とは切り離されてしまったのである。

 「海の日」に関連し、海洋基本法には「国及び地方公共団体は、(中略)海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」という条文があるのだが、私たちが普通に暮らしていて、国や自治体がそういうことをしているという実感を持つことはまずないだろう(地域によっては「海の日」に関連したイベントがあるのかもしれないが)。明治天皇の奥羽・函館巡幸という歴史との繋がりが断ち切られてしまい、国民にとってはただ漫然と7月の第3月曜日が祝日になっただけ。要するにこれは単なる愚民化政策ではないのか。

 明治天皇のエピソードに因んだものであること、昭和16年という戦時体制下で制定された記念日がベースになっていることを忌み嫌う人々の言論を意識して、「海の記念日」との関係を敢えて希薄化させているのかもしれないが、それは本末転倒というものだろう。紀元節を「建国記念の日」、新嘗祭を「勤労感謝の日」などと言い換えているのと同根で、「国民の祝日」なのに国の歴史や伝統文化との繋がりをわざわざ見せないようにしている馬鹿げたやり方だ。これでは日本を知らない日本人を増やすだけである。

 さて、2017年の関東甲信地方は、「海の記念日」を待たず7月18日に梅雨が明けた。以後は連日の猛暑である。還暦を過ぎた私は、夏の海に行かなくなってもう久しいが、半世紀近く前に「海の記念日」を過ごした内房・冨浦の海は、今はどんな様子だろうか。

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